藤堂家 -前編-
 
 
 
 
 
*        *        *
 
 仏壇の前で、俺は激怒していた。
 怒りと同じぐらいの激しさで、悲しみが俺の裡にいる。息子の経をあげて、今日で三日になる。
 もう若い頃に枯らしたと思っていた涙が、搾り出されるようにこみ上げてくるのを感じて、きつく目を閉じた。平静を装った後に波が来るのは、昔から何も変わらない。
 片手で自らの頭を掴むようにして、力を込める。通夜や葬式に比べると、あまりにも静か過ぎる夜だ。
 無理もない事なのか、と自分でも思う。准至を亡くしてから、ようやっと一人になれたのだ。こみ上げるものがこみ上げてきて当然の頃合だろう。
 今まであれだけ、死者を弔う者達へと説教を重ねてきたというのに、そのどれもが自分に当てはまらない。どんな言葉も自分への慰めにはならないし、心底納得できる事はなかった。
 僧侶として、失格だろうか。人に悲しみから救う術を教えている身であるのに、自分自身が救われない。父の死も、母の死も納得できたというのに、准至の死だけは――。
「うっ……」
 声が漏れた。掌が涙で熱くなっていた。別に今ついさっきに何が起こったわけでもないのに、心臓が暴れまわっていた。
 必至に声を噛み殺す。仏壇の前で泣く住職があるかと言う想いとともに、息子を亡くして泣かない父親があるかという想いにも駆られて、息が詰まった。
 声に出さず経を読んでも、あまり効果はないようだ。ただ時だけがこの波を静めてくれると信じる事だけが、無力な俺にできる事だった。
 覚悟をしていなかったわけではない。准至が生まれてきて身体が弱いと分かった後に、自分よりも先に逝かれる可能性は考えた。体調を崩してうなされる度にそれを恐れ、入院して検査結果を医者から聞かされた時、もう諦めになっていたかも知れない。
 育て方と間違ったとは露ほども思っていないからこそ、後悔は大きい。それに、さっきから悲しみとともに押し寄せる怒りもだ。
 何故准至は幸せを手にしてすぐ、こうも悲劇が相次がなければいけなかったのか。俺は誰よりも准至を見てきたから分かる。あいつこそ幸せにならなくてどうするのだ。この俺も、家族さえ捨てて、それを目指したのではなかったのか。
 気がついたら強く歯を食いしばりすぎていて、頬にしこりができたような錯覚を覚えた。誰に当たるわけにもいかない怒りは、この裡に殺すしかない。
「……あなた」
 不意に襖が開く音がした。いつもなら廊下を踏む音で誰か来たか分かるというのに、その音にすら気付けなかった。
「志摩子を、抱いてやって下さいな。まだ一度も、抱っこしたことがないでしょう?」
 ひょっとしたら、ずっと襖の向こうで聞いていたのだろうか。洟をすする音を、聞いていたのか。俺はすぐには振り向けず、目をしばたいていた。
 情けない。子を亡くした悲しみは妻――佳也子も同じだというのに、消沈する俺を気遣っているのだ。女の強さというのを今ほど感じた時は、一度もない。
「ほら」
 悲しみを巧く隠した微笑で、佳也子は俺を促した。よくできた妻だとも思う。新しい命には、あらゆる力に溢れている事を知っているのだ。俺のようにしみったれた男にさえ力を与えて、尚有り余るほどの。
 咳払いしてから振り返ると、佳也子の腕の中で志摩子は両手を宙に遊ばせていた。それからじぃっと、俺の顔を凝視する。
 志摩子、俺の孫。まさかこんな形でしかこの子を抱くことになる事が悲しかったが、顔には出せなかった。赤子はひょっとすれば成人よりも、人の表情を読む。
「あー」
 佳也子から志摩子を受け取ると、俺は色々な物が身体のうちを流れるのを感じた。何もかもが混じりすぎていて、負の感情なのか、そうでないのかすら分からない。
 泣かれるかと思ったが、志摩子は泣かなかった。それどころか志摩子は俺の腕の中で、きゃっきゃと笑っている。赤子はもう眠くなってもいい頃だというのに、賢文が同じぐらいの時と勝るとも劣らず元気だった。それが悲観にくれていた俺にとって、大きな救いだった。
 俺が頭を撫でようと手を伸ばすと、それより早く志摩子はその手を取った。俺の皺くちゃの親指をその小さな手で握り、楽しそうに笑ったのだ。
「――っ」
 何故だろうか。今まで押さえつけていた物を取り払う強さを感じた。気がつけば、俺の目から大粒の涙が零れ落ちた後だった。
 しばらく俺の顔をきょとんとした顔で見ていた志摩子は、やがて大きな声で泣き出した。今までの厚い静寂を、いとも簡単に打ち破る。
 泣き出した志摩子を、佳也子は取り上げようとはしなかった。その頬に涙が伝うのを、俺は揺らぐ視界の端で見届けた。
 
 ――天使。
 
 異教徒の生んだ言葉が、俺の脳裏に焼き付いて離れない。
 
*        *        *
 
 准至の死後、俺は志摩子を孫ではなく、娘とする事にした。存外、母親側である笹原家が異論を唱えなかったし、檀家からの反発も軽微だった。
 そうした理由は、俺としてもはっきり言い切れなかった。志摩子が将来、両親がいない事を同情の目で見られたりするのを恐れたのも確かだか、准至から志摩子を頼まれた事もある。俺自身、家族を失った痛みを埋めるため――と言ったら言葉は悪いが、志摩子を正式に娘とする事でいくらか救われる事を信じていた。結局はその全てが、志摩子を娘にした理由なのだろう。
 俺たち家族が望んだ通り、志摩子はすくすくと育った。その様は太陽に向かって伸びる向日葵の如く真っ直ぐで、その成長こそが俺の、家族の抱えたどうしようもなさを癒してくれた。
「志摩子」
 花壇で庭弄りをしている志摩子に声をかける。振り返ったその顔は佳也子によく似ていると思ったが、賢文に言わせれば『産みのお母さん』似らしい。もっとも俺は、准至の妻の顔さえまともに覚えていなかったが。
「お父様」
 舌ったらずの声でそう呼ばれると、歯がゆくも甘やかな気持ちになる。子は息子ばかりだった俺にとって、それは目新しい感覚だった。
 志摩子は嬉々としてこちらに駆けてくる。新しい物を見つけた時の目をしていた。
「見てください。お花が――」
「その前に、志摩子」
 俺の太ももに顔をめり込ませんばかりの勢いで袈裟の裾を掴んだ志摩子を、頭を撫でながら制した。
「上着を着てきなさい。少し冷えてきた」
「はぁい」
 少ししょげた表情を見せて、志摩子は縁側から家に入って行った。言葉使いは大人っぽいが、こういう所は歳相応だ。
 俺は縁側に腰を下ろすと、はっと一息宙に投げた。夕暮れ時の空に、雁行する鳥が見えた。
 季節が幾度目かの春を迎えた所で、ようやく俺にも平穏な時が訪れたらしい。今では檀家の連中を相手に道化を演じて見せたり、時たまある講話の依頼でどうしたら受けるか考える事も苦痛ではなくなっていた。
 風が吹き、優しい葉擦れの音があたりを包む。
 准至を亡くしてからは一人で呆けていると、必然とばかりに悲しみが襲い掛かって来ていた物だか、この頃は一人でのんびりしているのも悪くないと思えてきていた。無論一人よりも、志摩子や賢文、佳代子が居れば尚いい。
 志摩子が居てくれて、本当に良かった。志摩子が生まれてきて娘にならなければ、今頃俺は何を考え、何に苦しんでいたのだろうか。考えるだけでぞっとする。
 だけどこうも考えるのだ。志摩子がいなかったら。今も准至が健在であったなら。俺は子を亡くすという、この身には耐え難いほどの痛みを知らずに済んだのではないか。
 今を否定するわけではない。志摩子の存在を、厭うわけもない。ただ時たま、そういう考えが頭を過ぎるのだ。
 俺は少し気になって、志摩子がつい先ほどまで土いじりをしていた場所まで歩いた。屈んでそこを見ると、見事なアリオギネが正面に向けて花開いている。
 ふと思うことがあって、俺は笑った。娘がいなければ、こんな気持ちになれないだろう。花を見て笑うとは、俺らしくもない。
 縁側の方を振り返ると、志摩子が賢文の手を引いて歩いてくる所だった。そんなに急くなよ志摩子、と文句を垂れる賢文の顔には、照れ笑いを隠したような困惑があった。
 ――これからだ。
 俺は他でもない自分に、そう言い聞かせた。これからようやく、俺は何の憂いもなく暮らしていけるはずなのだ。賢文は准至の意思をついだのか僧の道を目指して、期待していた以上に頑張っている。志摩子はあの通り、元気がいい。
 
 
 そんな風に安心していたからなのだろうか。この時の俺は、子たちの持つ葛藤を何一つとして知らなかった。そんな事があるはずもないと、露ほどにも考えていなかった。
 
 今思えば、俺の安心はまやかしだったのだ。それを知るのには、余りにも遅すぎたが。
 
 
 
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