美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.02
     例のもの
 
*        *        *
 
 私立花寺学院大学――通称「花大」は、リリアンと同じく高等部や中等部の校舎がある敷地を同じくして建てられている。
 私立、それも旧家が好む名門となってはそれなりにお金のかかる学校だというのに、その建物は古めかしい。建て直しの話が出るたびに、OBから反対の声が上がり、折衝した結果が一部改装だったり、リフォームになった結果がこれだ。所々に木造建築の校舎を残しながら、新しい建屋のみ近代的という、チグハグな大学。
「なんか、朝から上の空よね」
 紙パックのジュースを飲みながら、アリスは言った。三年前に建てられたという食堂は衛生管理が行き届いていて、床や机は自分が映り込むぐらいピカピカだ。その机の中でアリスは、紙パックをたたんで中の空気を追い出しながら祐麒の方を見ている。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ」
「でも本当、今日の祐麒はおかしいぜ。朝から何回そのやり取りをしたんだよ」
 適当に頷いた祐麒に、小林が話を切り込んだ。高等部を卒業したってのに、相変わらずこの面子だ。それぞれ大学から花寺に入った友達だっているけれど、結局飯を食ったり目的もなく集まったりするのはこの顔ぶれだった。
 他の大学に入った高田を除いて、後の三人が全員花大に受かったのは、奇跡だと思う。成績上位で優先入学できたアリスはともかく、祐麒と小林が一般試験を受けて合格したってのは、そのぐらい凄いことだ。
 ちなみに高田は、「身体のことをもっと勉強したい」と言って有名な体育大学に入った。それもそれで頭がないと入れないらしいから凄いことだけど、それができたのも動機が純粋だったからだろう。今頃お目当ての最新設備が揃ったジムで、身体を鍛えまくっているに違いない。
「ほら、またぼーっとしてる」
 アリスが目の前でぷらぷらと手を揺らした。見えてはいるんだけど、あんまり反応したくないだけだ。
「何かあったの?」
「別にないけど」
 何かあったのではない、今から「ある」のだ。今朝からそのことが何度も頭をよぎるせいで、授業の中身もヒレかつ定食の味も、ろくに頭に入ってこない。
「熱があるってわけでもないみたいね」
 アリスは祐麒の前髪をどけると、手のひらを当てて確かめた。不意にくりっとした目が近くに来て、驚く。女性物のカッターシャツからすらっと伸びた手が、まだ祐麒の額に乗せられている。
「やめろよ。そんなんじゃないって」
 何かいい訳はないかと逡巡して、祐麒は言った。
「ただの五月病だよ」
「早いよ、お前。それに大して環境変わってないし」
 小林が声を上げて笑った。友人がナーバスになっているのを見て、何か楽しいんだろうか。
「あ」
 ふと食堂の時計を見上げて、気が付いた。もう約束の時間が近づいてきている。
「悪い。俺もう行くわ」
「あれ、何か約束?」
「まあ、そんなところ」
 じゃ、と片手を上げて席を立つと、食器を返してから食堂を出た。外に出た瞬間、あんまり突っ込んで聞かれなくてよかったと安心する。
 時間の読みが当たったのだろう、バス停について一分後には、いつも乗っているM駅行きのバスが来た。今日の待ち合わせは、ずばりそのM駅だ。
 ゴロロ、といかついエンジンの音がして、バスが車道へと滑りだす。周りの景色はいつもと同じはずなのに、どこか落ち着かない。バス停を一つ、二つと追い越して言っても、時間の流れが早いんだか遅いんだから分からないような、奇妙な心持ちだった。
 それでも、時間というのは流れることを止めはしない。M駅に近づくと、彼女に似た体格の人を見かける度にドキッとするんだから、なんとも小心者だと思う。
 ぐるん、とバスが旋回して、終点であるM駅のバス停に停まった。ドアのガラス越しに目が合うと、聖さんは「おう」とでも言うように、軽く手を上げる。
「祐麒、遅い」
「聖さんが早いんですよ。まだ待ち合わせの五分前です」
「おおっ、祐麒も憎まれ口が叩けるようになったかぁ」
 聖さんはバスから降りてきた祐麒の肩を叩くと、まるっきり年上の顔つきで笑った。まあ実際に年上なんだけれど。
「で、例のものは買えました?」
「もちろん、この通り」
 聖さんはニッと笑うと、小さな紙袋を持ち上げた。
「じゃ、行こうか。祐巳ちゃんが帰ってきてたら元も子もないし」
 そう言ってさっさと歩き出した聖さんを追うと、すれ違った人がちらちらと彼女を見ていくのが分かった。スーツ姿のサラリーマンも、カジュアルな格好をした大学生らしき男も、聖さんを見ては目を少し開く。
 それもそうだろうな、と祐麒は思う。すれ違う女性の顔をいちいち見ていく男が、聖さんに気を取られないはずがない。デニムのパンツに洒落たカッターシャツというメンズライクな格好でも、パッと見ただけで物凄い美人だということは分かる。
「バス、後二分よ。さっき見てきた」
 祐麒が早足になって並ぶと、聖さんはそう言った。こうして男女になって並ぶと一気に注がれる視線が減るのだから、男ってのは単純な生き物だ。
「ってことは、結構待ってました?」
「まあ、ちょっとはね。私が時計見ずに来たから悪いんだけどさ」
 やっぱりこの人は時間に縛られるのが嫌いなんだな、と祐麒は思った。今日は聖さんが先に来ていたからよかったけれど、彼女のきまぐれで祐麒は延々待たされるはめになっていたかも知れないと思うと、中々厄介なクセだ。
 駅の反対側に出ると、既にバスが待っていた。今日の目的地である福沢家には、これに十数分乗っていけばいい。
「全然余裕そうですね」
「あと三十秒だけどね」
 聖さんは『一応』と言った風につけている腕時計を見て言った。時計を見ずにやってきたというのに、こういう時だけ見るのは何でなんだろう。
 バスに乗り込むと、聖さんの予告した通り、あれから三十秒程経ったところでドアが締まった。さっきのバスとはまた違った音で、ゴロロとバスが唸る。
 ゆらゆらと揺れだしたバスの中で、祐麒は鼻歌でも歌い出しそうな聖さんの横顔を見ていた。なんでこんなことに、を思い出せば、実に簡単なことだ。
『私が祐巳ちゃんの部屋で待ってて、帰ってくるなりクラッカーを鳴らすの。そしたら祐巳ちゃんにプレゼントを渡して、びっくり感激』
 あの喫茶店で祐麒に耳打ちした聖さんは、実に楽しそうにその計画を話してくれた。祐麒を喫茶店に呼び出したのはプレゼントを選ぶ目的もあったけど、そのビックリの共謀者としての協力を仰ぐ為でもあった、ということだ。
「あー、祐巳ちゃんの家か。どんなところか楽しみだなぁ」
 果たしてその「楽しみ」のご期待に添えるかどうか、祐麒は逡巡した。父親が設計事務所を開いているだけあって、まあ人に見せても恥ずかしくない家ではある。
 だけど聖さんは、あのリリアンの生徒だ。親が政治家だったり会社の取締役だったり、そうじゃなくても幹部クラスの親を持つ子が多い。そう考えて見たら、聖さんだって社長令嬢である可能性は大いにあった。
 もし想像もつかないような、それこそ祥子さんの家のような大邸宅に住んでいたりしたらどう思うだろう? ――まがりなりにも社長子息と呼ばれる身であるはずなのに、そんなことを考える自分は、やっぱり小心者なのだと思った。
「ここから、後少しです」
 バスを降りて角を曲がると、そこはもう住宅街だ。見慣れた町並みでも、聖さんが横にいるとまるで別のところに感じるのだから不思議だ。
 いくつか角を曲がって自宅の前に着くと、聖さんは福沢家を見上げながら言った。
「へぇー、お洒落な家」
 そのありきたりな感想に拍子抜けすると同時に、安心した。まさか人の家をけなすとは考えていないけど、家の印象というのは結構気になるところなのだ。
 ちらと一階の事務所の方を見ると、父さんも母さんも外のことなんかまるで気にせず、仕事に没頭していた。見るに父さんは何かの書類に目を通し、母さんは会計の仕事なのかパソコンに向かっている。
「あ、あの二人がご両親?」
 女性と呼べるのは母さんしかいないし、それと同じような歳の男はタヌキ顔の父さんしかいなかったから、すぐに気付いたんだろう。聖さんは視線で二人を追いながら言った。
「そうですけど」
「ねえ、ちょっと挨拶してきてもいい?」
「止めてください、絶対時間取られますから」
 ただでさえ母さんは、会ったこともない、電話で話しただけの元白薔薇様を買っているのだ。挨拶したら最後、祐麒が女の人を家に連れてきたというだけでも大事件なのに、それが白薔薇様とあっては晩御飯御一緒コース確定だ。
「ちぇー、小母さまと話してみたかったのに」
 ぶつくさ言う聖さんを無視して、事務所とは別の、自宅用の扉に向かった。幸い祐巳はまだ帰ってないのか、鍵はかかったままだった。
「どうぞ」
 鍵を開けて玄関に招くと、聖さんは家の中の物をチェックしながら入ってくる。よっぽど祐巳の暮らしている家、というのに興味があるんだろう。
「で、祐巳の部屋はこっちです」
 階段を上がって祐巳の部屋の扉を指差す。ちなみに鍵はかかっていない。かけたらいけないことになっているのだ。祐麒に取って、非常に迷惑なことに。
「祐麒の部屋は?」
「隣の、こっち」
 指先の方向を変えて、自分の部屋の扉を指した。聖さんが興味深そうに扉を見ているから、まさか「ちょっと見てみたい」とか言い出すんじゃないだろうなと思ったけれど、それはなかった。
「じゃあちょいとお邪魔――する前に、祐麒。ちょっと中を見ておいて」
「え? 何でですか?」
 そう言った祐麒を、聖さんは怪訝そうな目で見た。
「何で、って。そりゃもし部屋が汚れてたりなんだりしたら、祐巳ちゃんが恥かくことになるからじゃないの」
 ――なるほど。祐麒は深く納得した。万が一祐巳の部屋が散らかっていたりしたら、問答無用でだらしない私生活を晒すことになるだろうし、もしそれを阻止するのだとしたら身内の役目だということだ。
 流石元白薔薇様だ。母さんが絶賛するのも、よーく分かった。
「じゃあ、ちょっと待ってて下さい」
 祐麒は顔だけ部屋の中に突っ込むと、祐巳の私室をチェックした。案の定、祐巳の部屋はいつ客が来てもいいように片付いている。間が抜けているようでいて、こういうところはしっかりしているんだから侮れない。
「いいですよ、大丈夫です」
「では、失敬」
 聖さんは祐巳の部屋に入ると、敬礼した後扉を閉めた。
 
 だけどこの時祐麒は、まだ気付いていなかったのだ。
 ――人にビックリを仕掛けるからには、それ相応のリスクがあるという事に。
 
 
 
≪01 [戻る] 03≫