美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.08
   君の黄色い車で
 
*        *        *
 
 その日はまるで拷問のような暑さで、猛暑とよく一緒に使われる熱帯夜というやつが福沢家を包み込んでいた。
 八月も中旬を過ぎて、もうそろそろ涼しくなってきてもいいだろうと思うのだけど、全くそんな気配はない。一応リビングにはエアコンがつけてあるものの、地球温暖化についての講演会を聞きに言った母さんのお陰で設定は三十度。正直部屋の中と外はほとんど一緒だけれど、エアコンがついてないという事実だけで暑くなりそうなので消そうとも思わない。
「よくこんな日に花火なんてしようと思うよな」
 同じソファに座っている祐巳に、祐麒はTVから視線を外さずに言った。画面の中ではお笑い芸人が、氷水に浸かって奇声を上げている。
「雨が降ってるよりましでしょ」
 それは、ごもっとも。週間予報では晴天だったからこの日に設定したけれど、それがたまたま猛暑日に当たったというだけだ。
 この前の挽回――なのかどうかは知らないが、祐巳は聖さんから花火をしに行こうと誘われているらしい。きっと聖さんも今日の暑さにうんざりしているだろうけど、意地でも行くはずだ。ドタキャンなんてしようものなら、また機嫌を損ねかねない。
「まあ、そうだよな」
 しかし特にお声のかかってない祐麒にしてみれば関係ないことだ。花火は楽しそうだけど、この暑さの中で動き回る気にはなれない。
 そんなことを考えていると、「ピンポーン」と明るい音で玄関の呼び鈴が鳴った。多分、聖さんが向かえに来たんだろう。
「あ、はーい」
 祐巳は祐麒と話していた時より幾分弾んだ声でそう言って、リビングを出て行った。続いてキッチンで片付け物をしていた母さんも。
 祐巳が後から続いてくるだろう母さんの為に扉を開けっぱなして行くのはいいんだけど、何故母さんまで扉を閉めないんだろう。祐麒は別に続いて出て行ったりはしないぞ。――と思っていたら、部屋の外からは思いの他涼しい風が吹いてきた。なんとエアコンが付けてある部屋より、廊下から吹き込んで来る外の方が涼しかったのだ。
「あらまあいらっしゃい」
 母さんの興奮気味の声が響いた。今まで電話でしか知らなかった『元白薔薇さま』と言うのに会えて感動しているのだろうか。相手は自分の半分ぐらいしか生きてない、娘と同年代の大学生だというのに。そう考えると『薔薇さま』ってどれぐらい凄いか、イヤでも分かってしまう。
 それから暫く三人の会話が続いていたようだけど、声のトーンが上がった母さんの声しか聞き取れなかった。「いつも祐巳がお世話になっております」だの、「あらまあそんな所まで?」とか。最後の方は何か懸念させることでもあるのか、少し声がくぐもっていた。
「祐麒」
 するとどうしたことか、ととと、と祐巳がリビングに戻ってきた。アイスでも食べようかと冷蔵庫に向かっていた足が止まる。
「あん?」
「祐麒も花火来ない?」
「は?」
 さっきから間抜けな受け答えばっかりだな、と思ったけど、そうなってしまうほど祐巳の提案は予想もしなかったことだった。何で祐巳や聖さんという女の子ばかりの花火に、祐麒みたいな不純物、つまり男が混じらなくてはいけないのだろう。リリアンじゃそういうの、嫌がられるんじゃないだろうか。
「祐麒」
 そうこう考えていると、今度は母さんがリビングに顔を覗かせる。
「あんた、祐巳ちゃんたちと一緒に花火行ってきなさい」
「はぁ?」
 今度は母さんまで、一体どうしたって言うのだ。自分だってリリアン出身なんだから、女の子同士の遊びに行くのに男がどれだけ邪魔かなんて、知っているだろう。
 これは何事なんだ、と祐麒が廊下に顔を出して玄関を見やると聖さんが「おいでおいで」と手招きしている。何なんだ、これは。
「何で俺が?」
 ようやく間抜けな返し以外にまともなことを訊くと、母さんが答えた。
「今から花火をしてもいい場所まで行くでしょう?」
「そりゃ、まあ」
「だけど今日は夜の八時を過ぎてるわよね」
「うん」
「そこまで言ったら分かるでしょう?」
「……あー」
 そりゃ誰だったそこまで言われたら分かる。つまりもうすっかり暗いし、花火が出来るような場所に行ったら、多分先客がいる。そこで女の子ばっかりじゃ危ないから、ということを言いたいらしい。
「アイス食べてからでいい?」
「バカなこと言ってないで、早く行ってらっしゃい」
 リビングからグイと押し出されて、祐麒は着の身着のまま外に放り出される。思っていたより暑くないのはいいんだけど、いくらなんでも急すぎる。
「お、来た来た」
「それじゃ、よろしくお願いしますね」
 母さんに見送られて家を出ると、目の前には黄色い車が停まっていた。近づいて行って見ると分かったけれど、助手席に誰か乗っている。
 よくよく考えれば、二人っきりで花火というのも珍しいから、他に誰かいてもおかしくない。だけど助手席に乗っていたその人は、そんな祐麒の納得を吹き飛ばすぐらい、インパクトのある人だった。
「あら、お久しぶりね」
 ああ、覚えていてくれたんだ、という間の抜けたことを考えた後、どうしてこの人がと混乱した。いや、動揺と言った方が正しいかも知れない。兎にも角にも、祐麒は「あ、どうも」と返すのが精一杯だった。
「祐巳ちゃんも久しぶりね。いつの間にか、綺麗になっちゃって」
「あ、そうですか? 蓉子さまにそう言って貰えるなんて、嬉しい」
 ドキンドキンと動揺している祐麒とは正反対に、祐巳は「綺麗になった」と言われて照れたり嬉しがったり大忙しだ。祐巳もそろそろ「可愛い」と言われるより「綺麗」と呼ばれる方が嬉しい年頃か――って、まあそれはどうでもいい。祐麒の「何で?」なんか吹き飛ばすように、聖さんは黙ってイグニッションキーを回す。
「えー本日はジョイアール高速バスをご利用いただきまして――」
「早く出発しましょう。遠いんでしょう、行き先」
「……はーい」
 聖さんのボケを、蓉子さんはすっぱり切り落とした。ある意味、息はぴったりだ。
 それで、遠いところって? ――と訊きたかったけれど、またもや祐麒の疑問なんか挟む余地もなく会話が始まる。大学はどうとか、この前どこどこに行った、とか、久しぶりに会った女の子同士の会話のテンポは凄まじい。
「どうした祐麒、元気がないな」
 すると聖さんが、不意に祐麒に話しかけてきた。その声の調子があまりにもいつも通りで、祐麒は戸惑う。
 だって今の状況は、聖さんに取って見れば両手に花状態だ。そこに来たまったく対象外の男と来たら、邪魔者以外のなんでもないはずなのに。
「あら、ごめんなさい。少し喋りすぎかしら」
「確かに蓉子にしては、喋り過ぎてた。新鮮しんせん」
「もう、おちょくらないでちょうだい」
 ――で、結局蚊帳の外か。「はぁ」とか相槌を打つぐらいしか出来ない祐麒は、なんかこの二人って夫婦漫才してるみたいだなと思っていた。
「それにしても祐麒はしゃべらなさすぎ」
 聖さんが蓉子さんと喋っている合間に、祐巳が言った。そんなこと言ってもこの状況って中々厳しいぞ、とは口が裂けても言えない。情けなさ過ぎる。
 これが途切れ途切れの会話だったりしたら、祐麒だって話題を提供できたかも知れない。けれど女の子同士で盛り上がっていると邪魔しちゃ悪いなとも思うし、話題になっていることに対して色々知っていないとボロが出そうだ。
「ごめんなさい。また話がそれちゃったわね」
 蓉子さんはそう言うと、くるっと身を乗り出す勢いで祐麒たちの方を振り返った。急に強い瞳に晒されて、祐麒は今更ながら緊張した。
「祐麒くんは、花寺学院大学だったわよね?」
「あ、はい」
「凄いじゃない。花寺って完全にエスカレーターって感じじゃないから、難しかったんでしょう?」
「いえ、それほどでも。……と言えたらいいんですけど」
 祐麒がそう言うと、蓉子さんは「あはは」と明るく笑った。こんな笑い方をする人なんだって、初めて知った。
「それで、どう? 彼女とかできた?」
 で、やっぱりそうくるか、と祐麒は思った。環境に変化のあった友人・知人に対してする質問の筆頭だ。
「ああ、祐麒の彼女は――」
 祐巳が冗談でも言うような口調でそう言いかけると、聖さんが急ブレーキを踏んだ。
「きゃあっ! ちょっと、何? 猫でもいたの?」
「いや、野性のタヌキ」
 東京の街で野生のタヌキなんかいるか、と思ったけど、聖さんの行動は正しかった。あのままじゃ、何を言われていたか分からない。もし冗談でも「祐麒の彼女は聖さまなんですよー」とでも言われたら、聖さんにとっての被害は甚大だ。
「嘘おっしゃい。東京にタヌキが出てくるわけないじゃない」
「うん、本当は猫だったけど」
「もう……」
 こういう事には慣れているのか蓉子さんは思いのほかあっさりと引き下がった。慣れられている聖さんも聖さんだと思うけど。
「で、祐麒くんの彼女は、何?」
 そして、一難さってまた一難。蓉子さんは、今度は祐巳に対してそう質問した。
「あ、いえ、祐麒の彼女はまだいませんよ、って」
「あら、そうなの? じゃあこれからね」
「そうなんですよ。聖さま、うちの弟、どうですか?」
 祐巳のその一言に、祐麒は吹き出しそうになった。折角「彼女は」って言葉を飲み込んだと思ったら、そう来るか。まったく祐巳のやつ、薔薇さまを経験してからというもの、気が強くなっていけない。昔はもうちょっと可愛げがあったのに。
「うーん……無理」
 それにしても聖さん、分かっていた答えだけどその言い方はない。
「ちょっと、もう少し言葉を選びなさいよ」
 そんな素っ気無い聖さんの答えに、蓉子さんは真面目な顔でそう言った。蓉子さんって、結構優しい。いや、生真面目なんだろうか。
「気にしないでね。祐麒くんならきっと、すぐに彼女ができるわよ」
 ね、と笑った蓉子さんはやっぱり優しい。きっと『イイ女』ってのは、こういう人のことを言うんだと思う。
「祐麒、勘違いしちゃ駄目よ」
 蓉子さんが前を向き直った後、祐巳が小声で言った。
「分かってるっての」
 一体あれを、どうやって誤解しろというのだ。あれでコロっといくようなら、きっともう何十回も恋をしてるはずだ。
 蓉子さんの視線を追うように前を向いてフロントウィンドウ越しの景色を見ると、見慣れない町並みがスクロールしていく。さっきまで見えていた背の高い建物の光はどこにもなくて、見た事のない商店街や家が過ぎていくだけだった。
「ところで、遠いところって?」
 祐巳と祐麒のヒソヒソ話に注意がいったのか、車内には初めて沈黙が流れていた。何だったのか詮索されてもまずいなと思って祐麒がそう言うと、聖さんが答えた。
「海岸よ」
 黄色い軽自動車は時折小さな段差に揺られながら、夜の街を駆けて行く。
 
 
 
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