≫Chapter.21■■
ミラクルス
ミラクルス
* * *
これは困った事になった、と祐麒は頭を抱えていた。
乗り換える予定だった駅に着いたはいいが電車が動いてなかった、と言うのは、まあ予想していた。ただ線路沿いに行けばいいだけだと、そう思っていたのだ。
しかし実際はそうも行かない。川を渡る為の鉄道橋には入れないし、川沿いに歩いて迂回路を見つけても事故で通行止め。
この寒さで路面が凍結して事故が続発しているらしく、まさか橋を閉鎖する事態に至るとは予想外だった。徒歩でぐらい渡ってもいいんじゃないかと思ったけれど、事故が起こった直後らしく融通の利かない事態になっている。警察もこの非常事態の中で、ピリピリしていた。
じゃあどうするんだと思って見渡してみても、見える限りじゃ他に橋は無い。どこまでも続く車のテールランプを追いかけて、どこにあるかも分からない橋を探さないといけないのだろうか。
既にもう一時間の遅刻だ。これ以上先の見えないロスは避けたい。
ならばどうするか、と考えて思い浮かんだのは、堤防を降りてみるという選択肢だった。対岸との距離は大したことないし、どこか渡れそうなところがあるかも知れない。なければ河川敷から橋を探すだけだ。
プランを検証している時間はなかった。楽に降りられそうな所を見つけると、携帯の明かりを頼りに堤防を降りていく。相変わらず冷たい風はさっきよりも温度を下げていて、耳が千切れそうなほど痛い。
これ以上、道しるべとなる線路から外れても駄目だと思って、線路に戻る方向を選んで走りだした。川の上流から降りてくる風が、頬を叩くように吹き付けてくる。
必ずどこかに、方法がある。真っ暗闇の中でも、強くそう信じた。諦めるなんて言葉は、走っているうちにどこかに落としてきてしまったようだ。
やがて道しるべにしてきた線路の通る鉄道橋が見えてきて、その下のあたりに川幅の狭くなっている所を見つけた。あんな遠回りをしなくてもよかったのだと思うと、がっくり肩が落ちる。
渡れそうかどうか見るために携帯をポケットから出すと、サブディスプレイの横のランプが点灯している事に気がついた。画面には『不在着信 一件』の文字が踊っている。
携帯を開いて見ると、案の定電話をかけて来た人物は聖さんだった。慌てて電話をかけ返すと、呼び出し音がなる前にピピピと警告音がなる。画面には白の背景に『充電して下さい』というポップアップが表示されていた。
「くそっ」
繋がらないのに何度も電話をかけたり、携帯をライト代わりに使い過ぎたせいだ。これでほぼ完全に、聖さんとの連絡手段が途絶えてしまった。
川の水面を睨み付けると、足場になりそうな石を見つけた。その石の向こうにも、丁度いい所に大きな石が顔を覗かせている。助走をつけて飛べば、何とか向こう岸につけそうだ。
「はぁっ……よし」
十メートルぐらい川から距離をとって、駆け出した。トップスピードに乗って、水面の端を左足で蹴る。右足で一段目の石を、左足で二段目の石を――。
「う、わっ!」
左足が石に着いたはいいが、飛ぶために力を入れたところでずるりと滑った。傾いだ身体が川の中に突っ込むのだけは避けようと踏み出した右足が、心臓が飛び上がりそうなぐらい冷たい水につかる。
その上左足が対岸に届いたはいいが、靴が脱げ掛かっていたせいでバランスを崩し、湿った川原に向かって寝転がることになってしまった。砂利の上を転がって、髪の毛にまで砂が絡んでくる。
「ってて……」
一体、何をやってるだ。右足はしっかり水につかってしまって冷たいし、身体中砂と石まみれだ。こけた時に打った腰を摩りながら起き上がると、身体についた砂を払っていく。
手に埋まり込んだみたいになっている小さな石を全て落とすと、堤防の上を見上げた。身体の所々が痛かったけれど、意識しては負けだと思って、一息に駆け上がる。ここから線路に沿って行くことができる。何、後たった五駅分ぐらいなものだ。
祐麒は深く深呼吸した後、また走り出した。肺が悲鳴を上げて、足が動かなくなるまで、可能な限りのスピードで駆けて行く。
そうして何度か折れそうになる膝を立ち直らせて、駅を二つ超えた時だった。線路沿いの道が消えて、迂回路を通らなければいけないところで立ち止まった瞬間の事だ。
「助けて下さい!」
立ち止まっている祐麒を、散歩中の人か何かだと思ったのだろうか。そう言って腕を掴んできたのは、十代と思しき女の子だった。何だこれは、ドラマのワンシーンとかで、悪漢に襲われている所を助けるっていう、あれか?
そう思って見渡して見ても、他に人影は見当たらない。今にも泣きそうな表情で縋り付いてくる女の子を、祐麒は「落ち着いて」と宥める。
「父が、歩いている途中で突然倒れて。私一人じゃ、運べないんです。救急車を呼んでも、数が足りなくて、いつ着くか分からないとかで、お願いです。父を助けて下さい、凄く苦しそうなんです」
「わ、分かった」
人命が掛かっているんじゃ、仕方ない。あの交通状況じゃ、救急車もまともに動けていないだろう。
こっちです、という女の子に腕を引かれて走って行くと、一つ角を曲がった所で中年男性が壁に身体をよりかけて座り込んでいた。苦しそうに、胸の辺りを掻き毟っている。
「お父さん、もう大丈夫だからね。今病院に連れて行くから」
「よし、じゃあそっちを持って。この近くに病院はある?」
「あっちの方に。二キロぐらい離れた所です」
祐麒は男性の左側から身体を支えて立ち上がると、女の子が指差した方向に向かって歩き出した。なるべく身体に障らないように、なるべく急いで。
病院に向かっている間、祐麒は聖さんの事を一時も考えなかった。もうこの街中が、そんな場合ではなくなってしまっていた。
* * *
駅に着いてみると、案の定祐麒はいなかった。
電車が動いてないのだから、当たり前と言ったら当たり前だった。今一体どこにいるのか分からないが、早めにつくように向かっていても、相当離れた所にいる事は間違いない。
もう一時間ぐらいは待っただろうか。外の空気にさらされ続けた耳はじんじんと痛いし、露になっている膝から下の部分も風を感じる度にしゃがみ込みたくなる。
明かりが消えた駅のロータリーには、暗いクリスマス・ツリーが飾られている。折角のイルミネーションも、電気がなければ飾りにさえならない。
果たしてこんな事態になってまで、祐麒がこちらに向かっているのかは分からない。電車に乗っている最中だったら、ずっと閉じ込められている可能性もある。
待ってばかりいるのももう限界になってきて、聖は携帯電話を取り出して祐麒の番号を呼び出した。耳に当てるとコール音が聞こえて、電話は使えている事が分かった。数回のコールの後、プツッとその音が途絶える。
「もしもし?」
『おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が――』
お決まりとなったアナウンスを、途中で切った。繋がったと思って「もしもし」なんて言ってしまった自分が、ちょっと虚しい。
携帯電話を閉じて、空を仰ぎ見た。真っ暗だけど、それだけじゃない。日本中でもっとも明るいだろう東京が停電してしまったお陰で、星はいつもより輝きを増している。ぼんやり見える建物たちはみんな、星明りが作り出しているのだ。彩りはないけれど、呆れるほどロマンティックじゃないか。
はっきりと自覚できるほど確かに、今聖はドラマの中にいるのだろう。クリスマスの夜に、来るとも知れない男を待っている女。まあ聖の気持ちはどうあれ、状況だけみたら砂を吐きそうなぐらいドラマに満ちている。
本当にもう、来ないんじゃないだろうか。というか普通に考えたら、歩いてまで来ようと思わないだろう。聖もこんなところで一人で待っていないで、パーティ会場に戻って父を安心させた方がいいのだ。
そう思って動きかけた足は、しかし地に張り付いたように動かない。本気でそうしようなんて、微塵も思っていないからだ。
「はぁ……」
こうして白い息を吐いていると、また思い出してしまう。どうして待ち合わせの場所を、駅になんてしてしまったのだろう。
あの日もこんな風に寒くて、ひたすら待っていた。信じて、信じて、ただ待っていた。身体が芯まで冷えてしまっても、私は待ち合わせの場所から一歩も動かなかった。
ひょっとしてこれは、二の舞になるのだろうか。いつまで待っても来なくて、今回はお姉さまの代わりに、父が迎えに来るんじゃないのか。
そう思うと、身体よりも先に心が温度を奪われていくような気がした。十分、二十分と、時間が経つほどに、殊更に冷たく。
不意に祐麒の顔を思い出す。そうして自分が強く願っている事に気がついた。
来て欲しい――。それが露骨で正直な気持ちだ。
別に聖は、焦がれるほど祐麒が愛しい訳じゃない。ただ、だだをこねる子供みたいに、一人が嫌だった。普段で一人でどこに行くにしても寂しさなんか覚えないのに、今ばかりは耐え難いほどにそう思う。
遅れてすいませんって謝る顔でも、今日は聖さんの方が早かったですねって笑う顔でもいいから、見せて欲しい。あの愛嬌のある顔で、安心させて欲しかった。
これほど人が恋しくなったのは、きっとあの日以来だ。今頃東京中が非常事態なんだろうけど、聖の頭の中も非常事態であることは間違いない。
冷たくなった両手を、ぎゅっと握り締める。さっきまでこの手の中にあった温もりは覚えているのに、上手く思い出せない。握り締めても、上手く力が入らなくて隙間風が忍び込んでくる。
こうして黙りこくって、待ち呆けてもうどれだけ経ったのだろう。待ち合わせの時間から、もうすぐ二時間だ。こんな事になって目的の店がちゃんと営業しているか分からないし、そもそも予約した時間を遅れに遅れている。
きっと君は来ない――そんな有名なクリスマス・ソングのフレーズを思い出す。周りに誰もいないのをいいことにぼそぼそ歌ってみて、バカみたいだと思っていても止められない。
そっと、目を閉じた。そうしても、景色はほとんど変わらない。夜の冷たさをより深く感じて、思わずブルっと震えた。もう、凍えそうだ。
きっともう、戻った方がいいのだ。こんな寒い中待っていたら、風邪を引いてしまう。今戻ったら、パーティ会場にあった暖炉が、暖かく迎えてくれるだろう。
そう思って目を開けた時、まっすぐこちらに向かってくる人影があった。ぼんやりとした星明りの下で、その輪郭がはっきりしていく。近くに来るまでまって顔を確かめるまでもなく、それが誰か、聖には分かった。
「今日は、聖さんの方が早かったですね」