≫Chapter.10■■
気持ちの変化
気持ちの変化
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最近、○○にハマっててさぁ――という言葉は、大学に入ってから出来た友人のよく言う言葉だった。今の時代、夢中になるという言葉の代わりに、「ハマる」という言葉が代用される。
そう言った彼は熱しやすく覚め易い性格で、三ヶ月も経った頃には「ハマっている」物事は変わってしまっていた。そういう友人がいたからか、それとも自身のせいかどうかは知らないが、祐麒はいまいちその感覚が分からなかった。
何か一つの事に傾倒し、いつもそのことばかりを考える。悲しいことに、本当にその気持ちが分からなかった。
生徒会は神経を削るほど真剣にやっていたけれど、ハマるという言葉にはほど遠い。義務とか維持とか、そんな言葉がよく似合う。
――夢中になるということ。
まさかこんな形で知る事になろうとは、思いもしなかった。
また来てしまった、という後悔めいた気持ちで訪れた喫茶『Lion's Pride』は、平日の午後一番ということもあってかガラガラに空いていた。というか、平日以外に来た事がないから、この店が繁盛しているのを見たことがない。
オーナーの趣味の為にやってる店なのだから、あんまり流行らせてもいけないのだろうか。実際のところはどうか知らないが、今日も無口な無精髭のマスターは、祐麒の頼んだコーヒーを入れた後はいつもより丁寧にグラスを拭いていた。
まったく、どうしてしまったんだ。美味しいはずのコーヒーの味が、全然分からない。
自覚していたことだけど、最近はすっかりこの店に来る目的が変わってしまっていた。実際にはコーヒーを飲みながらテキストや小説を開いたり、ひたすらリラックスしてから帰るだけという、この店の利用方法は変わっていない。なのに最近はその『いつも通り』が物足りなく感じるというか、いつも通りに感じなくなってしまっている。
「はぁ……」
それが何故なのか、分かってはいる。多分今日も、こうやって徐々に張り詰めていた気持ちを静めてから、店を後にするだけだろう。それはそれで穏やかで、悪い過ごし方じゃないはずなのに――。
「……ん?」
不意にトントンと、左肩を叩かれた。振り向いて見るけど、そこには誰もいない。
そして顔を正面に戻した瞬間、ガタッと音がして右側に人が座った。――まさか。
「まさか、今時こんなことをする人がいるなんて」
「マスター、モカブレンド」
隣に座った聖さんは祐麒に向かって「ん? 何の事かしら?」とでも言うように微笑んでから、無視するみたいにそう言った。マスターが低い声で「あいよ」と答える。
「まさか、喫茶店に入った瞬間盛大に溜息を吐いている人を見るなんてね」
聖さんはテーブルの上で指を組むと、さっきの祐麒の発言を真似して言った。こうして会えたらきっと動揺するだろうと思っていたのに、登場の仕方がくだらなさ過ぎてバカらしくなる。
「だからって、あれは」
「でもさ、落ち込んでる時にくだらないことされると、結構砕けるっていうか、自分が悩んでたこともくだらなく思える事って、ない?」
「それは……確かにありますけど」
まさしく今この瞬間に言っている通りの事が起こっているんだから、否定はできなかった。そこまで考えてしていたというなら、聖さんってやっぱり凄いかも知れない。
「でしょー」
ニッと笑った聖さんに、何とも言えない気持ちになった。情けないような、嬉しいような、一つではない感情だった。
聖さんは「おまち」という言葉と一緒に出てきたコーヒーカップを受け取ると、それから少しの間コーヒーに没頭していた。ここのコーヒーに『ハマった』常連客は、大抵そうして一口目から五口目ぐらいまでじっくり味わうのだ。
不意にこういう沈黙が流れると、何を言っていいのか分からなくなる。さっきみたいな軽口なら、いくらでも会話のキャッチボールが続くというのに。
「で、何で溜息?」
一分にも満たない時間の沈黙の後、聖さんはそう訊いた。その質問に何と答えたらいいのだろう。全て順序だてて話せるほど定まった気持ちでもないというのに。
「なんででしょうね」
「何、自分でも分からないの?」
「溜息の後に起こった事のせいで、忘れちゃいましたよ」
「何それ」
聖さんはそっぽを向くみたいな動作で、祐麒から視線を外して正面を見た。ふぅっ、と息を吐いて、コーヒーから立ち上る湯気を飛ばす。
再び沈黙が訪れると、祐麒はさっきの発言を後悔した。ひょっとしたらあんまり引っ張り過ぎて、不機嫌になったのかもしれない。
「じゃあさ」
だけど祐麒の危惧なんか吹き飛ばすように、聖さんは「いい事を思いついた」とでも言うように瞳を輝かせた。
「気分転換に、お姉さんとデートしない?」
「は――?」
呆気に取られる、とはまさにこの事だろう。今までの流れから来て、一体どうしたらそうなる。
「なんて顔してるのよ」
聖さんは若干冷めた目で祐麒を見て、こつんと頭を小突いてきた。
「一人じゃ行きにくい所だから、一緒に来て欲しいって事。勘違いはノーサンキュー」
そう言って聖さんは、外国人にボディラングエッジで言葉を伝えようとしているみたいに、手のひらをこちらに向けた。だったら何で勘違いさせるようなこと言うんだと思ったけど、単なる冗談であることは嫌というほど分かっている。
「……別にいいですけど」
「あ、何その拗ねた顔。可愛くないなぁ」
男に向かって可愛くないなって。――まあ、聖さんにとって祐麒がどんな扱いかなんて、分かっていたようなものだけど。
結局の所、はっきり言って祐麒は男として見られちゃいないんだろう。『可愛い後輩の祐巳ちゃん』の延長線上でしかない。
分かっていたつもりでいても、こうしてそれを目の当たりにすると、やっぱりガックリくる。以前ならこんな扱いでもさらっと流せてしまえていたのに、この変化には戸惑う他ない。
「ま、オッケーなら早速行きましょ」
聖さんは残っていた少しのコーヒーを飲み干すと、背の高い椅子から立ち上がった。外はまだ日が高く、九月と言えど影ははっきりと濃い。
「それで、一体どこに行くんです?」
会計を済ませて外に出ると、案の定むわっとした熱気が頬を掠めた。残暑の最後の悪あがきだ。
「知らずに行った方が、ワクワクするんじゃない?」
ニッと笑った聖さんに悪い予感はしなかったから、多分変な場所ではないはずだ。そう感じたのは初めてだったから、果たして当たるかどうかは謎だけど。
先に階段を下りていった聖さんに続くと、その後ろ優しい香りがふわりと漂っていて、祐麒は心臓がとくんと一度だけ跳ねるのを感じた。