≫Chapter.23■■
どこに行こう
どこに行こう
* * *
年が明けて、もう何回この店に来たのだろうか。
冬休みも半ば。わざわざ学校に来る用事もないのにここまで来ては、凍えそうになった身体をコーヒーで暖める。忙しい冬の中でクリスマスから新年へと季節の装いが変わっても、人間いつもする事には変わりがない。
「おー、あったかい」
ついさっき店に来て祐麒の隣に座った聖さんは、届いたばかりのカップを両手で包んでいた。上機嫌そうに、湯気を飛ばす。
「入れたてのカップそんなに握ったら、熱くありません?」
「いーや、別に。祐麒って猫舌ならぬ猫手なんじゃないの?」
聖さんはそう言って、熱いコーヒーの一口を飲んだ。かすかに動く白い喉を、祐麒はこっそり見ていた。
そう、クリスマスが終わっても、年が明けても、何も変わりはない。あの日抱きしめたことも、手を繋いで歩いたことも、お互い無かったみたいに、いつも通り。
だけど確かな違いを、祐麒は確信していた。最初に告白した後の息の詰まるような「変わらなさ」ではなくて、今はずっと心に余裕のある「いつも通り」なのだ。
「ねえ」
黙って最初の五口を飲んだ後で、聖さんが言った。
「この後寄ってきたいところあるんだけど、いい?」
聖さんは小さな子供に話しかけるように、優しく目じりを下げてそう言った。小さな微笑の奥に、楽しさを隠しているような表情だった。
「いいですよ」
祐麒は聖さんの誘いに、即答した。ことわる理由なんて、あるわけがない。
いつも通りを装っていた以前なら、必要以上に一緒にいることはさけていた。こうした小さな変化を見つける度に、祐麒はステップアップできているような、そんな嬉しさがこみ上げてくる。好きだってちゃんと伝えて、こんなに自然に一緒にいられるなら、別に悪い気もしなかった。
「行き先は訊かないの?」
「いいです。訊いても教えてくれそうな顔してなかったから」
祐麒がそう言うと、聖さんは顎に手をやって難しい顔をした。何で分かった? って顔だ。
「私、百面相してた?」
「してないですよ。俺が何となく、そう思っただけ」
聖さんの懐疑の視線を振りほどくように、祐麒は残り少なくなったコーヒーを口に運んだ。冷めても美味しいコーヒーが、優しい温度で喉を滑り落ちる。
本当はこの頃、聖さんの表情から考えている事を読み取れるようになってきた。当たったり外れたりだけど、そうして少しずつ彼女の事を理解できるようになっていくのが、純粋に嬉しかった。
ただ残念なのは、聖さんを知れば知るほど、聖さんという存在に慣れていく事だった。一緒に居て落ち着けるようにはなったけれど、ふとした表情にドキドキする事は少なくなってきている。聖さんほどの美貌に慣れてしまうのは、凄く勿体無い気がした。
「うーん」
納得がいってないって事がよく分かるような仕草で、聖さんが頭を揺らした。肩から零れた柔らかそうな髪が、艶やかに流れる。
「そう言えば」
「うん?」
祐麒はそう言って何気なく聖さんの髪の先を指で持ち上げて、本当に自然にそうしたことに驚いて、そして彼女がそれを嫌がらなかったことに安堵した。
「聖さん、髪伸ばしてます?」
「あー、うん。だって前祐麒――」
聖さんはそこまで言って、ハッと口を閉じた。祐麒の頭の中に一瞬浮かんだ疑問は次の瞬間吹き飛んで、仕舞ってあった記憶が呼び起こされる。
あの時の言葉を、今でもよく覚えている。ガールフレンド同伴飲み会に行く前に、聖さんは『好みの女性像』を訊いて来て、祐麒は最後にこう答えたのだ。
「髪の毛は長い方がいい、って言ったから?」
「なっ……」
言い留まったまま口を閉じていた聖さんは、噴き出すようにそう言った。初めて見る表情、かも知れない。
「ひょっとして聖さん、俺の好みに合わせてくれようとしてます?」
聖さんが何も言わないのをいい事に調子付いてそう言うと、柔らかな毛先を撫でていた祐麒の手が振り解かれる。
「ば、バカじゃないの。確かに祐麒がそう言ったのもあるけどね、私は長い方がよく見えるのかなーって思ってそうしてるだけよ。別に祐麒の為じゃないんだからね」
「聖さん、顔赤いですよ」
「……っ!」
聖さんは一瞬祐麒から視線を振りほどくと、次の瞬間には片手が伸びていた。
「いはっ、いはいっ」
照れているのか、それとも寒い中歩いて来た後で熱い物を飲んだから、頬が火照っているのか。ほのかに赤くなった聖さんは、睨みながら祐麒の頬を抓っていた。
「私をからかおうなんて、いい根性してるじゃないの」
「ほんなほほ……」
そんなことない、と言おうとした祐麒の頬は、ぐいぐいと引っ張られて視界まで揺れる。抓る力はかなり本気で、それは聖さんの気が済むまで続けられた。
「いたた……聖さんって、照れ隠しに相手の頬をつまむのがクセなんですか?」
「……今度は両手でつねられたい?」
祐麒がブンブンと頭を振ると、睨み続けていたままの聖さんはプッと噴き出した。少しづつ、優しい表情が戻ってくる。
「本当、最近調子付いちゃって。あーあ、祐麒はやっぱりここに置いて行こうかな」
「聖さん、それはないですよ」
情けない台詞が出てきた祐麒に、聖さんはまた笑った。火照っていた頬から赤みが引いたのが、少し残念だった。
「どうせ荷物持ちに必要だったり、一人じゃ行きにくい場所なんでしょう?」
「さーて、それはどうかな」
意地悪な笑みの向こうに本当の笑顔が見えて、祐麒はギュッと心が満たされていくのを感じた。ちょうどそれは、心の中の湖で人魚を泳がしているような気持ちだった。
店を出ると真冬の風が二人の間をすり抜けて、思わず身震いした。今日の風は痛いほどに冷たい。
「うー、さむ」
自分を抱くようにして肩を立てた聖さんを、横目で見ていた。長い髪がぱっさぱっさと、肩の辺りを叩いている。
結局何度好きだと伝えたって、友達という関係に変わりはなくて、返事だって変わらない。手を繋ぐことも、抱き合うことも、まるで夢の話だ。
それでも確かに、祐麒は前に進めている気がした。それを測る物差しなんてなくても、それは絶対だった。
気持ちは晴れ渡るほど、はっきりと決まっている。抱え込んでいた悩みなんか、時折見せる笑顔の前に吹き飛ばされてしまった。
――想い続ける。
それは酷く甘やかで、時折に辛辣で、それでも止められない。かけられた魔法を自分で解くなんて、不可能だ。
祐麒は「はぁっ」と短く白い息を吐き出しながら、手を握り込んでその温度が低くないことを確認する。今度は手が冷たいなんて、言われないように。