≫Chapter.15■■
一人で行ける
一人で行ける
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待ち合わせの場所は、K駅のエントランスだった。
時刻は、既に十六時。午後は空けておくように、とは言いつつ、聖さんは忘れていた授業があったとかで、今日になってこの時間を指定してきたのだ。
全く、苦笑しか沸いてこない。時間にルーズな聖さんにじゃなくて、自分にだ。
普通なら「なんだそれ」って呆れる所を、微笑ましいと思っている。待ち合わせの時間をもう十分過ぎているっていうのに、不安にならない。一体いつの間に、こんなに安心するようになったんだろう。
多分これが、初めてデートする女の子とかだったら違うのだろう。もしかしたらすっぽかされるかも知れない、という可能性を捨てないのは、情けない男常套の自己防衛手段だからだ。
だけど聖さんは約束はすっぽかすなんてことはしない。例え何時間遅れても、約束した場所に現れるだろう。それが終電が終わった後だとか、交通手段がない時とかでもだ。
そう長くはない付き合いで分かった事は、沢山ある。
まず聖さんは、凄く義理堅いということ。突き放しているようでも、時に厳しい意見を言おうとも、それは薄情とは一線を画している。簡単に言えば、情に厚く、適当な様に見えてかなり真面目、と言う事だ。
二つ目に、ポーカーフェイスだ。美味しそうにご飯を食べていると思ったら、その帰りに「あれはイマイチだった」とか言う。これははその時その時の空気を読むのが上手い、とも言える。
そして三つ目に――。
「おまたー?」
茶目っ気のある、とんでもない美人ということだ。
「おまた、ですよ。もう三十分近くも」
祐麒の文句に、聖さんは携帯で時刻を確認した。
「うん? 遅刻的には十五分じゃないの?」
「そりゃ俺が十五分前に来てたからですよ」
「じゃあ十五分ぶん文句を言われるのは分かるけど、三十分ぶん文句言われても困るなぁ」
まあ、そんなに責めるつもりもないけれど。というか聖さん、いくら腕時計をしないとは言え、携帯で時間が確認できるんだから、そこら辺どうにかならないものなんだろうか。
「ま、そういう事で、今日も行き先は決まってるから、行くよ」
どういう事が全然分からないけれど、そんな事よりも今日の行き先が気になる。祐麒は歩き出した聖さんに並ぶと、その顔を見て言った。
「それで、今日の目的地も着いてからのお楽しみですか?」
「別に言ってもいいけど?」
「じゃあ、聞かないで置きます」
分かってるじゃない、と聖さんは笑った。
話を続けながら、祐麒はよかったと思った。少なくとも聖さんは、最後に会った時の事を引きずるような態度は微塵もない。まるであの時の涙なんか、なかったみたいに。
「言っていくけど、今日は荷物持ちじゃないからね」
「それは何よりです」
驚くべきは、祐麒の方も想像以上に上手くそれに合わせられている、って事だ。理由も知らない涙を見てしまった気まずさは、今のところ上手く隠せている。
そんな軽口を叩きながらしばらく歩くと、いくつかの角を折れた後に聖さんが「ここ」と言って指をさした。その先には、祐麒も何度か行った事のある映画館がある。
「映画?」
「そうよ。嫌?」
まさかそのまんま「嫌」とか言える訳もないし、別に嫌でもない。ただ、行き先としてあまりに普通過ぎて、意外だっただけだ。
「嫌じゃないですけど、ただ」
「ただ、何?」
「聖さんって、観たい映画があったら一人で行きそうだなーって思ってたら」
「え? うん、別に観たかったら一人で行くけど」
だったら、なんでわざわざ祐麒を呼び出したりなんかしたんだろう。それを言ったらまた「可愛くない」だとか言われそうだったから、祐麒は黙っていた。
祐麒の言うことがいまいち何を言いたいのか分からないのか、聖さんは首を傾げて映画館の中に入って行く。追いかけて隣に並びながら、そういや男友達以外とここに来るのは初めてだと思った。そう考えると何度か見た同じ光景でも、何だか少し違って見える。
「あれ観たいんだけど、いいよね?」
聖さんがあれと言って指したのは、サスペンス物の大きなポスターだった。そこそこ名の売れている監督と俳優陣から度々テレビで話題に上がっていたので、祐麒も名前と簡単な内容紹介ぐらいは知っている。
「いいですよ。ちょっと気になってましたし」
「じゃああれで。実はさ、今日はレディースデーだから千円で観れるんだよねー」
だとしたら尚更祐麒を誘う理由が分からないなと思っている横で、聖さんはあっはっはーと笑っていた。やがてチケット購入の順番が来ると、祐麒が何か言うより早く聖さんが映画の題名と人数をカウンターに告げた。こういうのって男の役目じゃ、と思うのは、時代遅れってやつなのだろうか。
「ご飯ちょっと遅くなっちゃうけど、食べてくでしょ?」
聖さんは受け取ったチケットの一枚を祐麒に渡しながらそう言った。聖さんの方から言われて、まさか断れるわけもない。
「いいですけど、どこか決めてるんです?」
「決めてる。またイタリアンになっちゃうけど」
「そこもレディースデーですか?」
「惜しいね。カップルで行くとデザートサービスなだけでした」
聖さんの口から不意にカップルという言葉が出てきて、祐麒の心臓はいつもより大きく膨らんだ気がした。信楽焼きの狸とルーブル美術館に飾ってある彫像とで、カップルに見られるんだろうかと、また卑屈なことを考えてしまう。
シアターへと向かうゲートでチケットと渡して半券を返してもらうと、二番シアターへと歩みを進めた。この映画館では、たしか二番目か三番目ぐらい大きなシアターだ。
薄暗い通路を抜け、階段を上りながら席を探す。平日のこの時間という事もあってか、後ろよりのど真ん中という、聖さんの言う一番見易い席が空いていたのは幸いだった。
「この監督の作品、好きなんだよね」
さっきよりも幾分落としたトーンで、聖さんはそう言った。祐麒は映画のDVDを借りたり、映画館に観に行ったりする時は「あ、この俳優知ってる」ぐらいで選んでしまうのだけど、聖さんは監督で選ぶらしい。何だかそもそもの映画の楽しみ方が違うような気がして、祐麒は今度から俳優の名前だけじゃなくて監督の名前も覚えようと思った。
小声でいくつかの会話を交わしているうちに、シアターはだんだんと明かりを落としていった。幕がおりてきて、周りのわずかながらの囁き声も消えていく。
冗長なCMや海賊版撲滅のPRの後、配給元のロゴが大きくスクリーンに打ち出されて、さあ始まるぞと言わんばかりの「ドーン」という低い音が鳴り響いた。その映画は、革靴の底が床を踏むシーンから始まる。
走っていく男の姿。それを追う者の視点を描くカメラワークは、ありがちだけど大画面の上では十分な効果を以って観るものに緊張感を与えてくる。
少しだけ顔の角度を右に振って、聖さんの表情を伺った。いつもと変わらない表情で、映画を楽しんでいるのだかそうじゃないのか、分からない。本当に映画が好きな人は、普段より真剣な顔で魅入ったりするものなのに。
この映画の公開時期はこれからの季節を考えて設定したのか、舞台はクリスマスを目前に控えたアメリカの地方都市だった。物語はシングルマザーや武器庫番の警官、高級サルーンを乗りこなすアッパークラスの男や娼婦の視点から、目まぐるしく展開していく。映画が始まって一時間ぐらいしてから、ようやっとこれは社会派サスペンスなのだと気付いた。
裏切り、麻薬、銃のグリップを握りなれない男の銃撃戦。そのどれにも、聖さんは身じろぎすらしない。
中盤からの畳み掛けるような急展開が終わり、気がついたらスタッフロールが流れていた。黒い字幕に、大きく踊る衣装提供元のロゴが白く眩しい。
二時間、最後まで観て気付いた事。それはこの映画には、まったく恋愛の要素がなかったという事だった。