美しい人
 
 
 
 
≫Chapter.01
    喫茶店にて
 
*        *        *
 
「まずは大学入学おめでとう」
 そう言って彼女はコーヒーカップを目の高さまで上げると、一口飲んでからその手を下げた。四月も数日が過ぎたばかりの、まだ肌寒い午後のことだ。
「はあ」
 祐麒はまさかこの人から祝いの言葉をかけられる日がくるなんて、と思いながら、熱いモカを口に含んだ。相変わらずこの喫茶店のモカブレンドは絶品で、豆や水は勿論、濾紙まで拘っているだけはある。彼女の方もそれを知っているのか、同じ物を注文した後「他の店だとブルーマウンテンなんだけどね」と付け足した。
 さて、こうして祐麒と聖さんが向かい合ってコーヒーを飲むなんていうのは、勿論ながら初めてである。今まで接点が少なかったのもあるし、それに歳だって二つも違う。それにこんな美人とお茶する機会なんて、情けないことに今日が初めてだ。
「いやー祐麒ももう大学生かー。背なんかもうこんなに高くなっちゃって」
 聖さんは美味しそうにコーヒーを飲みながら、久しく会わなかった叔母さんみたいなことを言う。容姿と言動がチグハグなのは、まあ以前からのことだ。
 確かに祐麒は、高校時代に比べて随分背が伸びたと思う。聖さんと初めてあった時は何センチも差があった身長も、今では僅かに祐麒の方が高い。だけどこうして一緒にコーヒーを飲んでいる時でさえ、彼女の方が大きいのではないかと思ってしまうのは、きっとオーラとかそういう目に見えないもののせいだと思う。
「なんか、ずっと昔から俺を知ってるみたいな言い方ですね」
「あら、知ってるじゃないの。二年前の、私より背の低かった祐麒を」
 それに比べれば時の流れを感じざるを得ないねぇ、と聖さんはコーヒーを渋い緑茶みたいにすすった。美人はなんでも様になるなんて話は、あながち嘘でもないらしい。
 しかし聖さんは「二年前の祐麒」を知っているけれど、祐麒の方はと言えば違った。実に三年も前から、祐麒は一方的に聖さんを知っていた。何てことはない、ただ登校や下校の時に、一緒のバスに乗っていたというだけの話だ。
 あの頃の聖さんを、多分一生忘れない。
 彼女がバスに乗ってくるタイミングはいつも不定期で、一番最初に乗っていたかと思ったら、次の日には走って乗り込んできたこともある。多分時間に囚われるのが嫌いという人たちの仲間なんだろう。同じバスに乗る時もあれば、そうじゃないことも多々あった。
 それでも祐麒が聖さんと同じバスに揺られていたという記憶がまだあるのは、それだけ目立っていたから、というわけではない。腰まである長い髪、というのは、リリアンの生徒では珍しい髪型ではなかった。
 簡単に言うなら、顔だ。聖さんの顔は一度見たら忘れられないぐらい綺麗で、憂いを帯びた表情は人を奈落の底へと引きずり込んでしまいそうなほどの魅力があった。
 有名な彫像が、色と生命を得て目の前で動いている感動とでも言えばいいのだろうか。聖さんを見て美しいと思わない人がいれば、それはもう美意識というものが粉々に砕かれてしまっていると言い切っていい。つまりは祐麒も、まだ喋ったことすらなかったのに、その魅力に惹き込まれてしまったというわけだ。
 おそらく祐麒に初恋なんて呼べるものがあるとすれば、それがこの時期だったんだろう。そしてその甘い妄想で組み立てられた聖さん像と言うのは、実際に喋って見てバラバラに崩れ去った。
「手もゴツゴツしちゃってさ、随分男らしくなったものよ」
 尚も爺臭くコーヒーをすする、『今の聖さん』に会ったのは二年ぐらい前のことだ。彼女はその頃にはもうとっくに長い髪を短く切っていて、祐麒のことなんて会うなり呼び捨てだった。
 祐巳と近しいとは聞いていたけれど、まさかそんな風に接されるとは思ってもみなかった。頭の中に思い描いていた聖さんとは、もうまるで正反対だったと言っていい。文句の一つもいいたくなるぐらいのギャップだったけれど、そんなこと言えるはずもない。
 兎にも角にも、そんな聖さんに呼び出されて、この表通りから外れた喫茶店でコーヒーを飲んでいる。花寺でも知っている者は少ないこの店を聖さんも知っていたのは意外だったけれど、まあそれはどうでもいい。
「で、そんなこと言う為に俺をここに呼び出したんですか?」
「まあそれもあるけど、話はちゃんと別にあるわよ」
 あるのかよ、と心の中で突っ込んだ。マイペースなのは相変わらずだ。
「祐麒も知っての通り、今月は祐巳ちゃんの誕生日があるじゃない? あ、それを言ったら祐麒も四月だったっけ? もう過ぎた? おめでとおめでと」
 こんなぞんざいに誕生日おめでとうを言われたのは初めてだったけど、それに少しだけ嬉しいと思ってしまう自分が情けない。
「それでよ。私としては、晴れて大学生になってちょっかい出し放題になった祐巳ちゃんに、とびっきりの誕生日プレゼントを贈りたいというわけ。そこで弟である祐麒なら、例えば家にいる時の何気ない会話で祐巳ちゃんが『あー、これ欲しいなぁ』とか言ってなかったか、知らないかなーと思ったわけ」
 なるほど、と祐麒は頷いた。姉がああなせいで、リリアンのスール制度については人並み以上に知識はある。
 傍から見た者から言わせて貰えば、姉妹というのはある意味交際だ。姉は妹にちょっかいを出されれば黙っていないし、妹の方も姉にちょっかいを出されれば黙っていない。つまりそういう理由で、聖さんは祐巳に近づくのを自粛していたというわけか。……それにしては、昔「セクハラ大王」だなんて形容されていたけれど。
 女の子の友情とか親愛ってのは、男のそれとはまた違って複雑だ。
「祐巳の欲しいもの、か」
 祐麒はそう言いながら、祐巳の行動を反芻した。祐巳が普段からTVショッピングなんかと観て、「これ欲しいなぁ」とか言ってくれているならよかったのだが、生憎うちではそういう番組を観る機会がない。
 ソファに座ってTVを観る祐巳の姿を頭の中から追い出すと、今度は雑誌に目を通す祐巳を思い描いた。
「あっ」
 その瞬間、パッと頭の中が明るくなる。どうしても分からなかったパズルのピースが、ぴったりはまったあの感じだ。
「何?」
「確か祐巳、雑誌読んでる時に化粧品の広告ページを眺めてたような」
「それって、ルージュ?」
「そうです。あの目がちょっと離れた、外国人の女の子がモデルやってたやつですよ」
「でかした、祐麒」
 そう言って聖さんは持ち上げたカップを祐麒のそれにカチンと当てた。最初は目の高さに上げるだけだったのに、今はコーヒーが零れそうなぐらい波打っている。
「やっぱり祐麒に相談してよかったわ」
 聖さんはそう言うと、今日初めて笑った。よそよそしい祐麒をからかって笑っているのとは違う、嬉しい時に見せる笑顔だった。
 ドキンと、心臓が跳ねた。
 コーヒーはもうとっくに平静を取り戻しているというのに、祐麒の胸の内は反比例していくようだ。無防備な笑顔を、不用意に見てしまうことがこれだけ危険だなんて、初めて知った。
 はっきり言って祐麒は、聖さん以上に綺麗な人を、それこそTVの中でも見たことがないし、知ってもいない。いや、そう言ってしまう語弊があるだろうか。
 リリアンには祥子さんや志摩子さんと言った、誰にも負けないぐらいの美人がいる。けれどみんなそれぞれタイプが違って、祥子さんは目じりの冷ややかなキリッとした美人だし、志摩子さんは男でも女でもコロッといってしまいそうな優しくて儚げな美人だ。そして聖さんは、そのどちらでもない。美人を比べるなんて、バカげた話だ。
「そこで、もう一つ祐麒に相談――というか、提案があるんだけど」
「もう一つ、ですか」
 不意に笑顔が引っ込んで、聖さんは面倒なことを人に頼むときの表情をした。今まで何度も見てきた表情だから、これはほぼ間違いなく当たる。
「うん。祐麒、君は人にプレゼントを贈ろうとした時、ビックリさせてやろうと思ったことはないかな?」
「うーん……まあありますけど」
 確かにそんなことは考えたことがある。友達同士であれやこれやと作戦を練りまくって、その時盛り上がっただけで終わってしまったというオチだったけれど。
「そこでだ、祐麒」
 聖さんはそこで「ちょっと」と手招きすると、祐麒の耳を呼んだ。別に近くに知り合いもいないのだからそうする必要はなかったけれど、密談の雰囲気が出したいのか聖さんはわざとそうした。
 ごにょごにょ、と聖さんが耳元で囁く。それにまた動悸を早くしている自分の男としてのステータスの低さに、またまた情けなくなった。
「――っての考えてるんだけど、どう?」
 どう、って。そんなキラキラした目で見られたら、頷くしかない。聖さんにしては単純だと思ったけど、その作戦はなるほどビックリさせるにはいい手段だと思った。
「まあ、いいですけど」
 できるだけそっけなく言って、自分って意地っ張りだなと思った。自分で分かるほどの壁を相手に向かって作ろうなんて、本当子供じみた行動だ。
「けど、どうしてそこまでするんです?」
 祐麒はそう言って、聖さんの瞳をまっすぐ見た。吸い込まれそうだ、と思ったけれど、そらすことができない。うーん、と言って目を逸らしたのは聖さんの方で、祐麒は相変わらずその顔から視線が外せなかった。
「ずばり愛人が欲しいから?」
 はあ、と祐麒は気の抜けた相槌を打った。冗談が聞きたくて、そんな質問をしたんじゃない。
 だけど聖さんは冗談なのか本気なのか分からない顔で、再び祐麒の瞳を捕らえて言ったのだ。
 
「本命は蓉子で、愛人は祐巳ちゃん。ドゥーユーアンダスタン?」
 
 ――って。そんなの、分かるわけあるか。
 
 
 
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