美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.16
      冷たい風
 
*        *        *
 
「それ、美味しい?」
 一通り映画について語った後、聖さんはフォークで祐麒の手元を指した。フォークには真っ赤なミートソースがついている。
「そこそこ」
「ふーん、じゃあいいや」
 美味しいですよ、という答えを期待してたのか、そう言うと聖さんはまた自分の皿へとフォークをさした。その右手の横には、拭ったばかりの赤が映えるナプキンが置かれている。
 聖さんが選らんだこの店は、大衆店ほど安っぽくはなく、正装をして行かなければいけないほど高級な店でもない、その真ん中の中級店だった。それでも学生には贅沢が過ぎると思ったけれど、目が飛び出るほど高いというわけではない、言ってみればコストパフォーマンスの高いお店だった。
「聖さんのは?」
 祐麒が尋ねると、聖さんは難しい顔をした。
「うーん、分かんない」
 それでも手はずっと動いているんだから、不味いという訳でもないんだろう。祐麒が頼んだペペロンチーノも、味が上品過ぎて不味いと言い切るには不味くなく、美味しいと言い切るには舌が慣れない気がしたけれど、それは聖さんも同じだったのかも知れない。そう言えばこの店には、二十代のカップルの姿がほとんど見当らなかった。
 確かに店の内装はシックだし、BGMもジャジィな曲が多い。中高年の夫妻が舌鼓を打つところなのだと、パスタを食べきるぐらいになってようやく理解した。
「でもあれですよね、聖さんのチョイスらしい店です」
「それって親父臭いってこと?」
「いや、玄人好みっぽいなぁって事で」
「ふーん、物は言いようだね」
 そう言って薄く笑うと、聖さんはさらりと視線を横に流す。それが妙に女性的な仕草に見えて、聖さんから視線をもぎ離して手元に更に戻すのに苦労した。
 こうやって喋る時間は充分にあるってのに、まだ肝心な事は訊けていない。というか、訊いていい物なのかさえ分からない。
 わざわざ聖さんの方から誘ってきた理由は何なのだろう。あの時の事は忘れて、いつも通りに戻す為なのか、ただ単に気が向いたからなのだろうか。
 祐麒としては、あの時の涙の理由を知りたかった。だけどそれを祐麒の方から訊いてしまうのは酷く不躾だし、話したくない事を話させるという事にもなりかねない。
 結局祐麒に出来ることはそれとなくあの日の、芋煮会の話題をそれとなく出すぐらいなんだろう。少々姑息だと思うけれど、本当に知りたいと思うなら、そうするしかない。聖さんが言いたくないなら当たり障りのない範囲で芋煮会での出来事について喋るだけだろうし、聞いて欲しいならあの時の事を話してくれるだろう。
「うーん、結構お腹いっぱい」
 聖さんはパスタを食べきると、背凭れに背中を預けた。ナプキンの綺麗な部分を使って、唇の端についたミートソースを拭う。
 祐麒も真似して背凭れにもたれ掛かると、丁度食後にと頼んだコーヒーが届いた。凄いタイミングのよさだ。
「デザートをお持ちしてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい」
 祐麒がそう答えると、ウェイターは「畏まりました」と言って辞去した。なるほどこう言うサービスの行き届いた部分も、『玄人好み』だ。
「はぁ」
 と、そんな軽めのため息を落とすと、聖さんは手持ち無沙汰に店内の様子を見回した。何か面白い物はないかな、という風でもない、単なる隙間の埋め合わせみたいに。
 こう言う沈黙は、今まで何度もあった。気にするほどでもない、会話が始まってしまえば覚えてもいない、授業の内容をノートに書き取る時に入れる、一行の空白みたいなものだ。
 だけどその空白行には意味がある。流れを変えるという、重大が役目があるのだ。
「私さぁ」
 聖さんは空白行の後に、言った。
「蓉子に振られちゃった」
 
 ――会話が凍りつくという表現は、こう言う時に使うのだろうか。
 バカみたいに口を開いたままの祐麒の前に、これもまた『凄いタイミングの良さ』で、ウェイターが食後のデザート並べ、辞去して行った。その間の空白には、流れを変える力はない。
 何だ。何て言ったらいい。振られたって何だ? 振られるには、振られる為のアクションが必要だ。それってどういう――。
「あの時、見てたでしょ?」
 あの時、という単語で、涙が零れ落ちるシーンがフラッシュバックする。抱きしめてしまいたいと思ったあの衝動さえ、零れそうなほど祐麒を満たしている。
「あの時」
 動揺が、解けない。何も分かってない人みたいに、復唱するぐらいしか、反応が返せない。
「そう、あの時だったの。多分、何言ってたかは知らないだろうけど」
 流れ出すような言葉の意味に、ようやく祐麒の頭も回り始める。思い描いた過程とは違うけれど、思い描いた結果がすぐ先に見えていた。
 コーヒーを持つ手が震えそうになるのを感じて、祐麒は自分の度胸の無さに愕然とした。やっぱりまだ、何の心の準備も出来ていない。
「難しいもんだね、色々さ」
 そう言って横に流した瞳がやけに切なくて、急にギュウギュウと胸が締め付けられるのを感じた。
 分かっている。悔しくて、妬ましいのだ。聖さんにそんな目をさせる事が出来る人が。聖さんから好きという気持ちを向けてもらえる、その人が。
 その人が女性でよかったと思った。これが男だったら、何かバカな事でもしでかしそうだ。ただでさえ、聖さんの言葉の意味にこれだけ動揺している。
「自分の事を好きになってもらうのが、こんなに難しいとは思わなかった。……私って、そんなに魅力ないの――」
「そんな事!」
 独白めいた言葉に、祐麒は思わずそう返していた。突然トーンが変わった声に、聖さんは驚いて祐麒を見る。
「……そんな事、何?」
「そんな事、ないですよ」
 言葉を押し流すように、祐麒はコーヒーを喉から下ろした。カップとソーサーが当たる高い音が耳障りに感じるほど、神経質になっている。
「あのね、慰めなんかいいから」
「俺は好きですよ、聖さんの事」
 吐き出すつもりだったため息が、言葉になって出てきて自分でも驚いた。何を言ってるんだ。まだこの発言は、上手く流せる。――そう思っているのに、心の口を塞ぐことはできない。
「ありがと。でもそれって友達としてって事でしょ?」
 苦笑いと一緒に、聖さんはデザートのクリームブリュレにスプーンを立てた。小気味よい音が、響かずに消える。
「いいえ、女性としてです」
 祐麒はそう言い切った後、自分の放った言葉の意味の大きさにバクバクと心臓を暴れさせた。自分で言っておいてバカみたいだけど、溢れ出してくる言葉に驚くしかない。どうやら自分で思っていた以上に、のめり込んでいるらしい。
「……それって、ゲイの告白?」
「違います」
 目を見開いたまま聖さんはそう言ったけれど、祐麒は笑わなかった。笑える余裕なんてどこにもなかった。
 初めて見る呆気に取られた聖さんの顔を、見つめ返す。ここまで言って、おどおどなんてしていられない。まさかこんな形で心を明かす事になるとは思ってもみなかったけれど、もう後には引けなかった。
 口に出したらまるで箍が外れたみたいに、「好き」という気持ちが溢れ返した。心だけじゃなく、魂まで跳ね回っているような、まったく落ち着きのない気分だ。
 祐麒の目から聖さんが瞳を逸らして、重力の感覚も失うような沈黙が流れ出す。どこか、苦々しい表情。悪い予感が過ぎる。それでも、荒れ狂うような感情の波は制御できない。
「俺は一人の男として、聖さんの事が好きなんです」
 一度「好き」なんて言葉を出したら、続けて出すのは思ったよりも楽だった。自分の気持ちに正直になれた事に、快楽すら覚える。まるで開放された捕虜の気分だ。
 そんな祐麒の言葉に、聖さんは目を逸らしたまま、何度か唇を開いては、言葉にしないままその口を閉じた。それにまた妙に女性らしさを感じて、心の裏側からドンドンと叩かれているような錯覚に陥る。頭の中は、完全にお祭り騒ぎだ。
 だけど、どんな時間にも終わりは来る。夢見心地も、永遠には続かない。
「……ごめん」
 想像していた通りの言葉に、一瞬何を言われたのか分からなかった。いや、分かり切っていたはずだ。心のどこかで可能性を信じながら、現実を見つめてきた。断れるのが当然だと思ってもいた。なのに――。
「祐麒の気持ちには、応えられない」
 なのにどうして、こんなに痛いんだろう。言葉の意味を飲み込んでから、チクチクとした痛みはやがて、身体を張り裂かんばかりの痛みになる。
 今までだって、何度も思ってきたろうに。一緒に歩いていたって、カップルに見られる事はないんだろうなって。自分と聖さんが、釣り合うはずないって。
 分かっていたのに、分かり切っていたのに、だったらどうしてこんなにショックなんだ。さっきまで一人で盛り上がっていた自分が、バカみたいだ。
「祐麒だって、知ってるでしょ。私が誰の事を好きなのかも、性別はどっちなのかも」
 それは明らかに根本的な拒絶だった。超えられない壁が、高く塔のように聳(そび)え立つ。それは抗うことさえできない、生まれながらにしての壁だった。
「……だから、ごめん。今まで無神経だったね。私、こんな性格だしさ。まさか男に好きになられるなんて、思ってなかった」
 こんな、だなんて。聖さんにしては、自分を過小評価し過ぎじゃないだろうか。
 時折見せる憂いのある表情も、あどけないぐらいの笑顔も、祐麒を惹きつけるには充分過ぎる。情に厚いところも、子供っぽい部分も大人な部分も、それに何より強いように見せて酷く儚げなところが、祐麒の心を鷲掴みにして離さない。
 確かに以前聖さんに語った女性の理想像とは、違う。美人よりも可愛い子の方がいいと思っていたし、明るくて優しい子がいいとも思っていた。だけどそんなの、一度惹かれてしまえば邪魔になるだけの理想だった。
「いいんです」
 祐麒はそう言って必死に笑顔を作ろうとしたけど、きっと傍目からみれば下手糞な愛想笑い程度にしか見えていないだろう。
「勝手に俺が好きになっただけですから」
 言うに事欠いてそれか、と自分でも呆れる。もっと相手をいたわって、自分も惨めにならずにいられる台詞なんて、いくらでもあるだろうに。
 重い沈黙が、流れずにただ滞っていた。きっと今まで出会ったことのあるどんな沈黙よりも鈍重で、避けがたい。出口の見えない迷路みたいに、焦りさえ沸いてくる。
「でもさ」
 そんな沈黙を払拭したのは、聖さんの方だった。
「これだけははっきり言えるんだ。私は祐麒のこと、友達として好きだし、特別に思ってる」
 その言葉に視線を吸い寄せられて、祐麒は聖さんの瞳を捕らえた。どうしてだろう。まるで今祐麒が浮かべていてもおかしくないような表情が、聖さんの顔に浮かんでいる。まるで縋り付く様な、切ない目がそこにある。
「都合のいいことばっかり言ってるみたいだけど、これが原因で避けたりしないで欲しい。……またあの店でコーヒー飲んだり、ね?」
 澄んだ声が、じんじんと頭に響く。酷く切なげに揺れる瞳が、祐麒を掴んで、掴んで――。
「もちろん」
 そう言って、祐麒は笑った。
 やっぱりきっと、上手く笑えていないんだろう。こんな時にポーカーフェイスでいられる自信もない。
 ――それでも笑った。笑うしかなかった。
 
 
「それじゃね」
 駅の改札を抜けたところで、聖さんはそう言った。逆方面の電車に乗って帰るから、今日はここでお別れだ。
「じゃあ、またあの店で」
「うん」
 そう言って手を振った聖さんに、祐麒は手を振り返して背を向けた。数瞬前の聖さんの顔さえ、脳裏に焼き付いて離れない。
 その残像を振り払うように、祐麒はホームへの階段を一段飛ばしで上った。丁度電車が来たところで、大股で歩いて車内に入る。反対側のホームを、極力見ないように。
 やがて発車した電車の中で、不規則なリズムに揺られながら祐麒は今日を反芻した。頭の中を深く根掘っているのは、色濃い後悔ばかりだ。
 なんで、どうして。――祐麒はついうっかりみたいな形で、秘めていた気持ちを打ち明けてしまったのだろう。
 聖さんの事が好きになっていたなんて、とっくに分かっていた。分かっていたからこそ、必死にそれを隠そうと、丸め込もうとしてたのに。
 窓の外を、街の光が過ぎていく。やけに騒がしい光景が、お前の傷心なんてちっぽけなものだと、そう言っている気がした。
 
 やがて乱暴な振動と共に開く扉。
 吹き込んでくる風は真冬のように冷たく、祐麒の手の中を通り過ぎて行った。
 
 
 
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