≫Chapter.13■■
世界の終り
世界の終り
* * *
貴女は多重人格です、と言われてすぐに信じられるのは、一体何割の人間だろう。例えばそれが二割だとしたら、私はその二割にあたる人間、ということになる。
――あなたは、解離性同一性障害なの。
病室でそう言ったシスター・村田に、私はすんなりと頷いてしまった。私もそうじゃないかと思ってました、と言わんばかりに、その回答は頭に訴えかける説得力を持っていたのだ。
見に覚えなんて、度々あった。知らない間に出来ていた傷。友人たちが私に話しかける前の数瞬の空白。それに私は紅霞と散歩に出たはずなのに、他のみんなは一人でふらりと出て行ったと言ったこと――。
考えれば考えるほど不思議だった。私の中に、紅霞が、別の人格がいる。今この瞬間にも紅霞は何か別の記憶を摺り込まれ、紅霞として生きているのだ。
いや、もしかしたらそれは逆かも知れない。今この時のこの記憶や感触が、作られていっているものなのかも知れないのだ。
シスター・村田からこの話を聞いた時、私には確かに動揺があった。人格が統合されようとしている――その理由は分からないけれど、それは紅霞が消えてしまうということだ。
それはなんて、恐ろしいことだろう。死として人の心に一つの場所を作って去っていくのではなく、ただ一人の人格が消える。後には何も残さずただ消えてしまうのだ。それならばお墓という形でいつまでも忘れられずにいる方が、ずっと優しい『消え方』ではないだろうか。
一晩入院しただけで、私は寮に戻されていた。症状としてはただの貧血だったから、もっともな話だ。
ベッドから立ち上がり、両手を開いたり閉じたりする。ぐっと握り込むと爪の先が親指の根元に潜り込んで、かすかな痛みになった。
紅霞だって、こんな風に身体の感触はあったはずだ。身体が一緒なのだから、きっと何もかも私と同じ感覚で、色んなものを感じていたに違いない。
だけど、あんなに近くに居た人が消えようとしている。人格が統合されるというのは、つまり主人格だけ残して別の人格は消えてしまうということだ。全ての人格が歩み寄り、解け合うのではなく、私一人を残して遠くを行ってしまうと考えた方がいいかもしれない。
実際、私は専門家ではないから詳しいことは知らなかった。主人格が私である以上、当然のように私の人格が残ると考えているけれど、紅霞の人格が残る可能性だってある。人格が統合されるということについてだって、本当に人格が消えるのかだって分からなかった。ただアリカと呼ばれた人格が消えても私には何の実感もなかったから、統合とはすなわち消えることだという先入観があるのだ。
ただ一つはっきりしているのは、紅霞ともう会えないということだった。私が消えるにしても、彼女が消えるにしても。
最後に、人格が消えてしまうまえに、もう一度紅霞に会いたい。私が消えるてしまうかも知れないということには、不思議と恐怖はなかった。たった二ヶ月やそこらしか生きた記憶がないからだ。それよりももっと、彼女が消えてしまうのが怖い。
今、彼女はどこにいるのだろう。
今ならきっとまだ会える。――そう信じながら、私は部屋を出た。
* * *
気が付けば私は栞を探していた。記憶が飛び飛びになっているのは、最近ではよくあることだ。
丁度寮の中庭に出たところだった。名前も知らない子に「もう大丈夫なの?」と問われ、「あ、うん」と返事をしたら彼女は去って行った。去り際の顔は、「ああ今は紅霞さんなんだ」と言っていた。
私は全神経を集中させて、栞がいそうな、栞と会えそうな場所を思い描く。その場所は、一つしか思い浮かばなかった。
学園へと続く道を走り出しながら、私は『何故』と思う。何故こんなにも、栞に会いたいんだろう。会わなくては、という脅迫観念というより、ただ心の底から会いたいと思っている。あんなに一緒にいたのに、今更何を言えばいいかも分からないというのに。
それでも走ることは止められなかった。今私が意識を失って、それっきりだってこともあるかも知れない。私に残された時間は、少なかった。
学園のお聖堂は、いつもと変わらず重厚な扉で私を待ち構えているようだった。見た目よりもずっと軽いその扉を開くと、私は転がり込むような勢いでお聖堂の中へと入る。
中には、誰もいない。オルガンの音も聴こえなかった。
だけど、耳を澄ます。栞の声を、気配を聞き逃さないように、私はゆっくりと祭壇につづく道を歩いた。ステンドグラス越しの光は、いつもよりもずっと神々しく感じる。
足音と自分の鼓動だけが、頭の中に響いている。祭壇を避けて通り越すと、私は頭上二メートルのあたりから真っ直ぐ足元まで続くステンドグラスに手をついた。そこに隠し扉でもあるみたいに、私はパステルカラーにへばりつく。
――消えそうだ。
唐突にそう感じた。何かの感覚があってそう感じたのではない、五感よりも別の所が、運命と言うべき出来事が近づいているのを感じていた。
消えるのは、きっと私の方だろう。私は主人格ほど明確な存在じゃない。偽りの過去を背負わされた、薄っぺらな人間だ。
それでも、私は私である以上人間だ。栞に会いたいと強く強く願う、一つの意思を持った人間なのだ。消えるとしても構わない。ただ消える前に、栞に会いたい。それだけの人間だ。
(お願い、栞)
私はくずおれるように跪き、頭の上にある木製のイエスに祈った。もう時間がない。胸にざわざわしたものが私をせかしている。私の願いを聞き届けてくれるならば、神様でも悪魔でもどちらでもよかった。
聖書読書部のくせに、なんて不謹慎なんだ。――そう考えた、その時だった。ステンドグラスの中に、栞を見つけたのは。
「栞!」
今まで何度、その名前を呼んだだろう。光に透かされた色とりどりのガラスの中に、彼女はいた。これが幻像であろうと構わない。だって私の中にいる栞は、姿形は作られたものであろうと、栞の人格には間違いないのだから。
「栞、会いたかった」
私もあなたを探していたの、と彼女はいった。普通ながら私の顔が映りこんでいるところに、彼女の顔がある。
『紅霞。……私、何て言ったらいいのか分からないけれど』
栞は言葉を切って、私を見詰めていた。やがてその顔が、くしゃっと泣き笑いみたいな表情になる。
『ありがとう。今まで何度貴女に救われてきたか』
「栞」
私は栞と視線を交わしたまま、ぽろぽろと涙が頬を伝うのを感じていた。この感覚まで作られたものだなんて、思いたくない。この涙だけは本物だって、信じたかった。
「しお、り」
酷く胸が苦しくて、その名前を呼ぶ事すら難しかった。お聖堂の乾いた床に、丸い染みがいくつもできていく。
身体の真ん中の方を押されたような感覚が強くなると、私は嗚咽を抑える。次第にそれも難しくなって、私はステンドグラスに縋りつくようにして膝を折った。
胸の奥底が煮えたぎるような、暴動めいたこの感情の昂ぶりを、私は上手く表現できない。抱きしめたいのに、彼女はまるで檻の中に閉じ込められたかのように、触れられる距離に出てきてくれない。
「栞、し……おり……っ」
一つの言葉しか喋られなくなった私を、栞はしゃがんで見詰めていた。強く結んだ唇。瞳には、迷子の子供みたいな表情をした私が、悲しい色で映っていた。
そんな顔、しないで欲しい。せめて最後ぐらい、栞の笑顔が見たい。
そんな簡単な言葉も出てこなくて、短く吸い込まれた息はただ嗚咽に変わっていくだけだった。やっと会えたのに、何も言えずに消えていくなんて、それだけはいやだ。
今だから私は、はっきりと感じることが出来る。私にとって栞がどれだけ大きくて、どれだけ掛け替えのない人だったか。最期の最後で、私は。
「しおり」
私は、伝えなくちゃいけない。私が消えても、栞の記憶からは消えないように。私はとても簡単で複雑な感情を、一言で伝えなくちゃいけない。
「私は、貴女のことが、好きなの」
一際大きな涙の粒が頬を転がり落ちて、かすかな音を立てた。おそろしいぐらいに、私の最期は近づいてきている。私にはそれが痛いほどに分かった。
「貴女のことが、本当に、どうしようもなく、好きなの」
何回好きと言えば、私の想いの丈を伝え切れるのだろう。かすかな音が一つ聴こえる度に、意識は白く霞んでいく。
好きで、好きで、ただ大切で。栞がそばにいるだけで安心して、何もしなくたって私はその存在に甘えていた。栞が必要として私を作りだしたはずなのに、私の方がずっと栞のことを必要としていた。
「栞」
お願いだから、悲しい顔をしないで欲しい。ただ「ありがとう」って言って笑ってくれさえすればいい。
だけど栞の表情が笑顔に変わることはなかった。悲しそうな、私の感情を消化しきれないような表情で、ただ見詰め返していた。
『紅霞。私――』
その瞳から、大粒の涙が一つ滑り落ちた。
落ちる、落ちる。ステンドグラスの中で涙は弾け、ガラスの割れる激しい音が聞こえた。
それが私の聞いた、最後の音だ。
降り注ぐガラスの色彩。――そうして私は、粉々になって消えた。