美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.05
僕の彼女を紹介します?
 
*        *        *
 
 その週の週末は暑さなんか忘れたように、雨に包まれていた。入梅した空はどんよりと重く、今もしとしとと街を濡らしている。
 M駅、現在午後五時半を少し回ったところ。聖さんは今現在、約三分の遅刻をしていた。
 正直、勘弁して欲しい。何もこんな日に、時計を見ない癖のツケを払ってくれなくたっていいではないか。約束をすっぽかすなんて思ってはいないけど、心の準備とか言うやつがある。
 電車の時間は、まだ大丈夫だ。でも後もう三分遅れれば、遅刻は確実。少しぐらい遅れた所でとやかく言う連中ではないが、後から来て目立つようなことはしたくなった。
「祐麒」
 いい加減電話かメールでもしてみようかと思った所で、背中に声をかけられた。約五分の遅刻だ。
「聖さ――」
 聖さん、急ぎましょう。――振り返ってそう言うつもりだったけれど、その言葉は途中で凍り付いてしまった。聖さんの姿を見たら、絶句してしまったのだ。
「ん? 何」
 聖さんはヒラヒラのスカートを揺らして、首を傾げた。いつもはデニムに革靴の足元は、線の細いミュールをつっかけている。トップにはシルク地の高そうなブラウスを着ていて、それがびっくりするぐらい似合っていた。このままファッション誌の表紙にしたら、今年の夏はこれが流行りになるんじゃないかと思う位、彼女の風貌は完璧だったのだ。女の子らしい子が好み、とは言ったけれど、服装のことを指していたとは考えもしなかった。
「ああ、これ」
 聖さんはスカートを軽くつまみ上げると、ほんの少しだけ照れくさそうに言った。
「いや、女の子らしい格好って難しいね。何着てくか迷ってたら遅れちゃった」
 これがこんな特殊な状況とかじゃなくて、付き合っている女の子とのデートの遅刻理由だったりしたら、人目も憚らずにギューッとやってしまっていたところだ。そのぐらい、今日の聖さんの破壊力は凄い。
 よくよく見てみれば唇にはルージュが引かれて、目元にはうっすら化粧をしているのが分かった。ということは普段は化粧なんてしてなかったのかも知れないと思うと、やっぱり素材の良さというのを感じざるを得ない。
 顔のパーツを理想の位置に並べた、理論上の最も美しい顔は、能面のような顔になると言う。だからどこかがいい具合に崩れているから可愛かったり、カッコよかったり、美しかったりするんだ、とは昔聞いた話だけれど、彼女の場合どこが崩れているのかさっぱり分からない。分からないのにとんでもなく美人だ。さっきから心臓がバクバクとうるさい。
「じゃ、行こうか」
 そう言うと聖さんは、驚いたことに祐麒の腕に手を滑り組ませた。まるで、道行く恋人同士のように。
「せ、聖さん、まま、まだ早いんじゃないですかね?」
「何言ってるの。敵を欺くにはまず味方からよ」
 それって使い所が間違っていやしないか。それともこれであっているんだろうか。正直祐麒は表面上何もなかったように振舞おうとしているが、自覚できるぐらいのパニック状態に陥っていた。
 そのまま駅の中へと歩き出すと、聖さんは何が面白いのか、特に何もしていないというのに面白そうに笑っている。これはあきらかに、動揺しまくっている祐麒をからかっているに違いない。祐麒が古い映画の俳優だったら、「罪な女だぜ」と言っているところだ。懲役三年ぐらいじゃ、納得いかない。
 K駅に着いて電車を降りると、そのまま本日の会場である店へと向かう。始めていく店だけれど、小洒落たバー風居酒屋らしい。同じ飲み屋なんだからどっちかにすればいいのにと思ってしまうのは、未だに軽いパニックから抜け出せないからだろうか。相変わらず聖さんは祐麒の腕にその白い腕を絡ませて、「私たち恋人でーす」とアピールするかのようだった。
「この店です」
 目的の店に付くと、祐麒は立ち止まって言った。聖さんは、祐麒の目の前に回り込んで言う。
「祐麒、店に入る前に注意点がある」
「はい?」
「まず一つ、敬語は禁止。いくら私の方が年上だって言っても、大して歳も離れてないのに敬語はちょっと不自然よ。それから二つ目。最初から最後まで、気を抜かずに演じ切ること。最後、三つ目。挙動不審にならないこと」
 言い分はもっともだけど、最後の言い草はないだろう。確かに恋人役にしては、締りがなさ過ぎるけど。
「じゃ、行きましょ」
 さっきみたいに「行こうか」ではなく、あくまで女性的にそう言った。つまり彼女の方は、もう演技モードに入っているらしい。
 祐麒は頷くと店の扉を開け、近くに居たウェイターに予約を入れた石田の名前を告げた。ウェイターは大したもので、明らかに不釣合いな二人を見ても道行く人のように不躾な視線を送ることなく、「こちらです」と落ち着き払った態度で接客してくれた。
 ダークブラウンでまとめられた店内を歩いてテーブルに近づいて行くと、もうほとんどのメンバーが集まっているのが分かった。みんながこちらの方に気が付くと、聖さんは祐麒が紹介するよりも先に言った。
「どーも始めましてぇ。祐麒の彼女の聖でーす」
 聖さんは聞いたこともないような明るい声で、とびっきりの笑顔を振りまいて見せた。予想通り男連中は目を見開いて固まり、坂上なんかあんまり見続けるもんだから、彼女らしき女の子に小突かれていた。
「えーっ、きゃー、超美人じゃん」
 石田の彼女と思しき、化粧の濃い女の子が興奮気味に言った。何も聖さんに驚くのは、男だけじゃないらしい。
「……マジで?」
 祐麒の席の近くに居た成田が、小声でそう言った。実際には全然マジではないのだけど、祐麒は無言で頷いて肯定した。
 ちなみに石田、坂上、成田の三人は、大学になってから知り合った友達だ。みんな大学になって、花寺に入ってきた連中だから――かどうかは言い切れるところじゃないけど、普通に彼女持ちだ。三人の隣には、それぞれ女の子座っている。
「あれ、小林は?」
「あー、あいつ遅れてくるらしいわ。先に始めといてくれってさ」
 祐麒はお絞りで手を拭きながら聞くと、石田が応えた。小林のやつ、昨日の時点でもまだ一緒に行く女の子が見つからないと言って焦っていたから、今頃手当たり次第に電話をかけているのかも知れない。祐麒も聖さんがいてくれなかったそうなっていたのかと思うと、ゾッとする。
「とりあえず乾杯しよ、乾杯。みんな飲み物選んで」
 とにかくまあ、いつまでも驚かれていても居心地が悪い。それを察したのか仕切り役の石田がそう言うと、全員ドリンクメニューに視線を落とした。
 近くを通りがかったウェイターを呼び止めると、みんな口々に注文を言う。祐麒はビール、聖さんはカシスウーロンを頼んだ。そして頼んだ後自分が未成年であることに気付いたけど、後の祭りだ。飲み会がある時点でこうなるとは分かっていたのにそこまで考えてなかったとは、我ながら呆れる。
 飲み物が全員分揃うと、主催が声を大にして言う。
「えー、それじゃ皆さんグラスを手に。今日はお集まりいただきましてありがとうございまーす。それではそれぞれの輝ける未来を祈って、かんぱーい!」
 なんだよその音頭は、と笑いながらグラスを触れさせ合う。カチンカチンと高い音が収まると、みんなグラスに口を付けて、一口二口酒を飲んだ。
「よーし、それじゃさっそく自己紹介と行こうか。じゃあまずは祐麒から」
「え、何で俺からよ」
「いいだろ、結局するんだから。それに来るのちょっと遅かったし」
 別にそれは関係ないだろう、と思ったけど、反論するだけ無駄な気がして諦めた。時間には間に合っていた、と主張したところで、自己紹介の順番は変わらないだろう。
「えーと、花寺学院大学一年、福沢祐麒です。……以上」
 みじけーよ、と成田が突っ込んだ。そこに坂上の彼女が、高い声で言う。
「はいはーい、質問。聖さんとはどこで知り合ったの?」
「えーっと、喫茶店だったかな?」
 もちろん、嘘だった。後から考えたら別に嘘なんか吐く必要はなかったけれど、咄嗟に言ってしまったんだから後の祭りだ。
 聖さんから見れば花寺の学園祭で祐麒を見たのが最初だろうし、祐麒からすればバスに乗ってきた聖さんが初めての出会いだ。まあ彼女の方は、覚えちゃいないだろうが。
「へぇー、古風じゃん」
 お通しに夢中になっていると思っていた坂上が、横から言った。果たしてそうだろうか、と思ったけど、昔は喫茶店が出会いスポットの一つであったという話を思い出した。確か父さんの知人夫婦は、ある喫茶店の常連同士だったことで知り合ったと聞いたことがある。
「えーと、じゃあ次、聖ちゃんお願いしまーす」
 石田がそう言って、祐麒は口に含んだものを危うく吹き出しそうになった。いくら友達の彼女、という筋書きだけれど、「聖ちゃん」はないだろう。
 しかし聖さんは祐麒とは違って、少しも動揺せずにハキハキと言った。
「リリアン女学院大学三年、佐藤聖です」
 行儀よく会釈して見せると、「へー、リリアンかぁ」と女の子たちが少し興味ありげに言った。そんな空気の中で、年齢を読み違えた石田が表情を崩している。しかしこれはまあ、女の子には大抵ちゃん付けで呼んでしまうやつが悪い。
「はいはいしつもーん」
 石田のミスを取り返すように、その彼女が手を上げた。同年代の女の子って、みんなこんなにテンション高いものなんだろうか。
「聖さんは、祐麒くんのどこが好きになったんですが」
 それって、イヤミか。――と思ったけれど、彼女の表情をみるに、純粋に興味があって聞いているらしかった。いくらなんでも、卑屈になりすぎだ。
「うーん」
 その答えにくい質問に、聖さんは唸った。答えにくいというか、むしろ答えられないのではと思えてくる。残念ながら祐麒には、ここなら評価してもらえるだろうという絶対的なポイントがないのだ。
「顔は可愛らしいんだけど、男らしいところかな」
 あー、確かに可愛い感じだよねー。――質問した子がそう言っている間、祐麒は固まってしまっていた。一体どうしたらそんな言葉が出てくるんだか。
「男らしいって、例えばどんなところ?」
 気になったのか、成田が聞く。
「そうねぇ、デートの時とかちゃんとエスコートしてくれるしぃ」
 勿論でまかせだ。デートなんてしたことがないし、一緒にいても祐麒の方がぐいぐい引っ張れる始末である。
 それにしても聖さん、他の女の子の口調を真似していると、普段を知っている祐麒からすればバカにしているようにしか聴こえない。
「後は主にベッドの上とか」
「ぶっ」
 今度こそ祐麒は吹き出した。固まる男性陣に反して、女性陣は「きゃはははは!」と受けている。普通こういう場で、女の子の方から下ネタは言わない。
 気まずくなって男どもをちらりと盗み見ると、誰も彼もと目があった。みんな何か言いたそうにしていたけど、祐麒は無視した。
「はい、じゃあ次ね。どうぞ」
 流石にこれ以上サービス――祐麒に取ってみれば嫌がらせだが――をする気はないのか、聖さんは隣にバトンタッチした。
 そうして自己紹介が終わる頃にはみんなグラスが半分以上空いていて、坂上はもう顔が赤くなり始めていた。グラスの空いた人から次々と飲み物を頼んで、場が温まってきているのを感じる。
「すっごーい、お肌すべすべー」
 乾杯してから、小一時間ぐらいは経っただろうか。酒に弱い連中はすっかり頬を赤くした頃、何故だか聖さんは女の子に囲まれていた。
 それもこれも、聖さんはシャンプー何使ってるのー、とか、お肌のお手入れで気をつけていることは、とか、女の子たちが聖さんに構いまくるせいだ。確かに肌も髪も綺麗な美人だから美容について聞きたい気持ちは分かるが、男どもはもうすっかり蚊帳の外である。聖さんは満更でもなさそうに受け答えしているから、実は一番この飲み会を楽しんでいるんじゃないかと思う。心なしか、酒を飲むピッチも早い。
「なあ、祐麒よぅ」
 顔を真っ赤にした坂上が、祐麒を小突いた。
「聖さんて、マジで祐麒の彼女なの?」
「……マジだよ」
 ここで実は嘘なんだ、と正直に答えようものなら、今までの演技が全てパーになってしまう。たまに自分でもバカ正直だなと思う行動をすることはあるが、流石にこんな時は嘘を突き通す。やっぱり嘘かよー、と騒がれたら終わりである。
「いやいや本当、祐麒も隅に置けないなぁおい」
 一人だけ日本酒を飲んで上機嫌になっている成田が、何故だか嬉しそうに言った。
「で、どうなんだよ?」
 お猪口に入った日本酒をあおると、成田はそう訊いてくる。どうだった、って、主語がないと何がなんだか分からない。
「どうって?」
「ばーか、どうっつったら、あれしかないだろうが」
 石田がいやらしい笑いを浮かべながら、左の手のひらを右手の人差し指と中指で叩いた。
「……だから、何だよそれ」
「え、お前マジで言ってんの? このお――」
「祐麒ぃー!」
 聖さんの声が石田の言葉を切ったと思ったら、いきなり後ろから抱きすくめられた。何をされているのか分かるまで、たっぷり五秒はかかった。
「ほーらぁー、祐麒もすべすべぇー」
 すっかり上機嫌を通り越してしまった聖さんは、後ろから顔を突っ込んで、あろうことか祐麒に頬擦りをしていた。カチコチに固まってしまった祐麒に対して、さっきまでヒソヒソと元気のなかった男どもが「ひょぉーう!」と変な雄叫びを上げ、女の子たちは「ひゅー」と高い声を出した。
 ――酒くさい。
 祐麒も飲んでいるはずなのに、明らかに聖さんの方が酒くさかった。まさかと思って聖さんが座っていたはずの席を見ると、そこには背の低いグラスに琥珀色の液体が入っている。――なんてことだ。
「はーい、二人とももっとくっついてー」
 どこから出したのか、石田がデジカメをこちらに向けた。ここで動揺しっぱなしているわけにもいかず、祐麒はぎこちない笑みを作るとピースをして見せる。
 パシッ、とフラッシュが光るたび、デジカメは東西南北様々な方向を向いた。いつの間にかみんな元の席に戻っていて、祐麒たちの真似をしてカップル同士でくっついている。
 本当の恋人同士なら当たり前のポーズなのかも知れないが、祐麒の心臓たるや今頃バクバクいい始める始末である。それもそのはず、聖さんはさっきから祐麒から離れない。というか引っ切り無しにフラッシュが光るから、みんなで集まって撮ったり二人で撮ったりとしていると、中々離れる機会がない。
 そしてそれは、丁度祐麒と聖さんだけで写真を撮られている時だった。もはや逃げたか、と思われていた小林が、会場に現れたのは。
「おせぇぞ小林ー」
「いやあ、すまんすまん」
 何故だかヤツは余裕すら感じさせる表情で、すっかり盛り上がっている輪に入ってくる。で、苦労して連れてきた女の子はどの子なんだ、とその後ろに立っている子の顔を見た瞬間、祐麒は凍りついた。
「あ、紹介するよ」
 小林は何故だか役者ぶった言い回しで、その『女の子』をみんなによく見える位置へと促した。
 
「友達の祐巳ちゃんでーす」
 
 ――って。
 
 
 
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