世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.11
マトリョーシカ・クイズ
 
*        *        *
 
 部屋を出たきり戻ってこなかった栞が見つかったのは、午後七時を過ぎてからだった。暗い冷たい、寮の裏手の散歩道に倒れているのを、誰かが見つけたのだ。
 
 その日は二人とも別行動を取っていた。私は日頃の『部活出不精』を解消するため、春休みにたった一度ある聖書読書部の活動に参加していて、栞はずっと部屋で本を読んでいたらしい。
 皮肉なことに、栞が寮の外へ出て行くのを目撃したのはあの坂部さんだった。栞はふらりと寮を出て、真っ直ぐ裏手の散歩道に入って行ったと言う。夕食の時間になっても帰ってこないというので、二度目の栞捜索が始まったのだ。
 目撃情報があったお陰で、栞はすぐに見つかったのが幸いだった。まだ寒いこの季節、外で倒れていたりなんかしたら命に関わることだ。
「……」
 病院の個室。栞の横たわるベッドの横で、私は忸怩たる思いでいっぱいだった。ついさっき、栞がいつも服用している薬を飲んでないことが分かったのだ。
 栞が毎日薬を飲んでいるか確認するのは、一番近くにいた私の役目のはずだった。だけど栞を信用した私は、その役目を二週間かそこらで放棄したのだ。
 ただ悔しかった。一番近くにいた、一番一緒にいたのに、どうして気付いてやれなかったのだろう。
 栞はただ、薬を飲み忘れたのだろうか。それとも、自ら薬を断ったのか。後者だった場合、私の立場はない。独断でそうしたのなら、私は栞になんて声をかけたらいいのかすら分からない。
 静かに胸を上下させる栞の肌は、いつもより白かった。血管の浮いた細い腕は、シーツの上で微動だにしない。先ほど「命に別状はない」と言われたばかりなのに、私は目尻に浮かんでくる涙を止めることが出来ない。
 そうして口を閉ざして栞の顔を見ている時だった。不意に病室の扉が開かれたのは。
「……三島さん」
 静かに開いた扉の向こうから、シスター・村田は現れた。心なしか、顔色が優れないように見える。
「もう面会時間は終わっているわよ」
「学園長こそ。よく入れましたね」
 シスター・村田の言う通り、面会時間は既に終わっていた。私は帰る振りをして身を隠し、巡回が終わった頃を見計らって病室に戻ったのだ。もしかしたら主治医も一緒かも知れないと思って学園長の後ろを確認したが、誰もいないようだった。
「患者の保護者で、入院当日なのよ。当然でしょう」
 学園長の何気ない一言が、やけにずっしりと私の心に圧し掛かった。いくら私が保護者面していたって、本当の保護者はこの人なのだ。その上栞の叔父だと言う人から一任された、公認の保護者。私はまるで八つ当たりをするみたいに、無責任な栞の叔父を恨んだ。
「薬を飲み忘れたそうね」
 その言葉に、私を責める様な調子は一切なかった。それでも私は、自分を責めることに止められない。なるだけ一緒にいるように言われて、私もそれを受けたというのに、油断していたらこの結果だ。自分を恨むなという方が無茶な話だった。
「あの薬は、何なんですか」
 私は学園長の目を見て言ったが、彼女の方はじっと栞の顔を見詰めていた。憂いを帯びた、悲しい視線だった。
「ただの精神安定剤じゃなかったんですか。一回飲まなかったら倒れるなんて、おかしいです」
 私は学園長に対して、明らかな疑いを持っていた。聖職者たるもの、嘘は厳禁だ。それでもこの人なら、何かの目的の為なら嘘をつくだろう。明らかに隠し事としているという態度が、それを物語っている。
 シスター・村田を褒め称える人たちの言葉は、全て要約すれば溢れ出る怜悧さだという。どんな時も挙措を失うことなく、最良の判断ができる冷静沈着なシスター。マザー・テレサとは似ても似つかない。
 私にとって見れば、それは冷酷さにも似ていた。教会の階層というのは、全て慈愛の大きさや信仰心で決まるものじゃない。企業体質的な部分も確かにあって、そこに彼女の存在は必要だったということだ。故に学園長は、この辺りの修道会に広く知られているのだろう。
「三島さん。私はお医者様ではないわ。薬に対しての知識は、深くないのよ」
「では質問を変えます。薬の説明というのは、そのお医者様から聞いたことを全て正確に伝えていますか?」
「疑っているの? 栞さんがこうなったからといって、八つ当たりはよしなさい」
 確かに彼女にしてみれば、そう見えるだろうな、と理解はする。しかし、本当に精神安定剤なら、これほどまで影響のあるものだろうか。取り乱しはすれ、いきなり倒れるなんて、何かおかしい。
 学園長の言葉は私を叱りつけるものだったけれど、やっとこちらを向いた目は怒っていなかった。ただ見透かされまいとする感情が浮かんでいるように見えたのだ。そのポーカーフェイスこそが、私にとって一番あやしい部分だった。
「薬のせいにしたがっているようだけれど、症状だけみればただの貧血なのよ。薬が関係していない可能性だって、十分にあるわ」
「……栞は今朝から、とくに体調不良はなかったはずです」
「今朝の話でしょう? 急に体調が悪くなることだって、いくらでもあるわ」
 話はただ平行線を辿る。埒があかない、と私は思った。
 ため息を一つついて無言で病室を出ようとすると、学園長は「どこへいくの」と声を一段階大きくさせた。私は無視して病室の外に出ると、白い廊下は室内よりもずっと冷えていて身が縮こまらせる。人の気配がすっかりなくなった病院というのは生活感が一気に蒸発して、生気を感じさせない不気味さすら漂わせていた。
 一番最初に目に付いた窓の枠に何かあると気付いたのは、病室を出て二秒後のことだった。いつか見た可愛らしいダルマのような人形が、窓枠から落ちる寸前のところに座っていた。赤頭巾をして欧風のこけしのような表情を浮かべたそれは、笑顔であるからこそおぞましく、目が合った瞬間背中に痺れが走った。
 ――どうして、これがここにある?
 私の部屋にあるものとは違っているようだが、問題はそこではなかった。どうして同じような人形が、誰がそう差し向けたのかも分からない形で現れるのか。――よくよく考えれば、今この状況に限れば一人しかいなかったのだけど。
「栞さんと一緒にいれば、いつか分かるかも知れないと言ったわよね」
 背後から学園長の声が聞こえたけれど、私は振り返らなかった。人形の意味が分からなければ、学園長の言っている意味も分からなかった。
「なんのことですか」
 ゆっくり振り返ってから言うと、学園長は表情を変えずに返した。
「栞さんが転校してきた理由よ。けれどそれは今、重要なことではないの」
 きっといずれ分かるでしょうけど、と彼女は付け足した。
「どういうことですか」
 そう訊く私に、学園長は何も答えなかった。ゆっくりと私を通り越して、窓際に置かれた人形を手に取る。
「答えは自分で見つけなければ意味がないのよ」
 学園長はその人形をそっと私の手の中に滑り込ませた。そして右手は上の方を、左手は下の方を持たせるように手を沿わせる。一体彼女は、何がしたいのだろう。
「開けて」
 彼女は短くそう言った。言われた通り蓋を開ける動作をすると、ほとんど手ごたえもなくその人形は真っ二つになった。
 人形の中には、一回り小さい人形がある。描かれた模様は、縮小されただけでまったく一緒だった。
「これがあなただとしたら。……分かるかしら」
 さっきからの学園長の言動は意味不明過ぎて、もはや私には奇人のように映っていた。謎とかそういうのを超えて、気がおかしくなってしまったんじゃないかと心配になる。
 だけどシスター・村田に狂気の欠片もなければ、自失しているわけでもない。瞳には未だに衰えない、強い光が灯っている。おかしいのは、私の方じゃないのか、と思うぐらい。
 そう考えて、不意に頭をガツンと殴られたようなショックを覚えた。――おかしいのは私の方じゃないのか。まさにそれだ。
「まさか」
 まさか、まさか、まさか。
 心臓が酷く荒く脈打って、冷や汗が浮かんだ。嫌な予感に背中を押されるように、私は走り出した。
 トイレの入り口の扉を跳ね開けると、私は何故これほどというぐらい必死になって鏡を覗き込んだ。そこにいるはずの、私を探して。
「――ああ」
 だけど私は、そこのどこにも居なかった。
 
 紅いはず瞳は、どこにも、ない。
 
 
 
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