美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.09
     海へ行こう
 
*        *        *
 
 確かに『海岸』だとも、『遠く』だとも聞いていた。
「……どこですか、ここ」
「だから、海岸」
 海岸なのは、見れば分かる。港区の海岸でもないことは、雰囲気からでも明らかだ。花火ができるような砂地の海岸にしては、人が居なさ過ぎる。
「まさか、こんなに遠いなんて」
「だって、近場じゃ人がいっぱいいるし、花火禁止のところ多いし」
 だからって、片道二時間弱もかかる海岸まで来るなんて予想外だ。時刻は既に夜の十時を回っている。
「こんな時間からやろうなんて、危険意識ゼロですね」
「お、言ってくれるねぇ。でも祐麒がついてくるのは想定内。っていうか予定通り」
 夜から人気のない場所に連れていこうってのに、そんな簡単にオッケーが出るわけないから――と、聖さんは本当に何でもないことのようにそう言った。だから祐麒が一緒にくることになった時も、顔色一つ変えなかったのか。
「祐麒が来なかったら、予定変更して逆に人気の多いところに行ってたよ。家族連れがいっぱいいるようなところにね」
「はぁ」
 聖さんはそう言った後、おもむろにトランクを開けた。中には何故か大きめのダンボールがあって、その中にはぎっしり花火が詰まっている。
「こんなに、どこで?」
「問屋。いいから運んで」
 祐麒がダンボールを持つと、聖さんはロウソクやライターの入ったバケツを手に取った。それにしても、四人でやることを想定していたとしてもこの花火の量は多い。
 祐麒たちが先導を切って海岸の砂地まで降りていくと、海を見て声のトーンを明るくしていた祐巳たちがついてくる。夜の海岸なんて大抵だれかいるものだと思っていたけど、こんな時間帯ともなると人気はない。それほど広くもないから、元から海水浴の名所だとかそんなところではないのだろう。
「じゃあまずは打ち上げ花火で」
 聖さんは場所を決めて荷物を降ろすなり、ダンボールから大きめの打ち上げ花火を持って海の方へ走った。ロウソクや水を用意する前にだ。
「やると思ったわ」
 蓉子さんは呆れたようにそう言って、だけど顔は笑っていた。聖さんが砂に足を取られながらこちらに戻ってくると、パシュッと音がして火玉が飛び上がった。
「うわぁ」
 何もない真っ暗な夜空にパンッと光が咲いて、祐巳は歓声を上げた。花火大会とかでみる大きな花火には及ばないけれど、間近で観るなら十分な大きさだった。
「よしもう一丁」
 それから聖さんは立て続けに三本の打ち上げ花火で、小さな花火大会の開会を宣言した。いつの間にか真っ暗な空からは雲が晴れて、明るい月が顔を出している。
 月明かりと、携帯の画面の明かりを頼りにロウソクを立てる。今度は噴き上げ型の花火に火をつけようとしていた聖さんを蓉子さんが呼ぶと、大き目のロウソクに真っ赤な火が宿った。
「花火なんて、凄く久しぶり」
 祐巳は箱の中から手持ち花火を出して言った。そう言えば、昔は家族で花火をやっていたものだけど、もうどのぐらいやってないのだろう。祐麒の方は花寺の連中とよくワイワイやっていたけれど、祐巳はひょっとしたらあれ以来やっていないのかも知れない。
「本当、私も久しぶりだわ。一年ぶりぐらいかしら」
「それって、普通じゃありません?」
 祐麒が言うと、蓉子さんは笑って答えた。
「ふふっ、そうね。でも一年も空いたら、凄く久しぶりに感じるわ」
 去年も聖に誘われて、何人かで行ったのよ、と囁くように蓉子さんは言った。風に揺れるロウソクの火が、ちらちらと蓉子さんの顔を照らしていた。
「ほーら、祐巳ちゃーん」
 きゃあきゃあと祐巳のやかましい声が聞こえて顔を上げると、聖さんが筒型の手持ち花火を上に向けながら、祐巳を追い掛け回していた。その姿を見て、祐麒も蓉子さんも声を出して笑ってしまう。
「去年もこんな感じだったんですか?」
「いいえ、お姉様たちもいたから、もうちょっと大人しかったわ」
 お姉様、という単語に、祐麒は何だか違和感を覚えた。それは多分、すっかり大人の女性になっているように見える二人にも、『お姉様』と呼ぶ上級生がいたと言う、極当たり前の事実からだろう。卒業しても『お姉様』と呼ぶんだと、祐麒は祐巳を見て知っているはずなのに、改めて認識した。
「あー、疲れた」
 暫くすると追いかけっこにも飽きたのか、聖さんと祐巳が帰ってきた。聖さんは涼しい顔をしているけど、祐巳なんかすっかり髪が乱れてしまっている。
「楽しかった?」
「聖さまが、本気で怖かったです」
 蓉子さんに訊かれて、祐巳は息を切らせながら言った。聖さんはまったく息を乱していないのに、この差は何なんだろう。
「私が祐巳ちゃんに火花かけるわけないでしょ?」
 聖さんはそう言ってへらへら笑いながら、手持ち花火を三本取った。まさかとは思ったけど、三本同時に火を点けようとロウソクに花火の先を泳がせる。
「聖、あなたね」
「いーじゃん、いっぱいあるんだし」
 バシュー、と音がして花火が火を噴き出した。一本に火が点くと他の二本にも火を移らせて、一気に三本の花火が砂浜に火玉を落としていく。
 何だかこういうところを見ていると、聖さんがやんちゃな男の子のように思えてくる。あくまで行動からのイメージで、やっぱり相変わらず見た目と言動の不一致が目立つわけだけど。
 普通こういう時にはしゃいでまわるのって、男の方だよなとか思いながら、祐麒も三本花火を取って火を付けてみた。祐巳が「あー、祐麒まで」と文句を言ったけど、無視した。
「お、じゃあ私、次は四本」
「やめなさいってば」
 無言で聖さんの真似をした祐麒がおかしかったのか、蓉子さんが笑いながら言った。思っていたより、よく笑う人だ。
 そんな調子で花火を続けていると、箱一杯にあった花火も小一時間もすれば底が見えてくる。結局みんなして両手に花火を持って火花を絶やさなかったのだから、当然だ。
 筒型の噴き上げ花火も、打ち上げ花火も打ち尽くして、箱の底には細くてよれよれの花火だけが残る。言わずと知れた、線香花火だ。
「やっぱり最後は線香花火か」
 そう言って聖さんがまず一本目の線香花火に火をつけた。あれだけ盛大に火花を散らして大はしゃぎしていたのに、この花火を見ると急にしんみりするのは何故なんだろう。
 祐麒がそれを言うと、祐巳が笑いながら言った。
「線香花火は、デザートみたいなものでしょ。いっぱい食べた後、ゆっくり落ち着いて食べるスイーツなのよ」
 それを聞いた祐麒と聖さんは、ほぼ同時に吹き出した。
「食い意地張ってるな」
「あら、二人とも笑い過ぎよ。いい例えじゃない」
 ついには声を出して笑い始めた二人を、蓉子さんが諌めた。祐巳のヤツは、案の定ムッとして膨れていた。
「じゃあ祐巳ちゃん、私の線香花火はデザートで言えば何?」
 聖さんは二本目の線香花火に火を付けて言った。続いて祐麒たちも、次々に線香花火に火をつける。
「うーん……お饅頭?」
 祐巳は点けたばかりで丸くなっている火玉を見て言った。そのまんまじゃん、と祐麒が突っ込む。
「じゃあ、これは?」
 今度は蓉子さんが、パチパチと爆ぜている線香花火を見せて言った。確か線香花火の状態には名前がある、というのをTVを観た事がある。確か一番派手に火花が散っている状態は、松葉というと言っていた。
「えーと、コーラフロート?」
 バチバチ弾けてるから、と祐巳は付け足した。聖さんは答えを聞くたび、けらけら笑っていた。
 また蓉子さんが注意するんじゃないだろうかと、祐麒は横目で盗み見たけれど、そんなことは全然なかった。蓉子さんは、ただ優しく微笑んでいるだけだった。
 全くどうして、花火に照らされた女の子の顔というのはこう幻想的に見えるのだろう。線香花火を見詰めている瞳はゆらゆらと揺れて、まるで別の世界に来たみたいな錯角を覚える。
「綺麗ね」
 みんな黙りこくった後、蓉子さんがポツリと言った。祐麒の手元にあった線香花火は、か細い残光を残しながら砂浜へと落ちる。続いて、蓉子さんの線香花火も。
「こうやって火玉が落ちるたびに、夏が終わっていく気がするわ」
「お、蓉子ちゃん詩人だねぇ」
 あはは、と祐巳が笑った。そして次の線香花火をと手を伸ばした所で視界に聖さんの顔が映って、祐麒は硬直した。
「――」
 なんてことはない風景のはずだった。ただ聖さんがおどけた調子で「詩人だ」と言って、その瞳で蓉子さんを見たという、それだけの話なのに。
 聖さんは蓉子さんと同じ優しい微笑を投げかけていた。見た事もないぐらい優しい色をした、潤った瞳で。
 どきんどきんと、バカみたいに心臓が跳ねていた。まるで縛り付けられてもがくみたいに、鼓動は収まることを知らない。苦しい疼きが祐麒を締め付けて、息が詰まりそうになる。
 聖さんの瞳を形容するなら、一体どんな言葉が適当なのだろう。いわゆる『詩人』ぽく言うのであれば、正しく恋をしている瞳だった。
「きれー」
 祐巳は隣で暢気な声を出していた。祐麒はやっとのことで聖さんから視線をもぎ離すと、「落ち着け」と自分自身に言い聞かす。この動揺を、この場にいる誰にも気付かれてはならない。
 ――デジャヴ。
 そんな言葉が、祐麒の頭に浮かんできた。そうだ、この感覚を、祐麒は知っている。
「……」
 祐麒が線香花火を取り出して火を点けると、そう長くはかからずに松葉の状態になる。そしてバチバチと弾ける火花を見ながら、祐麒は唐突に思い出した。
 
 数年前の、あの日。
 バスに乗り込んできた聖さんを見た時と同じ胸の高鳴りが、祐麒の心を叩いている。
 
 
 
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