世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.10
        撹乱
 
*        *        *
 
 有意義な時間と無意義な時間では、時間の流れるスピードが違って感じる。そう痛切に感じたのは、あれから二ヶ月以上も経った後だった。
 春の風、と呼ぶにはまだ冷たすぎる風がやんわりとその鋭さを潜ませて行く度、私は焦る。春休みと呼ばれる期間になって尚、私が知ったことと言えば少ない。
 第一に、私が過去の事を知っても頭痛はしなくなっていた。この学園にやってきた当初の私の様子であるとか、その周りのことであるとかを聞いても頭が締め付けられることはなかった。
 それを気にしなくてもよくなった分、私は私についての情報を得やすくなったのだが、そうそう上手くはいかなかった。すぐに私が知り得る情報は尽き、また堂々巡りが始まる。考えて得られる答えではないだろうけれど、私にはそうすることしか出来ないでいた。
 
「もうすぐ咲きそうね」
 紅霞の視線の先には、綻びかけた桜の花があった。身を縮こまらせているようにも見えるそれは、後一週間もすれば柔らかい色を見せてくれるだろう。
 寮から出て、通学路である川沿いの道とは反対方向に歩いたところに、その桜の木々はあった。辛うじて林道と呼べるであろうその道は、お決まりの散歩コースになっていた。
「そうね。ここら辺の木は、全部桜なの?」
「この一角だけね。寮の景観をよくする為に植えたって、聞いたことがある」
 そうだとしたら、些か情緒にかける動機だと思った。勿論、いざ咲けばそんな理由など気にもならなくなるのだろうけど。
 少しずつ温かくなっていくにつれ、私たちは外に出る機会が増えたように思う。二人でただ部屋に篭って宿題を片付けたり、話をしていたりすると、どちらともなく外に出ようと言う気になるのだ。鬱屈としている時はなおさら、篭りっきりという不健康さを払拭したくて、目的もなく外へ出た。
 紅霞とは、いつの間にか行動を共にするようになっていた。以前なら単独行動していたであろう時も、いつも隣には紅霞がいる。私に仲のいい姉妹がいたら、きっとこんな風にいつも一緒にいるのだろう。そう思ったけれど、姉妹という関係は想像に難し過ぎた。
「前に実夏から聞いたんだけどね、桜が咲く頃になると、幽霊が出るんだって。よくある噂話よね。誰かが亡くなったとかそういうことがあったわけでもないのに、幽霊が出るんだもの」
 桜と幽霊か、それはロマンチックでおぞましい。そんな他愛のない話を続けながら、私は体調の変化に気を向けていた。
 ――およそ二ヶ月、飲み続けている精神安定剤。これを飲まなければ、一体どうなるのだろう。
 そう考えて、実行に移した日が今日ということになる。学校のある時だとちょっとしたことで情緒不安定になったりするかも知れない危険があった為、休みになるのを待っていたのだ。
 精神安定剤、という馴染みのない薬の効果を感じたのは、最初の頃だけだった。どうしようもなく不安な気持ちを、少しだけだが静めてくれた。少なくともおかしな行動を起こしたり、取り乱したりはしないぐらいに効果を発揮していたのだ。
 しかし、今はどうだろう。酷く混乱しているわけでもなければ、躁鬱であるというわけでもない。身体の調子を見て言うならば、まったくの健康なのだ。
「幽霊、ね」
 このことは、紅霞に話してはいない。過保護な彼女のことだから、反対するに決まっているのだ。
 その独断に、後ろめたさがないかと言ったらそうではない。いつも、誰よりも傍に居てくれる彼女には感謝していたし、誰よりもこういう事は伝えるべきだと分かっている。そして伝えたらどうなるかということもよく分かっているから、伝えられないのだ。
 桜の木に注意を向けている紅霞の横で、私は罪悪感でいっぱいだった。だけどそんな気持ちになってでも、可能性がある限り試して見たかったのだ。
 私が私で過ごしてきたのは、およそ二ヶ月。それは長いように感じて、あまりに短い。まだ周囲とそれを包む世界は、曖昧に感じる。最初薬を飲み始めた時に感じていた思考のしびれは、もう慣れてしまったのか感じなかった。だからこそ今、私を深く疑わせるのだ。
 薬を飲んで落ち着かせるんじゃない、薬が落ち着きを感じられるような世界を作って、見せているだけじゃないだろうか。――そんなことを考えだしてしまう私の頭には、まだ薬が必要なのかも知れないが。
「あっ」
 紅霞が声を上げた方向を見ると、そこにはやはり桜の木があった。ただよく目を凝らしてみて分かったのは、そこにはただ一つだけ、ほぼ満開と言っていいほど花弁の開いた桜の花があったということだ。
 薄いピンクの花びらに、血管を思わせる赤い筋がうっすらとのっている。黄色がかった花びらよりも色の濃い中心部には――私を真っ直ぐに見詰める瞳があった。
「――」
 声も出なかった。桜の花びらを目蓋の様にして、そこには確かに瞳があった。義眼ではない。瞳の表面に潤いを帯びた角膜までちゃんとあって、キョロキョロと左右を見た後、私を見詰めていた。
 幽霊の話を思い出したけれど、これはそんなものじゃない。霊感があるわけではないが、確信めいたものが私の中にはあった。
『止めておけ』
 天から声が降ってくる。頭の中で響くような声ではなく、たしかに頭上からそんな声が聞こえた。見上げれば青かったはずの空は血のような赤に染まり、夕焼けとは違った異質さを見せている。
 紅霞は、紅霞はどこ――?
 咄嗟に腕を掴もうと伸ばした先には誰もいなかった。確かにそこにいたはずなのに、私の手は宙を掴む。
 辺りを見回すと、まだ蕾だったはずの桜は満開になり、幾百の瞳が私の方を見ていた。瞬きするたびに、桜の花びらを散らす。キョロキョロと辺りを見渡した後、ただ一点私の方に視線を向けた。
『踏み込むな』
 赤い空が割れて、唇の形を作った。空に走った亀裂は滑らかに動き、私を牽制していた。声はオクターブを幾つも重ねたような重厚さで、悪魔を思わせるおぞましい響きを持っていた。
「あ、ああ――」
 足が震えだして、立つことすらままならなかった。枯葉と桜の絨毯にへたり込むと、金縛りにでもあったかのように動けなくなる。喉からヒューヒューと音が漏れるだけで、悲鳴は声にすらならない。
『止めておけ』
 三度目の警告の後、大地が呼吸するように風が吹いた。大きな風がそこらじゅうを駆け回り、桜の花は目を閉じる。赤い空は、口を閉ざした。
「栞」
 また空から声が降ってくる。青い空。跪く様に天を仰ぐ私に落とされた、人の影。
「栞!」
 紅霞の声が聞こえた。顔も見える。確かにそこには、紅霞がいた。
 辺りにはもう桜が散った後は見えなかった。枯葉がただ、地面を覆いつくしている。
「栞ったら。ねえどうしちゃったのよ、栞!」
 ――私はようやく気付いた。幻覚だ。ここに幽霊なんていない。私はただ、幻覚を見ていたのだ。
「あ――」
「栞!」
 枯葉に覆われた地面に倒れ込むと、私はそこに青い空があることだけを確かめ、目を閉じた。紅霞が叫ぶ声が聞こえても、再び目を開けることはできなかった。
 
 
 
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