美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.04
     彼女のフリ
 
*        *        *
 
 ――これは困ったことになった。
 七月の強い日差しを浴びながら、祐麒はとぼとぼと歩き慣れた道を視線でなぞっていた。入梅前だというのに太陽は絶好調で、ジリジリと肌を焼いていく。梅雨よりはマシかと思ったけど、流石にこの暑さはない。
 こんな風に頭を抱える日は、あの喫茶店に行くに限る――。それは短い大学生活で得た、数ある知恵の一つだった。
 あの喫茶店、こと『Lion's Pride』は、以前聖さんとの待ち合わせに使われた喫茶店である。一見どこかの金持ちがこれ見よがしにフランス風の家を建てたのでは、と思わせるような外観のこのカフェは、実はオーナーがその金持ちから借用して営業している店だ。家主はお抱えの使用人の入れたコーヒーよりも店で飲むコーヒーが好きだから、という理由で店が出来たのだという話は、言葉少ななマスターから聞いた貴重な情報である。
 店の中に入ると、カランコロンという涼しげな音と一緒に、実際に涼しい空気が祐麒を包んでくれた。コーヒーを心底楽しむならホットしかない、というオーナーの意向で、ここの冷房はかなり低めの温度に設定してある。
「いらっしゃいませーぇ」
 独特の伸び方の、いつもの声が祐麒を向かえる。クセになる「いらっしゃいませ」だとは、見ず知らずの客の評価だ。
 祐麒は脇目も振らずカウンターの席に座ると、モカブレンドを注文した。この店のコーヒーは全種類制覇したが、やっぱりモカブレンドのホットが一番だ。
 カウンターに肘をつき、溜息を吐きながら「そういやこの店に来るのは何回目だろう」と思った。大学に入ってから両手では数え切れない程来ているはずだけど、無精髭のマスターに話しかけられたのなんて一回だけだ。
 まったく、客が大きな溜息をついているんだから、「どうしたんですか」ぐらい言ってくれてもいいのに。そうしたらこのくだらない悩みを打ち明けて、何かいいアドバイスが貰えるかもしれない。
 そうは思ってみるけど、無駄だろう。料理や接客は奥さんとウェイトレスにまかせっきりで、マスターはと言えばコーヒーや紅茶の加減ばかりを考えている。その真剣な横顔はヤクザになり損ねた三十歳にかしか見えない、といつも思っているけど、また話をする機会があってもそれだけは言わないだろう。怒ったら怖そうだ。
 ――さて、どうしようか。
 今目前にある問題を抱えて、祐麒は軽い頭痛がやってくるのを感じた。これが「もうすぐテストだ」なんて問題であったら、勉強することで対策が取れるかも知れないけど、今回ばかりは対策さえ浮かばない。
 そうやって悩み出して、五分ぐらいした時だった。出されたコーヒーを半分ぐらい飲んだところで、またカランコロンと涼しげな音がなる。
「お、祐麒発見」
 声に振り向いて見れば、そこにはまるで「私は女神です」とか言わんばかりに後光を背負っている聖さんがいた。何が嬉しいんだか、祐麒の顔を見て意地悪そうな笑顔を浮かべている。
 この喫茶店で聖さんに会うのは、合計三回目になるだろうか。『祐巳ちゃんへドッキリプレゼント大作戦』から一ヶ月ぐらい経った頃、偶然ここで会ったのだ。いや、彼女もよくここに来ると言っていたから、必然なのかも知れないが。
 とにかく、いきなり物凄い美人が来たからと言って、祐麒はあまり動揺することはなかった。流石に何度もあっているし、それが普通なのかも知れないが、祐麒は生まれてこの方ずっと花寺だ。これは大きな進歩と言っていい。
「いつもより湿気た面してるわねぇ」
 聖さんはそこに座るのが当然かのように、祐麒の隣に腰を下ろした。祐麒は「はぁ」と生返事を返しながら、『湿気た面』なんて言葉を使う女性なんて知ってる限りじゃいないぞと思った。
「どうした? お姉さんが相談にのって上げようか?」
 いつものからかう口調で、彼女は言う。そんなの相談できるわけが……と思ったけど、いや待てよ。実は聖さんは、一番そういうことの相談に向いているかも知れない。
「ええ、是非お願いします」
「え、本当にあるんだ」
 祐麒も年頃の男なんだねぇ、とか勝手に頭の中で話を進めながら、聖さんは一人ごちた。まあ、その想像とか程遠くはないわけだが。
 果たして言うべきか言わないべきか。祐麒は逡巡した後、結局それを口に出して言ってみた。
「実は今、彼女になってくれる女性を探していまして」
「……ふーん」
 祐麒は驚かそうと思ってそう言ったのに、聖さんの反応は冷ややかだった。なんだか興が削がれたかのように、聖さんの表情は薄っぺらくなる。
「なので、聖さん。僕の彼女になってくれません?」
 彼女の反応が癪で、祐麒は普段なら絶対言わないようなことをサラッと言ってしまった。言ってしまってからドキドキしている祐麒に対して、聖さんは相変わらず冷ややかだ。
「それは無理だねぇ。祐麒ならペットにして上げてもいいけど、多分一週間で飽きるだろうな」
 聖さんはモカブレンドの一口目を飲み込んだ後、そう言った。冗談を言い始めたのはこっちだけど、それはないだろうと思う。
「……で、本題なのですが」
「うむ」
 結局祐麒が折れて、聖さんが言った『悩み』というのを順序立てて話した。ようやくするとこういうことだ。
「実は今週末、大学の友達との飲み会がありまして」
 その飲み会というのは合同コンパとか言うものではなく、むしろそれとは百八十度違うとは言わなくても、九十度ぐらい違うもので。
 簡単に言うなら、『僕の彼女を紹介しますの飲み会』である。自分の彼女を自慢したくて、それプラス友達の彼女というのにも会ってみたいという男たちの企画する飲み会という、男子校ではありがち……なのかどうかは知らないが、まあそう言う飲み会だった。それに祐麒は、勝手に『彼女持ち』と前提されて飲み会に誘われてしまったのだ。その趣旨を知らないまま参加すると言って、後には引けなくなったという情けない状況である。
「なるほどねぇ」
 聖さんは祐麒の話を最後まで聞くと、腕を組んで言った。
「それで、祐麒は私に彼女のフリをして欲しい、と」
「いえ、そういう訳じゃないんです。別に彼女じゃなくて、友達でも連れて来ていいってことにはなってるんで」
 流石に絶対彼女を連れて来い、とは言われなかった。ただ「今いい感じの女の子」がボーダーラインだと言うことで、つまりは意中のあの子を連れて来いということだ。
「その代わりその友達ってのは……その、気がある女の子限定ってことで、こんなこと聖さんに言うのもおかしな話なんですが」
 祐麒は正直にその話をすると、聖さんは腕を組んだまま眉間に皺を寄せた。
「ふむふむ、つまり祐麒は私にその飲み会に参加して欲しいわけだ。そして私には何の魅力も感じないけど、『僕はこの子にツバつけてまーす』って言いたいと」
「そ、そんなわけじゃ!」
「何、じゃあ私に気があるの?」
「そ、そういうわけでも」
「うわー、ショック。今女としての魅力がないって言われたよ。凹むわー」
「ちち、違いますって! 聖さんは綺麗だし、その、なんていうか」
「なんて言うか?」
 下から目を覗き込まれて、祐麒は言葉を失った。こんな時、なんて言うのが最善なんだろう。相変わらずの男としてのステータスの低さに、祐麒は我ながらウンザリした。
「グッとくるっていうか」
 祐麒がそう言うと、聖さんはプッと吹き出した後、盛大に笑った。無口なマスターが、コーヒーの豆から視線を外して、眉間に皺を作る。
「っ、くっ、あは、あはははっ……! ごめん、ちょっと虐めすぎた」
 聖さんは目尻に涙を溜めながら、必死に笑いを堪えようとしていた。勿論思いっきり笑い声を上げた後だったから、それもほとんど意味がないのだけど。
「おーけー、おーけー」
 聖さんは自分にいい聞かせるようにそう言って、肩で息を整えた。
「分かった、合コンは嫌いだけど、そういうことなら協力して上げよう」
「え、本当ですか?」
「この前のお礼もまだだったしね。借りは返すよ」
 情けない思いをしなくて済む、と安心した途端、祐麒から緊張が抜け落ちた。それに一緒に行ってくれるのがこんな美人だったら、情けない思いをするどころか、優越感だって味わえるだろう。祐麒だって男だから、そういう虚勢じみた自己顕示欲だって、少しはある。
「こら、そんな顔するな。まるでわんこだぞ」
 縋りつきそうな祐麒の額を、聖さんはコンと小突いた。仕方ないだろう。今まで――と言ってもたった数時間だけど、祐麒を悩ましていたものが綺麗さっぱりなくなってくれたのだから。
「ただし、条件がある」
「はい?」
 条件、という言葉の響きにギクッとした。だけどここまで話を漕ぎ着けたのだ、今更その『条件』とやらに屈するわけにもいかない。
「どうせなら、友達じゃなくて彼女ってことで参加しよう」
「……マジっすか」
 聖さんの言葉に、やっぱり『条件』は『条件』だと思った。
 彼女と偽って参加すれば、その場はやっかまれはすれ問題はないだろう。だけどその後が問題だ。まさかずーっと彼女のフリをして貰うわけにも行かないし、色々詮索された時に面倒だ。
「別に友達として参加でもいいんじゃ」
「おっと、それは女の子を傷つける発言だなぁ、祐麒。私じゃ彼女役には相応しくないと?」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
 祐麒と聖さんでは、逆に祐麒の方が彼氏役として相応しくない。どう考え立って釣り合わないのだ。言って見れば信楽焼きのタヌキとルーブル美術館にいる彫像だ。ミスマッチにも程がある。
「なら決定ね。やっぱどうせ演じるなら、そのままで通用する友達役より、彼女役だわ」
 心底楽しそうな表情で、聖さんは言った。本当にこの人、祐麒で遊ぶのが好きだなと思う。
「で、祐麒の好みは?」
「へ?」
 一瞬、聖さんが何を言っているのか分からなかった。
「だから、祐麒の理想の女の子像。それを聖さんが演じて上げよう、ってのよ」
「はぁ……」
 聖さんは祐麒が思っている以上に、この話に乗り気である。そのやる気を無碍にするのも筋が通ってない話だから、祐麒は色々とその理想というやつを思い浮かべながら、口を開いた。
「やっぱり、女の子らしいのはポイントですよね」
「ふむ」
「それから性格は明るくて、優しいのがベストで」
 一瞬、何故だか祐巳の顔が浮かんで、慌てて打ち消した。これだから祐麒は、仲間内からシスコンなんて言われてしまうのだ。
「ふーん、まあ祐麒らしいっちゃ祐麒らしいか。髪型とかは?」
 そう聞かれた瞬間、祐麒は昔の聖さんを思い出した。――あの流れるような長くて綺麗な髪をした、聖さんの姿を。
「髪は、長めの方が」
「……それは、今からは無理だわ」
 言った後、祐麒は大きな勘違いをしていることに気付いた。聖さんが言いたいのは、アップにするとかしないとか、エアリーヘアとスリークヘアではどっちが好みかとか、そう言うことを聞いているのだ。
「髪型は、任せます。っていうか、今のままで十分素敵です、本当に」
 必死に言葉を繕う祐麒に、聖さんは苦笑する。
「やっと今のままでオッケーな部分が出てきたか」
 あんまり注文をつけ過ぎると聖さんが不機嫌になってしまうような気がして、祐麒は「それぐらいですかね」と話を切った。はっきり言って彼女は好みのタイプの女性じゃないけど、今のままで十分魅力的だ。まるでよくできた映画みたいに、見る者を引き込んでしまう。
「そんじゃま、任せといてよ」
 聖さんは冷めてしまったモカブレンドを飲み干すと、祐麒に流し目を送りながら言った。
 
「最高の彼女を演じて上げるからさ」
 
 
 
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