世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.08
   夜から逃げて
 
*        *        *
 
 赤い陽光が消え失せ、空は色濃い紺で染められていた。冷たく乾いた風は時折追い風になったり、向かい風になったりしながら体温を奪う。
 走り出してもうどれぐらい経ったのだろうか。喉はカラカラに渇き、冷たい風を吸い込み続けた肺はキリキリと悲鳴を上げている。心臓は飛び出しそうなぐらいに跳ね回り、酸素の足りなくなった脳は嫌な気分を曖昧にしてくれた。
 走るのに行き先は必要なかった。ただ居場所が無いから逃げるだけ。それが目的であり、理由は十分に揃っていた。
 最初紅霞さんは追いかけてきたけれど、交差点の信号が赤になる直前で渡った時に振り切った。彼女から逃げても仕方ないとは知りつつも、誰とも話したくない気分だった。
 空気を、希薄に感じる。考える為のエネルギー源が足りなくなった脳は、ただ走るということにだけ使われ、考えたくもないことは同じところでループしていた。
 ――私のことを、疎ましいと感じている人がいる。
 逆に考えれば、誰からも疎ましいと感じられていない人を探す方が難しいのかも知れないが、ショックなことには違いなかった。今までの私は何と気楽だったことだろう。
 自分を追い求めるよりも、まず支えてくれている人たちのことを知ろう。そう思ったのは決して間違いではないと思うけれど、それに甘えていた。ぬるま湯に浸かって、安心し切っていたのだ。
 まったく、なんて理不尽なんだろう。そう思ったことは、一度や二度ではなかった。私はそこまでの罪を犯したのだろうか。もしかして記憶をなくす前、何か悪いことでもして、これは神からの罰だとでも言うのだろうか。
 何も分からない。まったく、何も。
 ぽろりと涙が頬を転がる感触がして、私は立ち止まる。身体は走り続けることに対して、もう限界を通り越したことを訴えていた。涙の存在を確かめないまま私はくずおれ、両手を地についた。
 冷たいアスファルトには、いくつかのシミができていた。ミルククラウンのような上品な弾け方をするわけもなく、涙は這い蹲るように地面に消えた。
 行かなければ。こんな惨めに泣いている自分に同情するほど、打ちひしがれていたくはない。
 よろよろと立ち上がり、私は目の前の道を見た。どこをどうやって走ってきたのかも分からない、初めてみる道は勿論、どこに続いているか分からない。
 もしもこの先に、教会があったら。
 私は間違いなく、そこに駆け込むだろう。この辺りは教会が多いと聞いていたから、もしかしたら本当にあるかも知れない。
 神父さんがいなくても、懺悔を聞いてくれなくても構わなかった。ただ十字架の前に跪いて、あの許された気持ちに逃げ込みたかった。一時でもいいから、私は安堵が欲しかった。
「――栞!」
 その時だった。さっきまで私を走らせていた声が、耳朶を打ったのは。
「栞!」
 声は近くなる。栞が歩もうと思っていた薄暗い道の先から、走る姿があった。一体どうしたら、先周りができたというのだろう。
 涙を拭いて確認する暇は無かった。私は踵を返し、元来た道を走り出す。涙を、――見られたくない。
「あっ……」
 十歩も歩かないうちに足がもつれて、身体をアスファルトに叩きつける。気持ちばかりが先を急いで、足がついてこない。
「……栞」
 私が再び立ち上がった時には、声がすぐ近くに聞こえていた。それでも私は振り返らず、ただ立ちつくす。
 空は時を追うごとに濃さをまして、冷たい空気を降らせていた。敷き詰められた沈黙の中、木々の葉が擦れ合う音だけが静寂をかき回している。
「――っ」
 不意に、後ろから抱きしめられた。暗闇に沈み込んだ世界の中で、もう一人の人の存在を強く強く感じた。
 沈黙は続いている。私は何も言わないし、紅霞も何も言わなかった。私からかける言葉なんて、あるわけがない。あるとすれば、謝罪の言葉ぐらいだ。
「あんたを探している途中に、話は聞いた
 彼女は抱きしめる腕に力を込めてそう言った。話し難いことを先に知っていてくれた安心感と、知らずにいて欲しかったという感情が綯い交ぜになる。
「みんな今頃、あんたを探し回ってるのよ」
 その言葉は、にわかには信じられなかった。私があれほど紛糾されていたのに、誰も何も言わなかったのだ。それがクラスメートの総意であるかのように受け取っていた私には、名前も知らないクラスメートがそんなことをするなんて、想像も出来なかった。
「本当に……?」
「嘘言ってどうするのよ」
「……でも私、戻れない。あんな風に言われるなら、いっそ」
 いっそ、――何だと言うのだろう。ここを離れ、それでも生きていけるかと言われたら、そうではないのだ。
 これほどどうすればいいか分からなくなったことはない。私をあそこまで疎ましいと思っている人がいる場所に戻るなんて、考えるだけで億劫だった。
「バカ言わないでよ。あのね、本当に誰からも好かれている人なんて、ほとんどいないわよ。あんたみたいに大人しくて真面目でも、それが好ましいと思う人もいれば、反対の人もいる。どれだけいい人だって、偽善者だって鼻で笑う人間がいるのよ。そんなのいちいち、取り合っていられないわよ」
 彼女の言うことはもっともだった。反論のしようもない正論だ。
 でも、だからと言って戻れるのか。戻っていいのか。そんな考えは、紅霞の腕の中にいても尚続いている。あの中に戻ることは、とても勇気のいることだと感じられた。
「あんた知らないだろうし、言っちゃいけないんだろうけど。栞は記憶を失くす前も今と一緒で優しかった。人の話をよく聞いて、誰にでも平等だった。口ではみんな何も言わないけど、ちゃんとあなたを受け入れていたのよ」
 記憶を失くした私と、記憶を失くす前の私。いつだってそれは切っても切り離せない存在同士だ。同じ私なのだから、当然だろう。
 ならば今私を探し回っている人たちは、きっと今の私ではなく前の私を探している。今ここにいる私じゃない、居なくなってしまった私を。
「私、戻れない」
「何を言ってるの」
 紅霞は非難を込めた瞳で私を見た。だけど彼女に分かるだろうか、他の誰でもない、私自身に追い詰められる気持ちを。
「だってみんなが探してるのは私じゃない、私じゃないのよ。私の形をしていた誰かなの。こんな風にみんなに迷惑をかける私じゃないのよ」
「バカ言わないで。今も昔も、栞には違いないのよ。全部ひっくるめて、今の栞なんだから」
「違う、絶対に違う。私は違うの、私は……私は」
 私は、誰? 誰か違う人の声が頭の中に響いて、私は膝を折って蹲った。
 気付けばまた、アスファルトにシミが増えていた。ポロポロ零れだす涙は、きっと悔し涙だ。
「……栞」
 私は、私でしかない。そんな確証すら、私には持つ資格がないのだ――。
 どうしてなのだろう、過去の私の存在を認められるたびに心は抉られ、今の私の存在が希薄になっていく気がする。みんな私じゃない、私だった誰かを見ているのだ。
 卑屈な気分だった。私は自分自身の中に影を見る。消しきれなかった負の感情に、これ以上なく踊らされているのが分かっていた。
「探そう」
 いつの間にか紅霞は私の前に回り込んで、一緒になって屈み込んでいた。耳のすぐ近くで声が聞こえて、慰めるようにその手が私の髪をかき上げる。
「聞いたことあるわ。全健忘の症状が直る過程は、徐々に記憶を取り戻していくことだって。そうしたら今の栞は、きっと昔の栞と合流できる。今の貴女を否定するんじゃなくて、全部受け止めることができる。上手く言えないけど、私の言いたいこと、分かるかな。私はただ、これ以上栞に傷ついて欲しくないの」
 私は下を向いたまま、こくんと頷いた。言葉足らずだけど、彼女の言いたいことは分かる。決して今の私を消す為ではなく、私自身の為にそうしようと、彼女は言ってくれている。過去に触れてはならないという、禁忌を犯してまで。
「だから、探そう。あんまり頭痛が酷いようなら危ないかも知れないけれど、避けては通れない道よ。きっと記憶を取り戻して行けばそれもなくなるはずだろうし」
「ええ……」
 そうだ、全て元通りになれば。私が全て思い出せば、何もかもが戻ってくる。失くしたものさえ分からないけれど、それに酷く焦がれる気持ちが胸の中にあった。
 取り戻そう。
 私はもう一度自分に誓う。全部、――私の全てを、取り戻すのだ。
 
 
 
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