世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.12
     世界の偽り
 
*        *        *
 
 ふと目が覚めたらそこは見慣れない場所だった、という経験は誰にでもあると思う。だけどそれがベッドの上ではなくて、トイレだったらどれだけ異質なことか、理解できる人は少ないのではないだろうか。
 私は気が付いたらトイレの手洗い場の縁に手をついて、鏡を覗き込んでいた。どれだけ見ても私の顔が変わるはずがないのに、ただ鏡を凝視していた。
「ここは――」
 どこ、と言いかけて、私の知っている場所だということに気が付いた。私の診療を行ってもらっている病院のトイレは、どこも同じような構造をしているのだ。
 鈍い頭痛に頭を抑えながら廊下に出ると、そこにはもう人影はなかった。記憶のある限りでは明るかったはずの空はもう真っ黒に染め上げられ、夜も深いことがうかがい知れた。
「おかえりなさい」
 道なりにフラフラ歩いて行くと、廊下には見知った顔があることに気が付いた。一体どういう事なのか、シスター・村田はダルマのようなあの人形を手に持っている。
「あの、私」
 そう言いかけた私に、シスター・村田は手の内の人形なんてなかったかのように「ええ」と頷いた。
「また倒れたのよ。顔を洗って、すっきりしたかしら」
 さあ、と続けて学園長は病室の扉を開いた。ここが私の病室らしい。
 身体は特に不調を訴えてはいなかったけれど、病室に入れられた患者らしくベッドに横になった。確かに私はついさっきまでそこに居たらしく、ベッドの中には人の温もりが残っていた。
「さて、そろそろ落ち着いた頃かしら」
 シスター・村田はベッドの脇にある椅子に腰掛けると、私の手を握った。次に来る言葉が何故だか私には予想できて、どきりと心臓が跳ねる。
「実はあなたに話して置きたいことがあるの」
 
*        *        *
 
 次に『私』が目覚めたのは、翌日の朝だった。『栞』はすやすやと、私の病室のベッドの上で寝息を立てている。
 ――よかった。私にはまだ、彼女が見えている。
 そう安堵したけれど、現実というのは今にも私を置いてけぼりにするような速さで流れていた。私に限らず、人間というのはその流れに置いていかれないように、必死にしがみついて生きている。そして私もその中の一人らしく、しっかりと現在を掴んでいないといけない。
 昨晩の学園長から知ったことと言えば、少なくて単純で、あまりにも重たいものだった。私が万に一つも考えなかった答えだ。
『私は本当に、久保栞なの?』
 いつかの栞の言葉が、頭の中をリフレインしていた。私はどうして、それを簡単に肯定できたのだろうか。それはきっと、私が私であることに疑問なんか抱いたことがないからだ。
 そのことを考えると、未だに動悸が収まらない。そうだ、最初から最後まで、三島紅霞が三島紅霞である確証なんて、どこにもなかった。
「――っ!」
 ぼけっと栞の顔を眺めている暇なんてなかった。私は病室を跳ね馬のような勢いで飛び出すと、人影もまばらな廊下を駆けた。すれ違った看護士から注意の言葉が届く暇もないぐらいの速さで、病院を後にする。
 学園長は、どこだ。心当たりなんて、学園長室ぐらいしかない。それも春休みの学校にいるものなのか、望みは薄いが行くしかなかった。
「はぁっ、はぁっ……」
 肺の悲鳴が断末魔のようになった頃、ようやく学園長室に着いた。ノックも無しに開いた扉の向こうには、しかし人の姿はなかった。
「一体、どこに――」
 次に学園長がいそうなところは、どこだろう。職員室か、それとも自宅か。
 誰もいない学校の廊下を見渡しながら、必死に考えを巡らせる。――パイプオルガンの音が聞こえたのは、その時だった。
 そうだ、お聖堂。まがりなりにも彼女は聖職者だ。私は祈りを捧げる学園長を上手く思い描けないまま、お聖堂へと走り出した。
 息も切れ切れで辿りついたお聖堂の扉は厚く、重厚なオルガンの音は人を誘うようにも追い払うようにも聞こえた。私はそれに逡巡すらすることなく、扉を開く。
「……」
 扉を開くと、音圧の増したパイプオルガンの音が辺りを満たしていた。祭壇へ真っ直ぐ伸びた道を進んで行くと、ステンドグラスから漏れた光から逃れるようにしてオルガンを弾いている学園長の姿があった。
 私がここに来る事を、予め分かっていたのだろうか。学園長はいたずらに「トッカータとフーガ」の頭の部分だけを弾くと、背中に目があったかのように真っ直ぐ私を振り返った。
「教えて下さい」
 私がそう言うと、学園長はそれが聞こえていないかのように目を伏せた。私はそれを次に促す合図と取って、続ける。
「一体、栞に。……いいえ、『私』に何を飲ませていたんですか」
「……貴女はまだ何も分かっていないようね」
 学園長は言うことを聞かない子供の相手をするのに疲れた母親のような目で、私を見た。
「解離性同一性障害……聞き馴染みがない言葉でしょうけど、意味は分かっているわね?」
 学園長の言葉に、私は小さく頷いた。簡単に言えば、多重人格のことだ。
「じゃあ、貴女がその障害を持っていることも自覚しているわけね」
「……まだ、信じられませんけど」
 その問いにも、私は頷き返すしかなかった。
 多重人格――それは栞と私を解明するのに、一番有力な説だった。私は見てしまったのだ。駆け込んだ手洗い場の鏡に映った、栞の姿を。
 たびたびある、記憶の抜けた時間。私と話す前、じっくりと言動を見極めてから話す沙都。友人たちの言動の端々が、じわじわと事実を突きつけてくる。今思えば、学園長が仕込んだらしいあの人形は、私に当てたヒントだったのだ。
 ――信じたくなかった。そうと認めるには、まだ疑問が多すぎるのだ。だって私は、こんなにも私でいる。私には過去があって、思い描いた未来だってあるのだ。
「質問は沢山あるんですけど、まずは第一に。どうして私に、栞が見えるんですか」
 一番大きな疑問は、それだった。どうして多重人格であるはずなのに、別の人格であるはずの栞の姿が見えるのか。互いの人格を認知することはできても、対面したり、触れ合ったりなんて、物理的に不可能なはずなのだ。
「貴女の症状は前例のないことよ。解離性同一性障害と併発した全健忘、それに別人格同士の干渉なんてね。あなたはそれを薬のせいにしたいようだけど、それは違うわ。あの薬は本当にただの精神安定剤なのよ」
 それともう一つ、と彼女は続ける。
「もう一つの間違いは、貴女が『栞さんと自分の人格しかない』と思っていることよ」
 学園長はステンドグラス越しの光が散らかったお聖堂の中を、ゆっくりと歩き出した。まるで流れのない水の中を泳ぐ、魚のように。
「どういうことですか」
「人格が複数ある場合、主人格と正反対の性格の人格があるのが、障害の通例よ。多くは心因性の、つまり外的なストレスから自分の守る術がなく、今辛い目にあっているのは自分じゃないと言い聞かせる為に別の人格を作るの。だから正反対の性格の人格が作られるのだけど、栞さんの場合は少し特殊ね。おそらく解離性同一性障害に至った経緯は、彼女が交通事故で両親を亡くしてから。そこにもう一人、あなたという両親のいない人格を作った。元から両親なんていないと、錯覚する為にね。そしてその二つの人格を上手く引き合わせる為の人格さえ、彼女は作ってしまった」
 それが第三の人格、アリカだと彼女は言った。
「アリカは攻撃的で、時折自分の身体を傷つけて彼女の思うがままにしようとした。手首を見てみなさい。身に覚えのない傷はないかしら?」
 言われて私が手首を見ると、そこにはリストカット常習者のように、赤い傷跡がいくつも残っていた。よく見なければ分からないぐらいだったから、結構前にできた傷らしい。
「私が今の今までこのことをあなたに話せなかったのは、そのせいよ。話したらこの身体を殺すと、彼女は見せびらかすように自分の身体を切りつけた」
 背中がゾクリとして、私は身体の中にナイフでも出来たかのような錯覚に襲われた。自分が内包したものの危険さを、手首の傷が物語っている。
「けれどそれは、私が栞と話したりできる説明にはなっていません」
「そうね。でもこう考えたら簡単なことよ。情報と言うのは、脳内での微弱な電気信号によって取り入れられ、記憶になる。外的なものの全ては、内部で形成される質量によって脳に伝達されるということよ。見たり、触れたりしなくても、その情報さえ作ることができれば、もう一人の人格と会うこともできる。貴方の場合、外的が内的に摩り替わっただけなのよ」
「でも、そんなことって」
 聞いたことない。信じられない。そう声に出して言いたかった。叫び出しそうな自分を、必死で抑えた。
 酷く不安そうにしていた栞、穏やかに微笑んでいた栞、私を優しい人だと言ってくれた栞――。全部、その全部が作られた情報だったなんて、信じられない。信じたくない――。
「そんなこと、普通じゃ考えられないわよね。でもね、貴女は確かに自分の中に人格を作り出した。全ては自分を守る為に」
「でも、私には記憶があります。ずっと昔からの記憶があるんです。私はこれから大学に行って、社会に出てガンガン稼いで、それからお世話になった養護施設に――」
「そんな施設は存在しないのよ。三島さん」
 諭すように学園長は言った。私は耳を塞ぐ。聞きたくない、認めたくない。私は私だ。三島紅霞は三島紅霞でなくてはいけない。私は他の、誰でもない――!
「アリカは、アリカとしての人格が二週間でてこなかったら、このことを話せと言っていたわ。そしてそれが、今日この時というわけよ」
 私の心の乱れなど気にもかけないように、学園長は静かに言った。その声には反論すら寄せ付けない強さがあって、それが私の鎧を易々と剥いでいく。
「人格が一つに統合されようとしている。先日お医者さまは、そうおっしゃっていたわ」
「だけど私は、私は……」
 私は確かに、ここにいる。私が私であることを否定されて尚、ここに存在しているのだ。その存在は確固として、強大でなければいけない。私は、この私は消える為に生まれてきたんじゃない――。
「私は、――私です。誰が何と言おうと、たった一人の」
 覚悟していたはずなのに。私は紅霞ではなくて栞なんだと覚悟していたはずなのに、どうしてその事実に抗ってしまうのだろう。全部自分で捻り出した答えで、その確証を求めてここにきて、そしてそれを肯定されたらただ反駁する。自分でも、呆れるぐらいに。
「そう、貴女は貴女よ。そして貴女が見ていたのは、偽りの世界ではないの」
 学園長は一息置いて、私の目を見て言った。
 
「貴女が見ていたのは、栞さん自身で、栞さんが見ていたのは貴方自身。情報や記憶は作られたものでも、貴女と栞さんについて、何一つ偽りはないのよ」
 
 
 
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