美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.14
     涙の理由
 
*        *        *
 
 いつの間にか十一月の風に体温を奪われて、そんな時にふらっと寄りたくなるのは、いつものあの店だった。
 夏の間はクーラーが効いている中で額に薄っすら汗をかきながら熱いコーヒーを飲んでいたものだけど、この頃は気温のせいもあって本当にコーヒーが美味しい。考え事が多いせいか、この喫茶店にも通う回数は増えていた。
 
 あれから、あの日の事は何度も考えた。涙の理由も、追いかけなかったのが正しかったのか、色んな事を。
 結局あの日以来、聖さんには会っていない。芋煮会の後、何度もこの店には来ているけど、一度も顔を合わせる事はなかった。
 幾度と無く、メールを送ろうかとか、電話してみようかとも考えた。だけど最後がああだったせいでどんな事を言ったらいいのか分からない。自分が聖さんの立場だったら、と考えると、やっぱりそっとしておいて欲しいと思うし、下手な行動はできなかった。
 だからこうして、澄んだコーヒーの水面に、前髪を映している。こんな時だって、この店のモカブレンドはハッとするぐらい美味しい。
 
 待っていたら、来るかも知れない。それが今やこの店に来る、コーヒー以上の理由になったいるのは、以前からの事だ。
 カランコロンと、店の扉が開く音がした。だからって、やたらめったらに振り返ったりはしない。聖さんが来たなら、きっといつもの様に祐麒の隣に座ってくれるだろう。それはあまりにも希望めいた確信だった。
「いらっしゃいませーぇ」
 マスターの間延びした、相変わらずの「いらっしゃいませ」が聞こえた後、背後で席を探す気配がした。そして間もなくして、祐麒の隣の椅子が引かれる。
「隣、いいかしら?」
「え……?」
 予想していなかった声に、祐麒は驚いて顔を見上げた。てっきり聖さんが来たのかと思っていたからだ。
「あ、どうぞ」
 祐麒がそう言うと、蓉子さんは椅子に腰掛けてハンドバッグをテーブルの下の荷物入れに入れた。沸かしている湯の加減を見に来たマスターに、「モカブレンドを一つ」と注文する。
「二週間ぶりぐらいね。最近よく会うわ」
 正直な所祐麒は、かなり動揺していた。あの聖さんの涙の理由には、間違いなく蓉子さんが関係あるからだ。
 それに――蓉子さんは、聖さんが好きな人だ。まさかこんな風に再会するなんて思ってもなかったから、心の準備ってものが全く出来てない。
「祐麒くんも、この店によく来るの?」
 同じ質問をしようとしていた祐麒は、先に言われて少し驚いた。それにしても、それってどういう意味だろう。今までこの店で鉢合わせする事はなかったけど、蓉子さんもよくこの店に来るのだろうか。
「も、って言うのは?」
「ああ、聖もよく来てるらしいから。私がここに来るのは、今日で二度目よ」
 それって、という言葉を、祐麒は飲み込んだ。説明を求めなくても分かる。聖さんは一度蓉子さんを連れてここに来た、というだけだ。
 今まで聖さんが、この店に誰かと連れてきた所は見た事がない。この店の隠れ家的な所がいいと前に言っていたけれど、蓉子さんは特別なんだという当たり前の事を、今更ながら見せしめられた気分だった。
「そうなんですか。俺もここにはよく来ますよ」
 努めて冷静に言葉を返しながら、蓉子さんも聖さんに会えたらいいと思ってここに来たのだと思い当たった。
 蓉子さんだったら、メールや電話で聖さんと約束を取り付けるのは簡単だろう。だけどこうして、偶然を願ってここに来ている。もしそれが事実なら、蓉子さんと祐麒は同じ理由でここにいることになる。
 一体何故。疑問が巡って、頭の中がグチャグチャになる。一体この人と何があって聖さんが涙を見せたのか、根掘り葉掘り訊いてしまいたい。それが出来ないから、ひたすらに歯がゆい。
「あれから、聖に会った?」
 蓉子さんの言う「あれ」の指す事がすぐに思い当たって、祐麒はどきっとした。だけどよくよく考えて見れば、蓉子さんの「あれ」を意味する所は、先日の芋煮会の事だろう。あの小笠原家の森の中での出来事は、祐麒が知っているはずはないのだから。
「いえ、一度も」
「……そう」
 蓉子さんは早々と届いたコーヒーを受け取ると、カップの中に息を吹き込んだ。
 それからしばらく、沈黙が流れた。蓉子さんはコーヒーに夢中になっているのか、それとも考え事をしているのか。何はともあれ、この店の中ではコーヒーが届いた後の沈黙は必然なので、あまり重たい空気というわけでもない。
「ちょっと、気になってね」
 蓉子さんは五口目を飲んだ後、唐突に会話を再開させた。
「祐巳ちゃんづてに、最近元気がないって聞いてたから」
 蓉子さんは「はぁっ」と息を吐いて、コーヒーの湯気を飛ばす。日本よりもパリかどこかの方が似合うようなシーンだなと、祐麒はどこか醒めた感覚でそう思った。
 元気がない理由があるとしたら、それは蓉子さんと聖さんの間で何かあったからじゃないのか。蓉子さんがそれを心配して、いるかどうかも分からない喫茶店に足を運ぶと言う、その行動自体が可能性を裏付けているように思える。
「電話とか、してみたんですか?」
「したわ。出なかったけれど」
 祐麒の質問に、蓉子さんは溜息をもう一つ落として言った。くい、と傾けられたカップを見て、こんなに物憂げにここのコーヒーを飲む人は今まで見た事がないと思った。
 今度こそ、重い沈黙が二人の周囲を包んだ。避けようのない事実となったそれは、ずっしりと背中に圧し掛かってくる。
 ――何かあったんですか。
 そう訊いてしまいたい。全部知ってしまう覚悟なんて何一つ出来てないけれど、衝動として何度も祐麒をついて出そうだった。
「そろそろ、行くわ。慌しくてごめんなさいね」
 だけど結局、その疑問は口にされる事がなかった。蓉子さんのカップの底には、いつの間にか黒い三日月が描かれていた。
「いえ。それじゃ、また」
「またね、祐麒くん」
 そう言って蓉子さんは、颯爽と店を後にした。今頃になって、もう少し気を利かせて話題を振ったりすればよかったと思ったけれど、そう思いつくには遅すぎた。
 祐麒の目の前のカップには、未だにぬるくなったコーヒーが揺れている。この際だからもう少しゆっくりすることにして、祐麒は少しだけ味気のなくなったモカブレンドをすすった。
 
 店を出る頃には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。十一月になってからというもの、朝晩の冷え込みは目を瞑りたくなるほどだ。
 通り過ぎて、もはや家路の一つとなった道を歩く。町並みのあちらこちらから、温かそうな光が漏れていて、「もうすぐ冬なんだな」と実感する。
 そんなバス亭へと続く道を歩いている時だった。太ももに違和感を感じてポケットを上から押さえてみれば、その中で携帯が振動していた。
 携帯を引っ張り出し、サブディスプレイの中の文字を見て祐麒は、ピリリと微弱な電流が頭の中を駆け抜けたのを感じた。小さな液晶の中に、『佐藤聖』の文字が流れていく。
(なんだろ)
 聖さんからのメールは、かなり珍しいことだった。祐巳の誕生日にビックリを仕掛けたり、ガールフレンド同伴飲み会の時みたいに、イベントのある時なら今まででもメールのやり取りはした事があったけれど、今日みたいに何もない時に来るのは初めてだ。――いや、完全に何もなかったわけではないだろうけど。
 脈拍が早くなったことを感じながら、ディスプレイを起こした。白の背景に、たった一行の、簡素な内容が映し出される。
 
『明日の午後の予定は、空けておくよーに』
 
 
 
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