美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.20
     クリスマス
 
*        *        *
 
 車内が騒然となってから、およそ三十分が経とうとしていた。これからすぐに復旧したら、何とか聖さんを待たせず済むという時間をもうとうに過ぎている。
 電車が急ブレーキをかけた時は悲鳴とどよめきに満ちたこの車両だったが、車掌の落ち着き払ったアナウンスが流れてからは笑い声が聞こえてくる余裕さえあった。勿論それはクリスマスの日に起こったハプニングを楽しんでいる一部の人だけで、祐麒のようにこれから予定がある者に取っては堪ったものではない事態だ。
 復旧までしばらくお待ち下さいとのことだが、おそらくまだまだ動かないだろう。何故なら電力の供給が途絶えたのはこの電車ではなく、この『街』だからだ。
 見渡す限りの薄闇。その中でパニックが起こらずに済んでいるのは、電力の供給がなくても点く非常灯と、携帯があるからだろう。まばらについた光の中で、人の囁き声だけがやけに耳につく。
 しかし、そろそろこれも限界だ。聖さんに電話をかけようとしても混雑しているのか繋がらないし、五分毎のアナウンスの中身は一向に変わる様子がない。
 確か、電車の扉はそれほど重くなかったはずだ。こういう非常事態に開けられなかったら、問題だし。
 そう思いついてしまったら、どうにも動かずにはいられない気分になる。扉の近くにいたのをいい事に、こっそり力を掛けてみると、案の定動く気配がした。吹き込んだ隙間風に気がついた人が、こちらを見る。
 こうなったら、もうやるしかない。体重を乗せて扉を開くと、「あ」という声が聞こえた。車内からは絶対に出ないで下さい、と言われていたから、咎められるだろうか。
 だけどそんな事を気にしている時間もない。祐麒は電車から飛び降りると、塀の向こうのビルたちをみた。高架橋に吹く風は強く、冷たい。
 このままでは電車の中まで冷たい風が吹き込み続ける事になってしまうと思い当たって扉を閉めようとすると、祐麒に続いて一人、二人と電車を降りてきた。祐麒と同じ事を考えていた人は、一人じゃなかったという事だ。
「もう降りる人はいない? じゃあ閉めようか」
 祐麒の次に降りてきた人がそう言うと、外に出た者同士で力を合わせて、電車の扉を閉めた。締める間際に、若い女の子たちの声で「がんばれー!」とエールが届く。
「よっしゃ、じゃあ走ろうか。みんな急いでるんだろう?」
 最後に出てきた、四十歳ぐらいと思われる男性がそう言うと、頷いてみんな走り出した。車外に出た祐麒たちに気付いた車掌が、後ろでピピーッと笛を鳴らして何かを叫んだけど、強い風の中で何を言っているのか分からなかった。
 何だか、楽しくなってきた。それは祐麒だけではないのだろう、一緒に走っている他の三人も、自然と笑みを浮かべている。
 緩やかな曲線を描く線路の上を走りながら、夜空を仰ぐ。東京中の光が消えてしまったからだろうか。夜空に浮かぶ星たちはいつもより明るく、そして澄んでいる。
 聖さんも、この星空を見ているだろうか。それともまだ暖かいパーティ会場の中で、貼り付けたような笑みを浮かべているのだろうか。ひょっとしたら向こうの方も停電して、それどころじゃないかも知れない。それでも足を動かす速度は緩まらない。
 やがて見えたホームを這い上がり、人々の奇異の視線を掻い潜って改札を飛び越える。駅員の方は手が回らないのか、こちらの方に気付きはしていたけれど、手を伸ばしただけで何も言わなかった。
「じゃ、これで」
 駅から出ると、二人が別の方向に走って行った。それから乗り換える予定の駅の近くまで走ったところで、最後の一人も「そっちも頑張ってな」と行って角を曲がって行った。
 ランナーズハイは、まだ続いていたけれど、息が続かない。冷たすぎる空気が肺に送られる度、軋むように痛む。
「はぁ、はぁっ……はぁーっ」
 少し、休憩だ。汗だくで走ってくる祐麒を、少なくとも聖さんは喜ばないだろう。走るのを止めて歩き出すと、今まで見えなかった色々な物に気がついた。
 クリスマスの夜に訪れたハプニングに浮かれた連中が、高らかにクリスマス・ソングを歌い、携帯のライトを点灯させて振り回している。真っ暗になった店の前で、店主らしき人同士が「堪らないよな」と愚痴っている。
 走るのを止めると、ゆっくりと身体が冷えてくる。いつもよりずっと寒いんじゃ、と思ったけど、考えて見れば当たり前だ。電気を頼りに存在していた熱源が、ほとんど全部無くなってしまったのだから、ヒートアイランド現象と逆の事が起こっても不思議じゃない。
 信号が消えて大渋滞している交差点で、道を渡れずにいる人たちが団子になっている。それをまた掻い潜るようにして前に出ると、大きく両手を振り上げて強引に渡りだした。クラクションを鳴らされるけれど、気にしない。さっきまでクリスマス・ソングを声高に歌っていた連中が無理に交差点を渡る祐麒に気がついて、奇声と両手を挙げながら付いてくる。それに便乗して、交差点で溜まっていた人たちがぞろぞろと道を作る。
 不謹慎だろうけど、気分がよかった。目的の為に手段を選ばず突き進むのは、快感だった。
 今夜は星が掴めそうなぐらいに、空が近い。息が整い、身体が冷え出す前に、祐麒はまた暗闇の中を走りだした。
 
*        *        *
 
「お姉ちゃんは、サンタさんなの?」
 これは困った事になった、と聖は頭を抱えていた。街中が停電して、もう三十分は経ったろうか。その間に起こった事と言えば、説明すれば簡単な事だ。
 まず、暫く立ち呆けていた私の腰の当たりに、頭突きをしてくる女の子がいた。つまりは走っていたけれど聖に気付かず、突っ込んできたのだ。
 聞けばその女の子は真っ暗の中でかくれんぼが出来ると思って走り出したはいいが、かくれんぼの鬼、つまりこの子のお母さんから身を隠すことに成功し過ぎてしまったらしい。早い話は迷子だ。
 お母さんは? 分かんない。どこにいるの? 分かんない……。別に問い詰めるような口調で言ったつもりではなかったけれど、段々不安になってきたのか、女の子は声を上げて泣き出してしまった。
「ねえ、お姉ちゃんはサンタさん? お髭は?」
 で、宥めすかすのに苦労してようやく泣き止んだと思ったら、これだ。どうも私をサンタと間違えて、泣き止んだらしい。
 よくよく自分の服装を見てみれば、確かにサンタ・カラーの服装をしているのだ。暗闇の中ではキャメルのカシミアのコートが白と見間違えても仕方ないだろうし、その下から覗く赤いドレスと合わせてみればサンタさんの登場だ。それにしては、赤と白の比率が反転してしまっているが。
「そうだよー。今日はあいにく手ぶらだけど」
「えー?」
 女の子はそうブーたれながらも、何が面白いのかきゃははと笑い出した。サンタさんに会えて、嬉しいんだろうか。
「サンタさんて、お爺さんじゃないの?」
「私はサンタの孫で、手伝いだからお爺さんじゃないのよ」
「へー。お姉さん偉いんだ。でも私も、お母さんの手伝いするよ?」
「そうそう、そんな感じ。私はね、夜にみんながお家にいないとプレゼントが渡せないから、あなたみたいな子をお母さんの所に連れて帰るのが仕事なの」
「本当に? これって運命?」
 なんだか使いどころの間違った台詞がおかしくて噴出しそうになりながら、聖は笑いを堪えて「そうだよ」と頷いた。泣き止んでお母さんの所に戻ろうとしてくれるなら、多少のフィクションは、この場合ファンタジーに変わるだろう。
「じゃあ、お母さんを探しに行こうね」
「うんっ」
 素直に頷いた女の子と手を繋いで、真っ暗の街を歩き出す。何してるんだろうと思いながらも、少しだけ楽しくなっている自分がいた。
 ふと祐麒の顔がよぎったけれど、多分向こうも同じ状況だろう。電車も動いてないだろうし、この分じゃ祐麒の方が遅刻するのは確実だ。
 迷子の女の子の手は、私の手よりずっと小さくて、ずっと暖かかった。さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、彼女は上機嫌だ。
「お姉ちゃん、名前はなんて言うの?」
「聖、だよ。聖なる夜の聖。サイレントナイト・ホーリーナイトって歌、知ってる?」
「うん、知ってる。英語のね、塾で歌ったの」
「その『ホーリー』を日本語にすると、『聖』になるの」
「へぇー。サンタさんって、日本に住んでると、日本人みたいな名前になるんだね」
 それは聖が日本人離れしているという顔をしているから、なんだろうか。どうもこの女の子は、名前だけ日本人の外国人だと思っているらしい。思わず苦笑する。
「あなたは、なんてお名前なのかな?」
「私はねー。さりな。漢字はね、難しいよ。まだ書けないの」
「そっか」
 笑いながら、光の消えたクリスマスツリーの横を通り過ぎる。携帯電話のライトや、誰かの懐中電灯が街の切れ端を照らすたび、自分がさっきまでどれほど明るい場所にいたか気付かされた。
 だけど、こうも思う。こんな状況にならなければ、この小さな手の温もりを知ることはなかっただろうし、この純粋さに触れることも無かっただろう。
 さまよい歩く様に、街を歩いていく。人待ちに使われそうな場所を探したり、交番の場所を調べたり。そうこうして、二十分ぐらいは経っただろうか。暗闇の向こうから駆けてきた人影が、「さりな!」と叫んだ。
「ママー」
 てっきりお母さんに会えた安心感で泣き出すかと思っていたけれど、さりなちゃんは元気よく駆け出すとお母さんに飛びついた。これにて一件落着、というやつか。
「もう、どこに行ってたの。急に走り出したりしたら駄目じゃないの」
「ごめんね。でもサンタさんが、ママのところまで連れてきてくれたよ。これって運命だよ」
 泣き出しそうな表情で自分の娘を抱きしめているお母さんとは正反対に、さりなちゃんは嬉しそうに聖のことを話していた。離した手が少しだけ寂しくて、だけど心の真ん中の方が温かい。
「まあ……本当になんてお礼を言っていいのやら。こんな状況で、この子の面倒を見て下さるなんて」
 さりなちゃんのお母さんは改めて聖に向き合うと、深く頭を下げた。こうして思いっきり感謝の意を述べられるのは、正直ちょっと苦手かも知れない。
「よかったら、お名前を住所を教えて頂けませんか? ご迷惑でなければ、お礼の――」
「いえいえ、結構です。私はサンタですので、住所を教えるとプレゼントのリクエストがばんばん届いてしまいますから」
 数十分やそこら面倒を見ただけで、そこまでして貰うわけにはいかない。聖は子供の夢を壊さない、という意味も含めて冗談ぽくそう言うと、さりなちゃんのお母さんは目を丸くした後、「まあ」と笑った。
「そうですわね。本当に、本当にありがとうございました。ほら、さりなもお礼を言いなさい」
「お姉ちゃん、ありがとう」
「いえいえ。その代わり、今日はちゃんといつも通りの時間に寝るのよ? そうじゃないと、プレゼントを貰えないかも」
「えー、それはやだー」
 そうやって一頻り笑って、何度も「ありがとうございました」と言われて、聖はさりなちゃん親子と別れた。また来年ね、というさりなちゃんの笑顔は、きっとこの先忘れられないだろう。
 
 街はまだ、ずっと暗闇の中にいる。
 だけど聖は、その中でしか見えない光を見つけた。その中でしか手に入れられなかった温もりを胸に、駅への道を再び辿り出す。
 
 
 
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