美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.22
 アフター・テイスト
 
*        *        *
 
 空からのほのかな明かりしか頼るものがなくても、祐麒にはそこにいる人がはっきりと分かった。
 走り周り、人を担ぎ、足腰はもうくたくただ。一歩歩くのにも、じくじくと足が痛む。川を渡る時に打った所が、今頃になって痛くなってきた。
 それでも、ここまで来れたのだ。そして待っていてくれた。待ち合わせの時間を二時間も過ぎても、聖さんは祐麒を待っていてくれたのだ。
「今日は、聖さんの方が早かったですね」
 そう言った瞬間に、パッと辺りが明るくなった。停電がようやく直ったのだ。眩しいほどのクリスマスの光の中で、世界が姿を現す。
 驚いた聖さんの顔が見えた瞬間、思わず笑みを溢した。そりゃこんなぼろぼろな姿じゃ、驚くなって方が無理だ。さっき気付いたけれど、アウターなんかまだまだ砂がついてたり、片足はビシャビシャと冷たいままだった。
 怒るかな? と思って聖さんの顔を見つめていたら、不意にその表情が崩れた。ほころぶと言った方がいいだろうか。そして気がついた時には、その顔は祐麒の横をすり抜けた。
「え――?」
 何が起こったのか、分からなかった。ただ祐麒の前には確かに聖さんがいて、背中にはその手の感触がある。聖さんに抱きしめられていると分かるまで、五秒はかかった。
「あの、聖さん?」
 なし崩し的にその背中に腕を回すと、身体が震えているのに気がついた。寒いのか、それとも泣いているのか、分からない。
「いいから、じっとしてて」
 振りほどくわけにもいかず、祐麒は今頃バクバクとうるさく鳴り出した心臓を感じていた。嘘だろって気持ちの中で、腕に力を入れて聖さんの存在を確かめる。
 夢心地、というのはこういうのを言うんだろうか。こんな風になれたらいいってことが現実に起こると、ぎゅっと心の入り口が狭くなって、幸せが逃げて行かずに満たされていく。
 そうして抱き合っていて、ひょっとしたらと思い当たる。本当にひょっとしたらだけど、安心して、思わずウルッときて、涙を見せない為にこうしているんじゃないだろうか。
「……聖さん」
 そんな涙なら、隠さなくていいのにと思った。そんな事で聖さんが涙を溢すなんて想像も出来なかったけれど、だとしたらなんていじらしいのだろう。
 ようやく背中に回されていた腕から力が抜けて、一歩距離を取る。改めて聖さんの顔を見ると、寒い中待っていたせいか頬は赤く、目も少しだけ赤い気がした。遠慮がち、というか、いつもの聖さんらしくない表情に、祐麒はまた心臓を鷲掴みにされてしまう。
 まずい――可愛すぎる。年上の女性に対して正しいのかどうか分からないけれど、気まずそうに目を伏せる表情に、すっかりやられてしまった。溢れ出しそうな感情が、もう止められない。
「聖さん」
「……何?」
「キスして、いいですか」
 自分でも信じられない事を言った。聖さんの顔が更に赤くなって、また驚きの表情を浮かべる。聖さんだって、充分百面相じゃないか。
「……調子に乗るな」
「じゃあいいです。こうしてるから」
 そう言って祐麒は、もう一度聖さんを抱きしめた。思っていたよりも小さく感じる身体を、力を込めれば折れてしまいそうなぐらい儚く見える背中を、ぎゅっと抱きしめる。
「ちょっと、祐麒っ」
 恥ずかしいのか、じたばたしようとする聖さんの背中を腕で包み込む。こんな時ぐらいしか、きっと抱きしめることはできないのだろう。分かっているから、止められない。満たされた気持ちを閉じ込めて、ずっとこの胸の中に聖さんを抱いていたかった。
「聖さん」
 大人しくなった聖さんの耳に、囁く。聖さんの細かな息遣いが、小鳥の囀りみたいに耳に届く。
「誕生日、おめでとう。こんな時じゃないと、きっと言えないと思うから、言いますね。俺、やっぱり聖さんの事が好きです」
「……祐麒」
 ゆっくり身体を離して、手はそのほっそりとした腕を掴んだまま、聖さんの顔を見つめた。何か言おうと動く唇が視線を奪って、離さない。潤んだ瞳に、祐麒が映る。
 なんて、愛しいんだろうか。気持ちが溢れ出して見えてきそうなぐらい、聖さんを思う気持ちは大きくなっていく。
 祐麒はゆっくりと、聖さんの肩に手を置いた。しっとりと滑らかに、その唇に吸い寄せられるようにして、顔を近づけていく――。
「……だから、調子になるな」
「いててっ」
 後数センチで唇に届くという所で、頬を摘まれた。両手で頬を抓られて、ぐいぐい引っ張られる。
「本当に祐麒は、油断も隙もあったもんじゃないね」
「いはい、いはいっ。はなひてくだはい」
 聖さんは頬の伸びた祐麒を見てぷっと吹き出すと、ようやく開放される。頬が冷え切ったところでぐいぐいやられるんだから、いつもの倍ぐらい痛かった。
「さてと」
 改めて向き直って、はぁっと息を吐いた。さっきまでは見えなかった真っ白な息が、光り輝くクリスマスツリーに向かって流れていく。
「今からでも、行こうか? 多分まだやってるでしょ、お店」
「そうですね。きっと大丈夫ですよ」
 そう言って、並んで歩き出す。てくてく歩いて、一分位経って、迷いに迷って。祐麒は何も言わずに、聖さんの手を取った。
「聖さんの手、冷たい」
「あのさ、祐麒の手の方が冷たいんだけど?」
「いいえ、聖さんの方がですよ。結構、待ちました?」
「結構じゃなくて、相当ね」
「……ごめんなさい」
 素直に謝った祐麒を見て、何がおかしいのか聖さんは笑った。自然と繋いだ手を振りほどこうともせずに、彩りを取り戻した町を歩いていく。
 
 会えなかった分だけ、手は冷たい。だけどそこから伝わる、温度とか量れるものじゃない暖かさが胸まで届いていた。
 それは光と一緒に溢れ出しそうぐらいの、幸せなんて言うありふれた言葉で。――祐麒は絶対に離さないって気持ちを込めて、聖さんの手を握っていた。
 
 
 
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