美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.07
 午後十時の反省会
 
*        *        *
 
「最悪だ……」
 長かったガールフレンド同伴飲み会が終わって解散した後。聖さんはみんなの声が聞こえなくなった途端に、祐麒より先にそう言った。
 いつの間に雨脚が駆け抜けて行ったのか、アスファルトは光り輝いて、むわっとした熱さが肌をくすぐる。街路樹から滴り下りた雨水が、腕に冷たい。
「なんか、すいません、本当に」
 こんなややこしいことになった元を正せば、祐麒が聖さんをこの飲み会に誘ったせいだ。彼女役を演じると提案したのは聖さんだけれど、それは二次的な原因だろう。
「祐巳にはお手洗いに言った時、ちゃんと本当のことを話してますから」
 言い訳するみたいに祐麒が言うと、聖さんは「はぁ」と大きな溜息を吐いた。
「別に祐麒は悪くないよ」
「でも――」
「あーもう、いいってば」
 結構飲んでいた聖さんは、フラフラと祐麒に寄りかかった。思わず肩を抱いて支えると、聖さんの香りが鼻腔をくすぐってドキリとする。
「よし、二軒目いくわよ」
「へ?」
 祐麒に寄り添うように歩いていた聖さんは、急に前に立って腕を引っ張ってくる。
「酒が足りない」
 ついさっきまでよく出来た彼女役を演じていたかと思ったら、急に親父キャラだ。そのギャップにちょっと笑えてくる。
「いや、聖さん――」
 今日はもう飲み過ぎですよ、と言おうとしたら、聖さんにキッと睨まれた。
「何、付き合えないっていうの?」
「いや、もう聖さん顔赤いですし、今日はこれぐらいに」
「うるさい」
 聖さんは怖い顔をしたままずるずると祐麒を引きずって行った。酔っ払っているはずなのに、どこにこれだけの力が残っていたんだろう。
 駅から少し外れたところにある雰囲気の良さそうな店に入ると、聖さんは案内もされていないのに二人がけの丸テーブルを囲んで腰掛けた。とは言っても、店にはバーテンとウェイトレスが一人ずついるだけで、勝手に座ってくれっていう感じだったから怪訝な顔をされることもなかった。
 店はさっきの店より小さくて、感じがよく似ていた。違いがあるとすれば、あちらは『バー風居酒屋』なのに対し、この店は純粋な『バー』であるというところか。聖さんはお絞りを置きに来たウェイトレスに「バランタインを二」と注文した。
「二、って、俺も?」
「当たり前でしょ」
 ほどなくして届いた厚めのグラスには、氷を半身浴させるぐらいまで琥珀色の液体が注がれていた。自慢じゃないが、ウイスキーみたいな強い酒は飲んだことがない。
 ためしに舐めてみると、ピリリと舌に辛かった。濃厚な香りとその舌触りが、ビールの比じゃないぐらいに強い酒だと言うことを物語っている。
「んぐっ」
 飲み込もうとして、むせそうになった。聖さんはよくこんなもの、何杯も飲んでいたものだ。
「祐麒、かっこ悪い」
「……放って置いて下さい」
 聖さんは本当に飲んでいるのか分からないぐらい少し口に含んで、何でもないと言った顔でそれを嚥下した。そりゃこんな酒ばかり飲んでいたら、顔も赤くなるってものだ。
「はぁぁ……」
 聖さんはウイスキーを二、三口飲むと、姿勢を崩して溜息をついた。ウイスキー・グラスを片手に溜息を吐く姿がこんなにも様になっていると、完全に大人の女って感じである。
「なんか、すいません」
「もうそれはいいってば」
 なんかついさっきも同じこと言っていたと思い出して、祐麒は口を噤んだ。いくら悪いと思っていたって、謝り過ぎるのはよくない。謝り倒してもいいのは、相手が許してくれない時だけだ。
「けれど聖さんって」
 祐麒はなんとかむせないように二口目を飲んでから言った。
「本当に祐巳のこと愛人か何かにしたいと思ってるんです?」
 いくら気まずいからって、一体何を聞いてるんだ。祐麒も聖さんと負けず劣らず、酒が回っているらしい。
「いや、まぁねえ、……うん」
 祐麒にそう訊かれるのが意外だったのか、聖さんは急に歯切れが悪くなった。はっきり言い切れないっていうのは、まだ迷いがあるっていうことだろうか。
 おかしな話だけれど、祐麒はこういう会話をするのに不思議なぐらい抵抗も違和感もなかった。酒のせいじゃないとは言い切れないけど、姉の影響もあるのだろう。リリアン、というある一種の世界を傍から見ていて、慣れてしまったのかも知れない。
 例えば、祐巳と祥子さんが女性同士のカップルとして付き合っています、と言われても大して驚きはしないだろうと思う。姉妹と恋人というのは違うんだろうけど、この人と決めて関係を明確にさせているという部分では一緒だ。
 女の子同士で付き合っているのは宗教上忌避されることなんだろうけど、自分の中にはそれに対する嫌悪感は全くと言っていいほどなかった。逆に男同士で付き合うのだって自由だと思う。何と言っても祐麒はずっと花寺だから、そういう噂を聞いたことだってある。勿論、べたべたしているところを見せられるのは勘弁してもらいたいけれど。
「けれど本命は蓉子さん、と」
 なんでこう、言わない方がいいことばっかり口を出てくるんだろう。会話に詰まると、とことんダメだ。
「何よ、二兎を追う者は一兎も得ず、とか言いたいわけ?」
「いや、祐巳のことあんまり気にしているようだったから、つい」
 訪れそうになる沈黙を押し流すように、もう一口、もう一口とウイスキーを飲んでいく。少なくともグラスを傾けている間は、言葉がなくても許される。
「でもまあ、どっちかに絞った方がいいんだろうね」
 聖さんは上から掴んだグラスを揺らしながら、くるくる回る氷を見詰めて言った。その瞳はやっぱり、大人の女のそれだった。
「祐麒ってさ」
 切なげに揺れていた瞳が不意にこちらに向けられて、祐麒は動揺を隠した。
「本気で人を好きになったことって、ある?」
 本気で、人を、好きになったこと。
 聖さんが言うと、なんでこんなに重みのある言葉になるんだろう。聖さんがどんどん遠くに行ってしまうような気がして、何だか息苦しくなる。
 果たして今までの祐麒に、そんなことがあっただろうか。ドラマみたいに、涙を流すほど人を好きになったことはないし、「愛する」って感情をよく分かっていない。好きなタイプは? と訊かれて思い浮かんだ祐巳の顔すら、現れてはこない。いや、それは当たり前なんだろうけど。
「ない、ですね。多分」
「じゃあ、分かんないかな」
 そう言って聖さんは、何故か優しく笑った。もういい加減飽きないのかってぐらい、祐麒の心臓はドキドキとうるさい。
「分かんない、ですか」
「うん、分かんないよ」
 だけどただ一つだけ分かったことはある。それは聖さんが、本気で蓉子さんのことが好き、ということだ。
 その事実に祐麒は何と言ったらいいんだろう。まさか「男を好きになった方が楽ですよ」なんて言えない。恋愛っていうのは恐ろしく自由で、全くもって融通が利かないのだ。
「けど祐麒も分かるようになると思う。そのうち彼女とか出来てさ、その人のことうーんと好きになったら、きっと分かるよ」
 きっとこんな言葉の重みのことを、説得力と言うのだろう。それはきっと当たり前のことなのに、その言葉は祐麒のずっと奥深くまで染み渡った。
「そうなんですかね」
 だけどその言葉とその意味は心に染み入り過ぎて、ジンジンと胸が痛んだ。何故だか分からない。ただ何の前ぶれもなく、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
 聖さんにあんな表情をさせる蓉子さんを、頭の中で描いてみる。三年前の高等部一年の時、花寺の学園祭を手伝いにきた薔薇さまたちの顔を、祐麒は今でもすんなり思い出せた。
 聖さんはまるでハーフかと思わせるほど特長のある美人だけど、蓉子さんはと言えば純然たる日本人の美人だった。今でも「キリッとした美人」と言われると、真っ先にあの人の顔を思い浮かべるぐらいだ。
「なんで急に黙るのよ」
「あ、いや」
 いつの間にか訪れていた沈黙に気が付いて、祐麒は頭に思い浮かべた人の姿を消し去った。蓉子さんのことを思い出してましたなんて言ったら、聖さんはどんな顔をするだろう。
「何、祐麒にも思うところがあるの?」
 聖さんは面白おかしそうに、祐麒の顔を覗き込んで言った。残念ながら、聖さんの期待に沿えるようなことを考えていたわけではない。
「そうだといいんですけどね」
 祐麒は苦笑して、グラスを傾ける。人を本気で好きになる、ということの意味が分からない自分が、急に薄っぺらに感じた。
「なんだ、つまんないの」
 そう言って聖さんはグラスの中身を飲み干した。カランと小気味のいい音が耳に残って中々離れない。
 
 ――本気で人を好きになったことって、ある?
 
 もう一度その質問を、自分自身に投げかけてみる。答えはすぐそこにあるのに宙ぶらりんで、上手く掴むことはできなかった。
 
 
 
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