美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.19
   メリー・メリー
 
*        *        *
 
 待ち遠しい日がある時ほど時間を長く感じる時はなく、過ぎ去ってみれば短かったと思う時もない。
 クリスマスと呼ばれる日は予報通りの晴れ。そして今冬一番の寒さとなって、誰にも均等に訪れた。
 結局、小林からの誘いは断った。当たり前だけど、聖さんとの約束の方が大事だ。小林はぼやいていたけれど、奴も祐麒と同じ立場になってみれば同じ選択をするに違いない。
 いざ待ちに待った日がやってくると、昨日までの高揚が不思議なぐらいの落ち着きに変わっている。浮き足立っているのに違いないはずなのに、頭は冴え渡るほど自分を沈着に保とうとしていた。
 実際こうして電車に揺られてしまえば、もう迷う事もない。と言うか、そもそも迷う事なんてほどんどないのだ。プレゼントは無し、と約束した以上、それを選ぶので迷うこともないし、あるとすれば精々着て行く服ぐらいなものだ。それも色々試行錯誤した結果、背伸びしても駄目だと思って普段学校に着て行くような服にした。
 
 いくつもの光が車窓を過ぎて、どこもかしこもかしましい。クリスマスじゃなくても光に溢れた街なのだから、無理もないだろう。落ち着き払っていようとした頭も、魔法をかけられていくみたいだった。
 今日の行き先は、少し遠い。せっかくクリスマスなんだから、という意志があったのかどうかは分からないけれど、普段の行動範囲から離れた、郊外の洋食屋が目的地だった。これから一度電車を乗り換えて、更に都会と呼ばれる場所から遠ざかる方面まで行った駅が、今日の待ち合わせ場所だった。
 もうちょっと近い場所で合流した方がいいのだろうけど、あいにく聖さんの予定が会わなかった。急な用事ができたのだ。
 最近知ったことだけど、聖さんのお父さんは数年前に会社を立ち上げたらしい。ああ見えて聖さんは社長令嬢であるわけで、今日はお父さんに連れられていわゆる『社交場』に出席することになっている。今日はそれを途中で抜け出して祐麒と合流するから、辺鄙と行っていい場所が待ち合わせ場所と言うべきだ。
 最初その話を聞いた時はてっきりキャンセルされるのかと思ったけれど、聖さんは予定を無しにすることを由としなかった。先約を取り付けていたのは祐麒だったけど、そこまでして約束を守ってくれたことに安心しなかったと言ったら嘘になる。というか、もの凄く嬉しかった。
 その選択が聖さんの義理堅さによるものなのか、それとも祐麒の約束に重さがあったのかは分からないが、とにかく約束の時間は近づこうとしている。そろそろ乗り換えの駅の時間かと思って携帯を取り出そうとすると、待ち受けていたかのようにポケットの中から振動が伝わってきた。取り出してみれば、小さな液晶にメールが届いたことを知らせる画面が表示されている。
『十分ぐらい、遅れるかも』
 そんなそっけない内容のメールなのに、送信者の欄に聖さんの名前があるだけで、何故だか満たされた気持ちになった。クリスマスの魔法というのも強烈だろうけど、恋の魔法というのはさらに強烈であるらしい。
『了解です』
 聖さんが時間を気にするなんて珍しいなと思いつつも、短くそう返して携帯をポケットにしまった。さっきまで感じなかった電車の揺れの感覚が、ふっと戻ってくる。
 手持ち無沙汰に窓の外を見ていると、酷く時間の流れが遅いように感じた。何か文庫本でも持ってくればよかったのだろうけど、そんな気分でもなかったから持って来ていない。クリスマスなんだから、クリスマスの気分を味わっていればいい――と、そう思うのは、多少なりともロマンチストだからなのだろうか。
 ゆっくりと停車して、扉が開く。その上に設置された液晶で現在地を確認すると、乗り換えの駅まで後一駅というところだった。みんなそこで乗り換えるつもりなのか、降りていく人よりも乗ってくる人の方が多い。
 やがて扉が閉まり、ゆっくりと電車が走り出したその時だった。遠くの空に、流れ星が見えたのだ。
 気付いたのは祐麒だけだったのか、車内から「流れ星」という単語は聞こえてこない。何だか少しだけ、得した気分だ。
 光の余韻が残るような、黒に染め上げられた空。それを見つめていると、突然電車はブレーキをかけた。よろけて足を踏み出したところで、視界の端に街の光が消えて行くのが見える。
 人々の声が、悲鳴と動揺に変わった。浮き足立った心を地に落とすように、辺りには空の色が広がっていた。
 
*        *        *
 
 ほとんど千葉と言っていいぐらい都心から離れた所にある父の関係会社の社長宅には、二メートルを越すクリスマスツリーが飾られている。
 初めて社交場としてのクリスマス・パーティとやらに出席したけれど、これは中々、映画の中の世界みたいじゃないかと関心した。だけど、中身は酷いものだ。無理に着せられたキャバ嬢の服みたいなドレス姿を綺麗と褒められても嬉しくないし、次々とどこかの社長子息やら役員の息子やらと引き合わされる。興味の欠片もそそられない高尚な趣味の話を聞かされたり、逆に色々訊かれたりするのは、ドレスのキツさもあいまって拷問だった。
 その上これは、「まだ紹介したい人がいる」とかで、延長戦確実であるらしい。こっそり祐麒に向けてメールを打ったはいいけど、送信する直前に仕舞わなくてはいけなくなって、結局送れてもいない。
 だけど考えて見れば、こんな時ぐらいしか父への親孝行はしてやれないのだ。これが親孝行になっているかどうかは、父の顔を見ればすぐに分かる。家にいる時よりも、十倍は楽しそうだ。
「私、そろそろ行かないと」
 人が切れたタイミングでそう言うと、父は笑顔を崩さないまま言った。
「友達とご飯を食べに行くだけなんだろう? 何、ちゃんと事情を話せば分かってくれるさ。こう言っちゃ悪いが、この場に長くいる方がお前に取っていい事があると思うが」
 ――と、こんな調子だ。さっきから何度、同じ事を言えば気が済むんだろうか。
 女子大に通っているから、というわけじゃないだろうが、父はその友達が男であるなんて微塵も考えていないだろう。ましてや自分の事を好きだと言って来ている男に、そんな詳細な事情を話すほどバカじゃない。
 娘の笑顔が本物か偽者か見抜けない父と一緒に、次々と社交辞令のキャッチボールをこなしていく。今すぐここを出れたって、十分弱の遅刻は免れない。
「もういいぞ。引き止めて悪かったな」
 時計を気にするそぶりをおよそ三十回ぐらいしたところで、ようやく父はそう言ってくれた。満足そうな笑顔が、少し憎たらしい。
「そう、じゃあ行くわ」
「本当に送っていかなくていいのか? このままじゃ遅刻だろう」
 そうさせたのは誰だ、と思いながら、かぶりを振った。下手に送って貰って顔を合わせたりなんてしたら、何を言われるか分かったものじゃない。
「いいの。多分、友達も遅刻してくると思うから」
 あまり上手くも無い嘘をついて、聖はわき目も振らずパーティ会場を出た。すかさず襲ってきた寒さは手加減など一切なく、外気にさらされた素肌から体温を奪っていく。
 お気に入りのコートに腕を通して、急いでボタンを止めた。雪が降ってもおかしくないぐらい空気は冷たかったが、幸いなことに天気予報じゃ完全に晴れの予定だった。
 不意に思い出して、聖は携帯を開いた。さっき書いたメールの『五分』を『十分』に変えて、送信ボタンを押す。おかしな話だ。いつもは時計なんかみないのに、今日がああだったせいで、本来やるべきことがちゃんとなされている。
 住宅街を抜けて駅が近くなっていくにつれ、寒さは和らいでいくように思えた。建物が密集してきて、風に晒されることが少なくなったからだ。
 着慣れないドレスのひらひら具合を気にしながら、光に溢れた店の前を歩いていく。レコードショップもブティックも、店員の心情はしったこっちゃないが、どこも楽しそうだ。
 駅のロータリーから続く通りの角にファミリーレストランが見えて、不意に懐かしさと、チクリとした痛みを覚えた。もう数年と一日前のことなのに、まだどこかに棘を隠しているらしい。
 暖かそうな店内で談笑する人々を見ても、今日は何も思わない。聖は今から、向こう側の人間になりに行くのだ。あの拷問から抜け出せた事と、今からあんな風に気楽に笑える事を思ったら、祐麒には感謝しないといけない。
 道なりに歩いて行くと、何かが視界の端っこを通り過ぎた。吸い寄せられるように空を見上げると、雲ひとつ無い夜空に星々が光っていた。
 まるでこちらに気を利かしたみたいに、隣のビルから光が消えた。空は一層近くなって、星の明かりが際立つ。
 夜空に浮かんでいるような気分になって、それを振り払うように前を向いた。そこでようやく、勘違いに気が付いた。
 
 隣のビルは、明かりを消したのではない。
 そのビルも、その隣も店も、明かりを消したのではなく、消えたのだ――と。
 
 
 
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