≫Chapter.09■■
マトリョーシカ
マトリョーシカ
* * *
翌日私と栞は、学校を休んだ。仮病ではなく、実際に栞が風邪に罹ったからだ。症状は軽かったが、大事を取って休ませた。
私は心配だから看病する、と正直に伝えたらすんなり了解されたのが意外だった。普通ならその役目は寮長に一任されるものだからだ。
「……」
さっきから栞は何も喋らない。いや、眠っているのだろうか。こちらに背を向けて横になっているから、その様子では判別が付き難い。
まったく、自分でもお節介だと思う。以前の私なら、絶対自分から看病を進み出るなんてしなかったはずだ。
この内面の変化は何なんだろう。最初の頃感じていた同情ではないことだけは確かだ。あの頃と今では栞を見る位置が違っている。私は栞の保護者が持つような使命感を自分が抱えていることを、はっきりと自覚していた。
昨日、栞のことを一番心配していたのは、間違いなく私だった。酷く動揺して、体の一部がそぎ落とされるような錯覚までして、スカートの裾が翻るのも気にせず全力で走った。信じられないぐらい長い距離を最高速で駆けた私の足は、昨日に引き続き抗議の声をあげている。
私にとって栞は、疎ましいルームメイトだったはずなのに。――いや、最初から疎ましいだけではなかったけれど、これほどまで彼女に情が移るとは意外だった。
あの人はあの人、私は私。そう言い聞かせて線を引いて、他人と接してきた。それが家族も親類もいない、天涯孤独だという一つの真実に対する盾。その防壁が破られようものなら、私は立ちまち瓦解する。
だけど今はどうだろうか。今栞は、盾を叩くことも取ろうとすることもなく、いつの間にか私の後ろに寄り添っている気がする。その間隔は酷く恐ろしくて、泣きたいほどの安堵でもあった。
私は立ち上がると栞の眠るベッドに近づき、顔を覗き込んだ。その容色は晴雨を繰り返した日の朗月にも似て、冴えた美しさを持っていた。
――私は彼女に、何ができる。
今朝から私は、そんなことばかりを考えていた。栞の知りたいであろうことのほとんどを、私は知らない。教えてあげたくても、私が知っていることなど僅かなのだ。
結局、思考は折り返してスタート地点に戻り、時間を捨てて行く。答えなんてもうあるのに、それを見ないフリして、何度も何度も思考を積み重ねる。
「はぁ……」
いい加減、息が詰まりそうだった。煮詰まった頭は新鮮な空気を欲していて、不意に外に出ようと思い立った。環境を変えれば、少しは好転するかも知れない。
「あっ」
ドアを開けた瞬間、鉢合わせた人の存在に気付いて私は声を上げた。それは相手も一緒で、ショーットカットの髪をさわさわと肩に触れさせながら、彼女は胸に手を当てて驚いていた。
「沙都ちー、びっくりした」
「……紅霞」
何故だか沙都は、戸惑うように私を呼んだ。奇妙な反応だ。
「そっかもう放課後か。……あ、今栞は寝てるから」
そう言って私は、外に出てドアを閉めた。廊下をひっそりと流れる空気は部屋の中のそれよりもいくらか冷たく、思わず身が縮こまる。
「そう……ねえ、ちょっと」
沙都はそう言うと私の袖を掴んで廊下を歩き出した。私が寮に入ってから実夏と沙都は同じだけ長く一緒にいるけれど、クラスまで一緒だとクセまで移るらしい。
寮の庭まで出ると、沙都は「はぁっ」と息を吐いた。ため息なのか、それとも緊張を抜け出した時の安堵の吐息なのか、私には分からない。
「今日ね」
沙都は一度そこで言葉を置くと、私の目を見て言った。
「実夏が、キレた」
「は?」
私は間の抜けたことに、口を開放してそう聞き返した。余りにも予想していなかったことを聞くと出る、私の悪いクセだ。
「朝、坂部さんに会うなり。いきなりだったから私も驚いたわ」
坂部さんと言うのは、昨日栞に難癖をつけた生徒だ。人一倍自己顕示欲が強くて、おまけに被害妄想と自己主張も強い、確か栞のクラスでは中心核と言える少女だった。勿論私は、その取り巻きが彼女のことをどう思っているか、知る術もなければ知りたくもない。
沙都の話を整理して並べていくと、実夏はその坂部さんにぶちギレたのだ。今朝、朝練のなかった沙都と登校したらしい実夏は、その時なんの変化もないようだったらしい。だというのに、彼女の顔を見つけるなり詰め寄ったと言う。みんな仲良しがモットー、誰よりも調和を重んじた彼女が、クラスの中心人物に食ってかかるなんて、意外を通り越して騙されたみたいだ。
沙都から聞いた話の中で次に驚いたのは、坂部さんの取り巻きが実夏に同調したということだった。誰も言えなかったことを、あなたはなんて自己中心的で狭量な人間なんだということをはっきり言い放った実夏に、彼女たちは意見を重ね合わせたのだ。
普段の彼女ならば相手の意見がどんな正論でも言い返しただろうが、彼女は何も言い返さなかった。何も言い返せなかったのだ。これでとりあえず、栞が学校に行って変な目で見られるということはなくなった。
「もし中々出てこれないようだったら、寄せ書きを書いて送ろうかって話もしてるの。栞さんが学校に来易くなるように」
沙都の言葉を聞いていて、私は嬉しくて泣きそうになった。自分のことでもないのに嬉し泣きしそうだなんて、どうかしている。
だけどそう考えて、私はどれだけむなしい生活を送ってきたのだろうとも考える。誰かの為に泣けるということは尊くて当たり前で、大切なことのはずなのに。
「そっか。ありがとう」
そんな素っ気無い感謝の言葉は、今の私の精一杯だった。きっとこれ以上喋れば、声が涙に潤っていることを悟られてしまう。
「うん……」
そう言って、沙都はそれ切り黙ってしまった。気付かれたのか、と思ったけれど、ただ単に言葉を尽くしてしまっただけらしい。
「栞さん、寝てるんだったよね。お見舞いに行こうと思ってたけど、出直すことにする」
「そうね、悪いけどそうして貰うのがいいと思う」
栞はまだ寝ているだろうし、起きていたとしても何となく沙都と会って欲しくないと思った。沙都が栞にとって精神衛生上よくないということではなくて、私にとって、という理由で。
酷い心のぐらつきに、私はただ戸惑うしかない。栞のことを想って、栞を見舞いに来てくれた友人に、私はなんて――なんて酷いことを考えたのだろう。
だけど私は、本当に今は誰とも栞と会って欲しくなかった。精神的に弱っている彼女に、たとえ友人であろうと、安易に触れて欲しくなかったのだ。
沙都の背中を見送ってから、私は部屋に戻った。ドアを締めた瞬間、沙都の見舞いをしようとした思いが背中に圧し掛かったような気がして、この部屋だけ重力が違うような錯覚を受ける。
私がベッドに近づくと、栞は目を覚ましていたのか身体を横にしたまま窓を見つめていた。灰色の空から私へと視線が移った時、少しだけどきりとした。
「栞」
何か言いたそうな唇より先に、私は言った。今すぐ、沙都に聞いたこと、みんなのことを伝えなくては。そう思ったけれど、心は感情を詰め込み過ぎて動きが鈍くなっている。
「紅霞」
栞は私の言葉をさえぎるように、毅然とその名前を呼んだ。慣れていたはずなのに、改めて呼ばれると少し違和感と気恥ずかしさがある。
「ありがとう」
一瞬、栞が何を言っているのか分からなかった。少し考えれば、それは看病に対してだと分かるのに、私のその言葉で頭の中が白く塗りつぶされていくのを感じていた。
「私、凄く安心したの。目が覚めて、誰もいなくて、凄く怖くなって。そうしたら、すぐ来てくれたから」
私は思わず、栞の手を取っていた。さっきまで寝ていたからか温かくて、そして想像以上に細い指だった。
か細い栞の声がすっと鼓膜に吸い込まれて、何か他の物に変わっていく。嬉しさとか、喜びとか、得ようと思っても指をすり抜けていくそれが、心の中でひっそりと大きくなっていた。私を必要としてくれたことが、無上の喜びであるかのように全てを満たしていた。
「あっ――」
強く手を握った瞬間、栞が短く言った。だけどそれは手に力が込められた驚きではなくて、何かを見つけたという驚きだった。
「あれは、誰が持ってきてくれたの?」
「え……?」
栞が目で指した方向を見ると、化粧台の上に置かれた人形に気が付いた。私が部屋を出た時には、こんなものはなかったはずだ。
可愛らしいダルマみたいな人形は、じっとこちらを見ている。私が少し空けた間に、誰かがこっそりと置いていったのだろう。実夏だろうか。お見舞いに持ってくるものとしては、あまりにもシュールだ。
「誰かしらね、持ってきてくれたの」
私はその人形を化粧台からベッドの脇の台に移すと、コンと指先でそれを傾けた。
何の抵抗もなく倒れた人形は、ダルマのように起き上がってくることはなかった。