世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.--
     Epilogue
 
*        *        *
 
 酷い耳鳴りの中で、心臓の鼓動は体中に響くぐらいバクバクと音を立てていた。眼は見開いているはずなのに、何も見えない。視界と言う情報源が、すっぱりと切り離されたみたいだ。
 途端に私の頭の中は外部の情報と内部の情報を摩り替えるように、いくつかの光景を網膜に映し出す。血管の浮き出た白い手首。息が詰まるほどの危険さを感じされる、カッターナイフの刃。
 次の瞬間、動き出した刃は私の手首を傷つけていた。自らを傷つける前の奇妙でおぞましい陶酔感と、赤い色の恐怖。私は叫び出したくても、ただフラッシュバックは続いた。
「――っ」
 やっと口が開いた、と思った瞬間には、もう視界は戻っていた。柔らかな光が差し込む祭壇で、私は床にへたり込んでいた。
 軋む頭が、さっきまでの記憶を蘇らせる。どういうわけか、ステンドグラスの中から見たような紅霞の姿が、手に取るように描くことができる。
 涙が浸透した声が耳元に戻ってきて、私はようやっと全部を思い出した。紅霞の表情の変化や、零れ落ちた涙や、最後の言葉まで。
「紅霞――」
 酷く切なそうな声が口から漏れて、私はぎゅっと目を瞑った。転げ落ちた涙は、床に出来たいくつものシミと並んで消えていく。
 まるで心を真っ二つにされて、片方を掠め取られたみたいだった。大きすぎた喪失感が、頭の中まで空っぽにして行く。鼓動はまだ、落ち着く気配もない。
 これを人は、絶望と呼ぶのだろうか。悲しいと思うその前に、感情すら持っていかれたみたいだった。
 よろめきながら、私は立ち上がった。そうする以外、私には何もできなかった。
 尚も柔らかな光を透かし通すステンドグラス。その光の全身に浴びると、失った部分を取り戻すかのように、奔流となった記憶が私を襲う。抗うこともできない私に、紅霞がまた戻ってくるみたいだった。
 紅霞の瞳を通してみた、私が見える。私の記憶ではない、紅霞の記憶が、確かに私の中に拭き込まれていく。
「ああ――」
 絶望とか、喪失感とか。そう言ったものの全てを埋め尽くすぐらいに、温かな気持ちで溢れていた。紅霞が私に向けてくれていた感情の全てが、心に染み込んでいく。
 私はまた涙を零してしまうぐらいに安堵した。紅霞は、消えてなんかいない。こんなにも私の中にいて、こんなにも私を満たしてくれている。まだ私を孤独から解放する為に、私の支えになってくれているのだ。
 お聖堂の空気を胸一杯に吸い込んで、私は扉の方を振り返った。見慣れたはずのお聖堂のはずなのに、私はふとデジャヴを感じた。きっとその風景にではなく、この状況に、だ。
 ――そうだ、あの時も一緒だった。
 身を引き裂かれるような思いの中で、私はお聖堂の中にいた。いくつかのやり取りの後、私はキスされて。一瞬の恐ろしいまでの安堵の後、彼女を突き飛ばした。
「――聖」
 その言葉に響きに含まれた甘やかさに、私は引き込まれそうだった。きっかけを掴んだ私の頭は、その中にある引き出しを次々と開けては中身を放り出す。
 胸の痛みも、喜びも、全て一つ一つ取り戻していく。温室の中の、土の匂い。お聖堂に響く聖の声。その手の温もりや、私を包む眼差しまで、全部。
 体中の血が一気に沸点まで上がったみたいに、その記憶は私から冷静さを奪おうとする。歯を食いしばって耐えようとしたけれど、それも難しい。『聖』という存在は、まだこれほどまでに私を振り回す。
 ――だけれど、どうしてだろう。
 大切な人が私の前から消えてしまうことは、その痛みは紅霞と同じなのに、心に風穴が空いてしまうような喪失感はなかった。こっちに転校してきて一ヶ月、半身を失ってしまったかのような痛みに泣くことを堪えられなかったあの頃のような、あの絶望的な気持ちはもうなかった。
「聖」
 もう一度その名を呼んだ。まだ胸は痛い。悲しくなる種なんて、まだそこら中に散らばっている。
 けれど擦り切れたようにボロボロになった心には、確かに温かなものが広がっていた。紅霞の残してくれたものは、傷薬みたいにちょっと沁みて、そして確かに私を癒してくれている。
 ――紅霞。
 これが、貴女の意味だったというのか。この為に貴女は生み出され、消えたのか。
 だとすれば紅霞の意味は、私にとって大きくなり過ぎていた。紅霞という存在を作ったのは私だけれど、その存在は役目を超えて尚大きくなり続けていた。今も尚、だ。
 私はいつの間にか静かになっていた心臓を押さえながら、外に続く扉へと歩いた。背中にはあの、優しい光が降り注いでいる。
 扉を、開けよう。
 そして言わなくては。私を許してくれるこの場所にではなくて、外の世界へと向かって。
 
「私も貴女のことが、大好きだった」
 
 扉を開けた瞬間に舞い込んでくる、一陣の風。
 いつの間にか芽吹いていた桜の花びらの一片が、私の頬を撫でていった。
 
 まるで紅霞の手のように、優しく触れて。
 桜の花びらは私を追い越し、神の御許へと消えていった。
 
 
 
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