藤堂家 -後編-
 
 
 
 
 
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 斯くして、俺達はまた家族三人の生活に戻った。厳密に言うなら手伝いもいるが、結局は何事もなかったような毎日が帰ってきたわけだ。
 いくつかの季節が流れるのに任せながら、俺は賢文までもがこの家を置いて去った事を考えていた。それほど俺や檀家の期待が、束縛や重圧になっていたのか。仏の道以外の道とは、一体何なのか。
 考えれば考えるほど、分からなくなる。俺が住職となった時、賢文が言うような迷いはなかった。親父と祖父が、文字通り命を賭して守ってきた寺に対する、忠誠心と言っていいぐらいの気概さえあった。
 一体何処に過ちがあったのか。一体誰が間違っていて、誰が正しいのか。考えれば考えるほど、答えは一転二転してまとまらない。
 諸行無常――つまりはそういう事なのだろうか。
 
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 賢文が家を出て、何度目かの春だった。昼間は初夏と言っていいほど暑く、夜になれば風に身を縮こまらせる。まさしく季節の変わり目の日。
 この頃は法事や葬儀が重なり、家には本当に寝に帰るぐらいの忙しさが続いていた。流石にこの歳になって二ヶ月以上休める日がないのは堪える――と思っていた所に、ぽっかり一日空いたのが今日だった。
 縁側に腰掛けてみる景色は、昔から何も変わらない。季節とともに見せる姿は変わっていくが、繰り返すのみ。ただ人だけが、違った姿でその景色に当てはめられる。
 俺や佳也子のぐらいの歳になると、そう一年や二年で変わらないものだが、志摩子は成長期だけあってその変化は顕著だった。久しぶりにあった檀家に至っては、「可愛い」ではなく「綺麗になった」と、まるで十年ぶりの成人した女に会ったかのような感想を持つのだった。親の贔屓目を抜きにしても、志摩子は確かに歳の割りに大人びていて、頭一つでて美しかった。
 志摩子には、俺は准至や賢文にしたように僧の心構え何だという教育はしなかった。賢文が出て行った今、そうする事は余りにも愚かに思えた。
 俺が志摩子に願う事は、ただ健やかに育って欲しい、ただ普通の娘として育ってくれればそれでいい。後は優秀な僧と結婚してくれさえすれば、何も言う事はない。
 普通の女の子がそうであるように、小さい頃からピアノを習わせた。普通、とは少し違うだろうが、佳也子の強い意向で日舞も習わせているから、こういう所も大人びて見られる原因になっているのだろうか。
 志摩子は庭の花壇に水をやりながら、肩まである髪を風に遊ばせていた。時々しゃがみ込んでは、話しかけるように花の顔を覗いている。
「志摩子」
 俺が呼ぶと、志摩子は冷たい冬の空のように澄んだ瞳でこちらを見た。もう昔のように、無邪気に駆け寄って来る事はない。
「すまんが、茶を淹れてくれんか」
「はい」
 佳也子がよくそうするように、スッと志摩子は目を伏せ、台所へと続く勝手口に向かって行った。こんな仕草まで、歳不相応に大人びていた。
 遠くを見やれば、空が茜色に染まって来ているのが分かった。もう少しすれば、寺を囲む木々のさわさわという音に、虫の声が混じり出すのだろう。
 こうして見る景色は昔から何も変わらないように見えるのに、不意に何もかもが変わったのだと思った。台所の方から廊下の軋む音が聞こえてきて、『否』と気付く。
「どうぞ」
 変わってしまったのは、きっと俺なのだ。若い頃は、もっと真っ直ぐだった。何の迷いもなく、何が間違っていたのだろうと、弱気になる事もなかった。
「おお、すまんな」
 俺の隣に茶を置くと、また奥まで引っ込んでいく志摩子の後ろ姿を見た。それが何故だか少し悲しげに見えたのは、きっと俺が悲しみを抱えているせいだ。
 准至の死や、賢文の半ば出家のような家出。未だに消化出来ない事ばかりが、俺の中でいつまでも影を差していた。
 
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 その日俺は、久しぶりに家で酒を呑んでいた。いつも帰るなり飯を食い、風呂に入って寝るだけの生活も、ようやく暇を見つけられるようになってきたのだ。
 佳也子の酌を受けながら、俺は気分が良かった。久方ぶりに味わうありふれた晩酌は、遠ざかっていたからこそありがたみがあった。
 しかし、これぐらいで根を上げてはやっていけない。俺の知人の住職など、半年以上も休む暇がなかったと言っている。過労だ、労働基準法違反だと不遇を訴える者は多々いるが、住職というのもそれに漏れない。
 だから、なのだろうか。賢文が、住職をまっすぐ目指せないのも。『何かやりたい事』の前では、住職という職は、ただ過酷に過ぎなかったのだろうか。
「あら、どこへ?」
 急に立ち上がった俺を見上げて、佳也子が言った。
「少し、歩いてくる」
 俺は卓袱台に乗せられた杯を掴み、その中身を一気に飲み干すと襖を開けた。閉じられたこの空間にいるのが、嫌で仕方がなかった。
 縁側にあったつっかけを履いて、庭に出る。寺を隠す竪蔀のように生い茂った木々の向こうから、葉擦れの音と虫の声が聞こえた。いきなりこの大音声を聞かされれば恐れおののくぐらいの大合唱だった。
 目を閉じて、林から鳴る波の音を聞いていると夏の海に来たかのような錯覚に陥る。昔からこの自然の音が好きだった。庭から見る星が、東京の中では一番だという自負もある。
 俺も爺になったものだ。昔は親父が風呂上りや酒を呑んだ後、庭に出て星を眺めながら火照った身体を冷ましているのを見て、『親父も老けたもんだ』と思っていたというのに。
「お父様」
 俺がバカみたいに上を向いて、惚けていたからだろうか。縁側に立っていた志摩子に気付いたのは、声をかけられた後だった。
「おお、どうした」
 自分でも驚くほど、陽気な声が出た。似合いもしない星など見上げて感傷に浸っていた自分が、嘘のようだ。この所志摩子は思い詰めた顔ばかりしていて、自分の方から俺に話しかける事はほとんどなかったから、必然と言えばそうかも知れない。俺にとって志摩子はそれだけの力を持っているのだと、改めて思い知らされる。
「お願いが、あるんですが」
「お願い? なんだ」
 ぶっきらぼうに言いながらも、俺は浮かんでくる笑みを押さえるのに必死だった。
 俺は殆ど何もと言っていいほど望まなかった志摩子が、『お願い』という言葉を使ったのがうれしかった。その慣れない『お願い』とやらの為にあんな思い詰めていた顔をしていたのがおかしくて、しかし少し不憫にも思った。
 志摩子の歳ならば、親に物をねだって当然なのだ。そんな普通の娘の、ありふれた願いならば、よろこんで受けようではないか。
「ここでは、ちょっと。お母様にも聞いて欲しいのですが」
 俺だけ丸め込んでは卑怯だ、とでも思ったのだろうか。お願いにわざわざ母親まで交えようとは、やはり志摩子は生真面目だ。
「わかった」
 俺は酒のさめた足で、ゆるりと縁側に上った。つっかけが地面をするその音でさえ、心なしか浮かれているように感じられた。
 
「私を勘当して下さい」
 そう言って三つ指をついた志摩子に、俺と佳也子は口元に笑みを浮かべたまま固まっていた。あまりに間抜けな光景だったが、そうせざるを得なかった。
「おい、何を言っている」
 志摩子は俺が声をかけても、頭を上げようとはしなかった。『お願い』という言葉に浮かれていた俺たちにとって、その『お願い』は強烈だった。
「志摩子、顔をお上げなさい」
 佳也子に言われて、ようやっと志摩子は顔を上げた。相変わらず思い詰めた顔で、両手を握り締めていた。
「まずはちゃんと話しなさい。どうしていきなり勘当してなんて言うの」
 佳也子までもが同じような顔をして、志摩子に聞いた。そうだ。それを聞かなければ、訳が分からない。
「シスターに、なりたいんです。十二になったら、修道院に入ります」
 それを聞いて、俺は「勘当してくれ」と言った時よりも強い衝撃に見舞われた。完全に停止しかけた頭が、ガタガタと震えながら再び動き出す。
 志摩子の意思は固い。だから「修道院に入りたい」ではなく「修道院に入ります」なのだろう。
 一体何が、まだ幼いと言っていい齢の志摩子に、修道女の道を志させたのだろうか。寺の娘なのが嫌で仕方がなかったというのか。――考え出すと暗い答えばかりを思いついて、俺は俺自身に辟易した。
「どうして、シスターになりたいんだ? 何か訳があるのだろう」
 俺は声が震えないように気をつけながら、そう言うのが精一杯だった。情けなさ過ぎて、むしろ滑稽だ。
 今頃気付いた。俺は恐れているのだ。志摩子までもがこの家を去ってしまう事に、どうしようもなく怯えている。
 准至や賢文が家を出て行った時とは、まるで違った。出て行け、と叫び散らしたような感情の激しさはどこにもない。ただ志摩子までをも失ってしまうかも知れないという事実が、俺をきつく締め上げた。
「一番最初は、生みのお母様の遺品だったんです」
 それから志摩子は、時折詰まりながらもどうしてキリスト教に興味を持ったかを語った。
 遺品のロザリオにただならぬ気持ちを抱えた事、家柄からしてよくないと分かっていても興味を押さえられなかった事、後ろめたく思いながらその教えの惹かれていった事。
 俺は聞けば聞くほど、胸が痛くなった。しかしそれは、俺の為の痛みではなかった。
 ――何故志摩子は、キリストという神に縋らなくてはいけなかったのか。
 それを考えると、俺は息も出来なくなる錯覚を覚える。まだ十一の娘が、家族や周りの全てを捨ててまで目指さなければいけないものなのか。それほどまでにこの家は――俺は志摩子を苦しめていたというのか。
 ただ、生みの母の血は濃かったというだけかも知れない。生みの母の事を忘れたくないが為に、母の事を知ろうとし、その教えに忠実に行きたいと願っただけなのかも知れない。どちらが理由にしても、志摩子は幼くして不条理に追い詰められている事は確かのように思えた。
「お前の気持ちは分かったが……」
 じゃあ勘当してやる、とは言えない。絶対に、言えるはずがなかった。
 いつの間に、こんなにも志摩子の存在が大きくなっただろう。志摩子までもこの家を去ってしまうと考えると、気がおかしくなってしまいそうだった。
「うちは寺だ。キリスト教について知るには、あまりにも機会に恵まれていないだろう。そう急いても仕方がないぞ」
 俺は志摩子に口を挟ませないよう、矢継ぎ早に言った。声とは裏腹に、俺は焦っていた。
「ですが、私の意思の固いのです」
「それは分かった。だがな、まずは何事も学ぶ事からだ。思いのまま突き進めば、いずれ壁に当たる」
 本当は、キリスト教に興味を持つ事すら許したくなかった。だがそれは余りにも拙い我儘であり、志摩子に対して酷い仕打ちだ。
 きっと志摩子は、いくら俺が説き伏せようとキリストに対しての考えを緩めないのだろう。聞き分けのよい子だが、これだけは譲らない。志摩子の目には、そう書いてある。
「学ぶにしても、私はこの家を出なければいけません」
「何をそう思い込んでおるんだ。別に寺の子がキリスト教徒であってはいけないなんて決め事はないのだぞ」
「ですが……とてもお父様やお母様に顔向け出来ません」
 その一言に、俺は一際強い胸の痛みを覚えた。この子の事だ、俺達の悪いと思うのもそうだろうが、檀家からどう思われるかまで考えて、そう言っているのだろう。
 だが檀家もそう頭の固い連中ばかりではない。この期に及んで志摩子を勘当したとなれば、そちらの方が明らかに風当たりは辛くなるだろう。
「志摩子、お前はそんな事は考えなくていい。少し頭が固すぎるぞ」
 俺はそう言いながらも、志摩子がそうなったのは誰の所為だと自分を責めた。この子をここまで追い詰めたのは、俺の行動全てではなかったのか。
「そうね、志摩子。あなたは自分を追い詰めすぎているわよ。もっと肩の力を抜いて考えなさい」
 佳也子はそう言ったが、志摩子は頭も身体もこわばらせたままのように思えた。宗教観がストイックなところが准至にそっくりで、俺は笑いたいのか悲しみたいのか分からなくなる。
「ならばキリスト教を学ぶ事については、許していただけるのですね」
 志摩子はそう言うと、ようやっと安心の欠片のような物を見せた。頭ごなしに否定されると思っていたのだろうか。
「ああ。望むのなら、カトリックの学校に入れてもいい。だから頼む。勘当してくれだとか、家を出るとか、言わんでくれ」
 ようやく、俺の口から素直な言葉が零れ落ちた。本当に、ようやくだった。
「そうよ、志摩子が何を信仰していも、あなたは私達の娘なのよ」
 ふと志摩子の瞳が潤むのが見えた。俺は目を逸らすように立ち上がると、襖を開けて居間を出た。
 もう一度星でも眺めようと庭に出た所で、背中に志摩子のすすり泣く声が届いた。娘の泣き声を聞くのは、本当に久方ぶりだった。
 
*        *        *
 
 志摩子がリリアンに進学して数年経った今でも、俺は時々己を呪う。それは罪を忘れない為の、癖のようなものだ。
 俺はこの手で、子らの未来を握りつぶそうとしていた。たくさんある道の中で、たった一つの道しか教えようとしなかった罪だ。
 俺は時々思う。最初から何も押し付けず、自由にさせてやっていたら。ひょっとしたら今もこの屋根の下、誰も欠く事のない一家団欒の時を過ごせていたのではないか。――都合のいい例え話だが、そう思わずにはいられない。
 
「いってきます」
 縁側で茶をすす俺の耳に、志摩子の声が届いた。朝餉の時は洋服を着ていたから、きっとまた学校での妹と遊びに行くのだろう。声で分かる。
 俺は今の志摩子が嬉しかった。肩の力が抜けた、以前よりずっと身軽に見える志摩子が嬉しかった。
 准至が言ったように、この寺はどうにでもなるのだろう。戦争があっても、何とか切り抜けた。それを考えれば、誰が継ぐなど小さい話のように思える。そう考えられるようになるまで、俺は随分と時間がかかったが。
 きっと我が子たちは、それがわかっていたのだろう。今の自由気儘な世間風の中で、敏感にそれを感じ取ったのか――とにかく自らの手で、未来を取りに行ったのだ。未来を待っていた、俺と違って。
 
 賢文も志摩子も、それぞれが結論を出すまでまだ時間がかかるだろう。それがどんな答えだろうが、俺は受け止めるつもりだ。
 ――だからお前も、自由にしろ。
 准至が賢文に語った言葉を、俺は思い出した。死の病の床で、准至は賢文を通して俺に語りかけたのだろうか。固い考えで苦しむ、俺を救うために――。
 
 
 
 
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