美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.17
    スタート地点
 
*        *        *
 
「ユキチさ、最近元気ないな」
 それは校舎から一歩踏み出した途端、背中に届いた声だった。「哀愁が漂っているぜ」という追い討ちに振り返ってみれば、小林は着込んだジャケットの襟を立てている所だった。
 十二月頭の風は昼間だと言うのに冷徹で、耳たぶがしくしくと痛む。そう言えば今日は、この一週間で一番冷え込むと言っていた。
「寒いからな」
 軽く笑って、その声すらまるで『元気がない』のに自分でも呆れた。テンションが上がらない時と言うのは、本当にとことん上がらないものなのだ。
「ずばり言うけどさ、まるで女の子に振られたみたいだぞ」
 まるでじゃなくて、ずばりその通りだ。苦い笑いを噛み殺して、祐麒は「アホか」と言うのが精一杯だった。
 思い出すたびに、心は疼く。何も言わなくても小林にまでバレてしまうとは、どうも思っていたよりダメージは大きいらしい。
「ひょっとして図星か? しかしだな、そんなユキチに朗報があるぞ」
 だけど小林は祐麒の様子なんか気にせずに、浮き足立った調子で話を続ける。何とも幸せな奴だ。近頃テンションの高い奴を見るたびに、卑屈だと分かっているけどそう思う。
 正直、まるで底辺にでもいる気分なのだ。浮上したくても、事あるごとに自分が沈んでいる事を思い知らされて、だんだん億劫になってくる。悪循環の中にいて抜け出したいと思っているのに、空回り。まるで蟻地獄だ。
「……なぁ、本当に大丈夫か?」
 反応を返さないでいるのを訝しく思ったのか、小林は祐麒の肩に手を掛けて無理矢理振り返らせた。それが妙に気に障ったけれど、その感情すらすぐに萎む。
「何がだよ」
 丁度校門を出た所で、祐麒と小林は対峙した。はっきり言って、もうこれ以上ほじくり回さないで欲しい。
「俺と同じ事、アリスも言ってたんだぜ。話したくないならいいけどさ、あんまり塞ぎこむなよ」
 急に言葉の調子が変わって、少し驚いた。さっきまでの浮き足立った様子は祐麒の為だったと気付いて、またまた情けなくなる。
 自分の中の問題なのに、友達に気を使わせるなんて最低だ。一体何をやってるんだろうって、頭を抱えたい気分だった。
「……悪い」
 だけど、全てを話すかどうかは別の問題だ。頭の中はまだまだ整理できていないし、想いを断ち切るべきなのか、それとももっと頑張るべきなのかという事さえ定まっていない。
 行き詰っているなら人に相談すべきなのだろうけど、決断を委ねるわけではないにしろ、その相談した相手の意見と言うのは必ず結果に干渉してくるだろう。結局は自分で決めるというのに、その結果如何によっては誰かのせいにしてしまうかも知れない。それは避けたいし、純粋に触れて欲しくない問題だ。我ながらデリケートだと思うけれど、それが本心だった。
「ま、いいさ。本当に必要な時は言ってくれるだろうしな」
 それっきり、祐麒も小林も黙ってしまった。小林はそれを払拭するように歩き出すと、二歩遅れて歩き出した祐麒に振り返って言った。
「で、そんなユキチに朗報なんだが」
 さっきまでのシリアスな顔とは打って変わって、小林の顔には悪巧みでもしていそうな表情が浮かんでいた。何なんだ、この態度の豹変っぷりは。
「まあ訊くまでもないけど、クリスマスの予定は立ってないんだろ?」
 その言葉は確信に満ちていた。そしてそれは確かに事実だった。
 クリスマスと言えば、聖さんの誕生日だ。なんで知っているかと言えば、祐巳情報以外の何ものでもない。何を気を利かせているんだか、テレビを見ながらぼそりと教えてくれたのだ。
 しかしそれを知ったって、祐麒は行動を起こせないでいた。そもそもあれ以来聖さんには会っていないし、きっと予定だってあるんだろう。祐麒が黙っているのを肯定と判断した小林は、浮ついた調子で続けた。
「そこでばっちり、虚しいクリスマスを過ごさないでいいって話だ。まあ早い話がコンパなんだけど」
 それもそれで、虚しいクリスマスなんじゃないだろうか? そう思った祐麒を見て、小林は鋭くその表情を読み取った。
「あ、お前今それも充分虚しいって思っただろ? けどな、クリスマスに女の子と一緒に居られるだけマシだぞ。聖夜に自分の部屋でポツンと一人、なんて悲劇だぞ」
 ――と、まあそこまで言われれば、頷かざるを得ない。マシと言ったらマシなのかも知れないが、参加するかは別だ。
「で、どうする? もう俺はユキチを頭数に入れてるんだが」
「……まあ、気が向いたらな」
 そう言って祐麒は、「じゃあな」と手を上げて角を曲がった。あの喫茶店に続く道だ。
 その道を曲がるイコール、コーヒーを飲みに行くと知っている小林は、そこまでついてこようとはしない。祐麒が一人の時間を楽しみに行っているのを、知っているからだ。……時々二人になるのは、多分知っていないだろうけど。
「頼むぜ。もう人数伝えてあるんだからな!」
 背中に届いた大きな声に、祐麒は手を振って応えた。多分というか、まず行かないだろう。
 正直こんな気持ちで、そんな場所には行けない。今日だって、振られたっていうのにまた聖さんに会えたらななんて気持ちで、あの店に向かっている。
 恋に傷ついた心には新しい恋、なんて、きっと嘘だ。もしすぐにその通りになったって、それは前の恋が偽物だったって証明するだけだろう。傷は根深いほど、治りづらい。
 気がつけば目の前にはいつものあの店があって、扉越しに見慣れた背中が窺えた。ぴりりと背中が緊張するのを覚えて、祐麒は慎重になって店の扉を開けた。
 カランコロンと、小気味のいい音がする。来店を告げるベルの音は、いつだって軽快だ。
「いらっしゃいませーぇ」
 いつもの間延びしたマスターの声に、少しだけ緊張がほぐれた。祐麒はゆっくり店内を歩いて、その背中が聖さんのもので間違いないのを確認する。
 そしてカウンターの席まであと一メートルという時になって、祐麒の頭に閃きが横切った。それは下らない、本当に何気ない遊び心であり、臆病を紛らわす手段だ。
 ――トントン、と聖さんの左肩を叩いて、その右の席に座る。だけど聖さんはちょっとだけ左を向きかけて、祐麒が席に着くなりこちらを向いた。
「甘いね」
「うえ」
 腰掛けた瞬間、聖さんは祐麒の頬にプスっと人差し指を刺した。何するんだと思ったけど、祐麒も似たような事をやったのだ。
「祐麒も割りと、くだらない事が好きなのねぇ」
「……聖さんに言われたくないですよ」
 だって、聖さんの真似なのだから。くだらないけど、これは成功だ。だって祐麒は、こんなにも自然に聖さんと話ができている。
「でもよく俺だって分かりましたね」
「ドアを開ける時の勢いで、なんとなく分かるんだ。ベルの音が、祐麒のだったから」
 なんとなく優しい表情でそう言われて、祐麒は心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。ちょっとその台詞は、ズルいんじゃないだろうか。
 祐麒はカウンターの中のマスターに「モカブレンドを一つ」と頼むと、椅子に座りなおした。先にコーヒーを揺らしていた聖さんのカップには、まだ並々と黒い液体が店内を映している。
「もしかして、俺を待ってたとか?」
「祐麒、それはうぬぼれ過ぎだ」
 ふっ、と笑って、聖さんはコーヒーを一口飲んだ。カウンターの中では、マスターがゆっくりとポットの中にコーヒーを落としている。
 なんだ――と自分でも安心した。思っていたよりずっと普通に喋れているし、信じられない事に軽口さえ叩く余裕もある。祐麒も打たれ強くなったものだと、我ながら感心するぐらいだ。
「あー、やっぱりこの季節はコーヒーが美味しいねぇ」
 流れそうになった沈黙を追い出すように、聖さんが言った。丁度祐麒の前にも、いつものモカブレンドが届く。
 口元までカップを持っていって、ふぅっ、と息を吹きかけると、いい香りの湯気が冷えた鼻先に心地よかった。いつ飲んでも美味しいコーヒーを一口飲むと、何も変わっていないんじゃないかと錯覚する。
 ――本当に、変わってしまったんだろうか?
 そんな事さえ思う。口に出した事で、聖さんへの気持ちははっきりしたけれど、やっぱり前から好きだった事には違いない。振られたことで更に好きになるとかもなかった。そんなのもっと辛くなるだけだから、自分でもセーブしているんだろう。
 安心するのと一緒に、何か怖い気もした。これじゃ『振り出しに戻る』のと違いない。もう会わない方がいいなんて言われるよりはマシだったけど、結局祐麒の気持ちは「なかった事に」って感じで、緩やかな拒絶でもあるわけだ。
「確かに、本当に身体の芯から冷えてる時の方が美味しいですよね」
 相槌を打ちながら、漠然とした虚しさが胸に広がっていく。どうすりゃいいんだ、と焦る気持ちすら沸いて来ないことが、何だか情けない。
 一体、何をどうしたいんだ。聖さんの顔を、まともに見れやしない。
 さっきまで胸を満たしていた安心感にも似た嬉しさは、すっかり消え去ってズキズキした痛みに変わっている。コーヒーの味も、どことなく平坦な気がした。
 
 ふぅっ、とコーヒーのカップに息が注がれる音がする。横目で見た聖さんは、何か言いかけるように口を開いて、そのままコーヒーを飲んだ。
 その表情はどこか遠くを見ていて、それが自分に向けられていない事だけは、はっきりと分かっていた。
 
 
 
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