≫Chapter.07■■
ディア・アマデウス
ディア・アマデウス
* * *
月曜日の、放課後。
確か、栞が記憶を失くしてから数えて――何日だっただろうか。大して日は経っていないけれど、栞は大分学校の雰囲気に慣れてきたように思う。昨晩は自分から学校での出来事を話してくれたぐらいだから、この学園が嫌いになる、ということはなさそうだ。
――と、そんなことを考えながら、歩いていた時。
「紅霞ちゃん、紅霞ちゃん」
人の少なくなった廊下で、袖を引っ張られた。振り返れば、そこに顔があるだろうと思われた位置に、黒々とした髪が踊っている。
「……実夏。あんた人を呼び止めるとき袖を引っ張る癖、直しなさいよ。子供っぽいわよ」
「んー、でも無視されたり気付かなかったりっていうのがないからね。一番合理的じゃない?」
実夏の言葉に、私はため息を吐くしかない。彼女は何か突っ込むと、正論なのか屁理屈なのか分からない返答をする。
「あんたのキンキン声ながら嫌でも耳に入ってくるわよ」
「あ、その言い方は酷いよ。よく通る声って言ってくれないかな」
「甲高い声の実夏は言葉遊びが好きねぇ」
「そういう紅霞ちゃんは、もっと声のトーンを明るくした方が可愛いよ。ほら、私みたいに」
そう言って実夏は両手の人差し指を頬に立てると、いささか古めかしい、昔ぶりっこと呼ばれたポーズを取った。似合ってはいるが、呆れる。
彼女と話を始めると、必ずと言っていいほど脱線した。きっと会話のキャッチボールが上手く行き過ぎるのだろうけど、いささか変化球が多過ぎる。
「で、呼び止めたからには何か話があるんでしょう?」
「ああ、うん。それなんだけど」
ちょっとこっち、と言って実夏はまた袖を掴んだ。今度は呼び止める為ではなく、廊下の真ん中で喋っていたら邪魔になるからだ。
「今更なんだけどね、栞ちゃんの歓迎会をしない?」
「は……?」
あまりにも予想外の言葉に、私は間抜けなことに口を開放してそう返してしまった。歓迎会、って、一体どんな発想なのだ。
「なんで、今頃なのよ」
「まあ、転校してきた時は人見知りが激しかったし、なんかそんなの開いても喜んでくれそうじゃなかったし。でも今の栞ちゃんは、前みたいに『悲しみを背負って生きている』って感じがしないから、悪くないなって。それにこう思ったことはないかな。記憶を失くして、もう訳が分からなくて、私たちが無理矢理場所を作っているのに押し込められてる感じがする。栞ちゃんは今、凄く不安なはずだよ」
実夏の言葉に、息を飲んだ。彼女は時々、信じられないぐらいの鋭さを見せる時がある。
実夏は常に周りの人の表情を見て、行動を決める癖があった。それが誰よりも調和を意識しての言動だということを、今更ながら再認識する。ただ単に騒いで人を笑わそうとするのではなく、そのほとんどはバランスを保つためにそうしているのではないか、と思わされるほどだ。
「会場は紅霞ちゃんと栞ちゃんの部屋。メンバーは私と沙都(さと)ちゃん、英子ちゃん、他集まれるだけの予定なんだけど」
「……もしかして、もう声かけてあるの?」
「もっちろん」
満面の笑顔でいった実夏の頬を、両手でビタンと音がする勢いで押さえ付けた。次いで、その柔らかな頬をぐにぐにと変形させる。
「い、いひゃい。なにするほ」
「あんたねぇ……確信犯でしょ」
「ななな、何のことかなー」
間違いない、実夏はわざとだ。時に純粋、時に狡猾な実夏のことだから、みんな声をかけておけばどういう結果が得られるかぐらい分かっていたはずだ。
私の前にある選択肢は三つだ。まず保留は単なる先延ばしにすぎないから除外するとして、OKするか、断るか。前者の場合何も問題はないけど、後者の場合が問題だ。もし「ダメ」だと言えば、すぐにそれは他の『栞を歓迎しようとしているメンバー』にも伝えられる。紅霞ちゃんがダメだって、とありのままの無情な結果を伝えるのだ。
好意的に「栞さんの体調を気遣っているんだ」と解釈してくれる人がいてくれれば拍手を送りたいけれど、それはまずないだろう。今日の栞は快調、顔色もいい。つまり無碍に「ダメ」と答えれば、非情な悪女、友人の中でのヒール役が決定するのだ。
「わひゃひ、何か悪いこほひた?」
「歓迎会をしようっていう発想は悪いことじゃないわ。でもその次の行動が納得いかない」
実夏の言うとおり、彼女は何も悪い事はしていない。栞の心情を細やかに読み取ってそんな催しまで考えるなんて、むしろ賞賛に値する。ただその次の行動が、気に入らなかっただけの話だ。
「はぁ……いっつもあんたにはしてやられるわ」
私は実夏を解放すると、肩で息をした。負け、と言えば言葉は悪いが、元から選べる選択肢など無いに等しかったのだ。
「じゃあ……」
「いい? やるなら栞にこっそり内緒で準備をするのよ。そっちの方が効果あるでしょ?」
「やったー、紅霞ちゃん大好き」
腕に抱き突いてくる実夏を、「ちょっと、やめなさいよ」と言いながら振り回す。こうすればいくらか機嫌が直ることを知っていてそうしているなら、末恐ろしい子だと思う。
「じゃあね、思い立ったが吉日、今日の授業が終わったら即効で準備ね。私たちは買いだしに行くから、紅霞ちゃんは部屋の片付けとか、お祭り騒ぎができる準備をしておいてね」
「あら失礼ね、うちの部屋はいつ誰がこられても恥ずかしくない状態よ。家人が清潔にはこだわりがあるからね」
栞は綺麗好きなのよ、と付け足すと、実夏は「知ってる」と言って笑った。栞は私のベッドの上の雑誌を隅に片付けてしまうほど、整理整頓にはうるさかった。
「いいじゃない。私はむしろ栞ちゃんと住みたいぐらい」
「ああ、でもダメね。実夏じゃ勤まらないわ。だってあの子、寝る前には絵本を読んであげないと寝付かないんだもの」
「ええーっ、本当に?」
「嘘に決まっているでしょ」
もうっ、と言う声の後に、高らかな笑い声が廊下に響いた。自分でも自覚できるぐらい、気分はよくなっている。歓迎会、すなわち、みんなで集まってわいわいやる、すなわち、楽しい。だけどこの気分の要因はそれだけじゃない気がした。それはもっと深くて、核心を突いた部分にある感情が揺さぶられたからだ。
「じゃあ、そういうことで。栞ちゃんは多分、放課後はお聖堂にいるよね?」
「ええ、少なくとも三十分はいつもそこにいるわ」
「なら三十分がタイムリミットだね。面白くなってきた」
そう言って瞳を燃やしている実夏を見ながら、だんだんと日常が戻ってくるのを感じた。もとい、元々あった日常よりも楽しい、日常の来訪だ。
さあ、何をすれば彼女を喜ばすことが出来るのだろう。実夏と別れた後も、ずっとそんな考えばかりが巡り、その思考は飽きることなく頭の中を泳いでいた。
* * *
「いい加減にしなさいよね」
その言葉は唐突に。おおよその理解の範疇を超えた、予想していなかった言葉だった。
例えば「明日は晴れますか?」と訊いて「しりとりを始めましょう」と言われるぐらい、突拍子の無い言葉。
「え……」
何が、と言いたくても、彼女の剣幕に押されて声が出なかった。彼女の表情に浮かぶのは、怒りよりも色濃い嫌悪。忌避よりも激しい瞋恚が、剥き出しにされている。
きっかけは簡単だった。どこにもぶつけた覚えは無いのに、手首に切り傷があったから、まだ行ったことのなかった保健室の場所を、見知らぬクラスメートに訊いたのだ。知らず知らずのうちに怪我をしているなんてたまにあることだし、知らない場所を訊くのはよくあることだ。それなのにそんな言葉が返ってきて、私は声帯を振るわせることすらできない。
「私たちをからかっているの? それともただ単に寂しかったから?」
彼女の言うことを、私はよく理解できなかい。本能からなのか、あまりにも突拍子の無い言葉の暴力は、頭の片隅では「もしかして」と思いつつもまるで誰かに宛てられた言葉のように認識される。
そして「どうなのよ!?」と詰め寄られて、やっと現実的に物事を考えられるようになった。心の防衛線を突破してやってくる言葉はあまりにも熾烈で、ただ責めるためだけにある。
「本当、意味がわからないわ。そうやって同情買って何がしたいのよ。かまって欲しいわけ?」
彼女は、五、六人のグループを束ねるリーダー的な存在で、勝気な少女、という印象だけが強くあった。その勝気な印象がの矛先が、こちらに向くとは露ほども考えなかったが。
とにかく彼女が栞を訝しみ、疎んでいることだけはよく分かった。彼女にとって私はこう見えるのだ。記憶喪失を装い、人の同情と注目を誘う姑息な人間。どうしようもなく目障りで、ただただ腹立だしい存在。
「私は――」
――誰だ。私は何で、どうしてここにいる?
消えたはずの疑問はまた巡り出し、鈍い痛みは刺々しさを増して刺してくる。心を圧迫するかのような叱責のダメージが、今頃になって頭に響いた。
「……分からないのよ」
そうだ、まだ何も分かっていないし、終わっても無い。過去という謎解きは、始まってすらもいないのだ。
しかし当然栞の答えに納得するはずもない彼女は、目付きを鋭くして「あんたねえ」と詰め寄った。バシン、と大きな音を立てて机を叩くと、そのまま机に出してあった教科書を薙ぎ払った。バラバラと派手な音を立てて筆記用具と教書が机からばら撒かれ、教室中の視線が栞たちに集まった。
周りを見渡すと、クラスメート達は凝視するようにこちらを伺っている。その人影の中に、紅霞さんは勿論、実夏さんもいない。隣の席の沙都さんも姿がなく、ここに私が居てもいいと言ってくれる人は、誰一人としてなかった。
「分からない、ですって? 本当にそうだって言うの?」
彼女が怒っている理由は、私には分からなかった。記憶喪失を疑う理由も、何故責める必要があるのかも。何か人の反感を買うようなことをした覚えはないし、ただただ混乱は深まる。
「じゃあ訊くけどね」
――逃げたい。
ただそう思った。耐えられない叱責に膝が笑って、防衛本能すら投げ出そうとしていた。
「記憶をなくしたクセに、知らないはずのことを知っているのは何故? 大体紅霞って――」
「もう止めて!」
鋭く大きな声が、静まり返った教室に響いた。私はそれが自分の声であったということに、誰よりも驚いていた。
耳を塞いでいる。高鳴る心臓を沈める為に、これ以上自分が傷つけられない為に。
不安は恐怖に変わり、貫く視線は刃になる。ここに居ることが許されたなんて、錯覚だった。都合の良い、優しい答えを選んで信じ込んでいただけなのだ。
「――ごめんなさい」
閉じられた扉を体当たりするように開けて、教室を飛び出した。チャイムが鳴る。いつも時刻通りにHRを始める教諭は今日も寸分の違いなく教室に入ろうとしているところで、一瞬目があった私に何か言い掛けるように手を伸ばし、そして私はそのまま走り去った。
私は、逃げた。
現実と対面する気概すらなく、目を閉じ、耳を塞ぎ――。ただひたすらに足を動かして、私は襲い来る全てから逃げ出した。
* * *
「ふぅ」
放課後になって、五十分と少し経った頃合。私は少しだけさっぱり、そして華やかになった部屋を見て、息を吐いた。三十分でこれだけできれば、大したものだと思う。
元からある程度片付けて、「完璧」と頷けるぐらいにするまでは早かった。それから何の為に使ったのか覚えてさえいないコサージュをカーテンに付けたり、テーブルに明るい色のクロスを掛けたりしているうちに時間は経ち、タイムリミットと言われていた三十分は優に過ぎていた。
「わぁ、紅霞ちゃんやるぅ」
ノックも無しに開けられた扉から、そんな声が届いた。振り返れば、実夏が買い物袋を下げたまま部屋を見渡している。
「どうよ、私の本気は」
「うんうん、いいよこれ。短時間でこれだけ出来れば十分」
実夏はえへん、と胸を張った私の頭を撫でようと背伸びをしたけど、最終的にお凸をぺちぺち叩くという結果になった。他に誰もいないのに漫才をするのは、結構虚しい。
「ところで、栞は?」
「それがねぇ」
そう言って実夏はテーブルに買い物袋を置くと、らしくもなく腕を組んで首を傾げた。本気で分からない、と表情で言っている。
「帰りのHRの時、いなかったんだよね。沙都ちゃんに訊いても、『私が来た時にはいなかった』って言うし。それから行方不明なの」
行方、不明。テレビとかでは聴き馴染みがあっても、言い馴染んではいない言葉に不安がよぎった。今日はちゃんと薬を飲んでいただろうかと、今朝の出来事を回顧する。
「学校で、栞の様子はどうだった?」
「私が知る限りでは、いつも通りだったよ。ううん、いつもより調子がよさそうなぐらいだった」
ならば、一体どうしたというのだろう。栞のことだから、HRを忘れるとかサボるということは考えにくい。
栞は今朝、ちゃんと薬を飲んでいた。飲まなかったらどうなるのかは何も聴かされていないけれど、服用している限り衝動的な行動はないはずだ。
どうしよう、探そうか。
失踪したわけでもないのに、そんな考えが頭に浮かんだ。これでは小さな子供がいる母親が、帰りが遅いのを心配して探し回るのと同じだ。私が栞の保護者だとは思わないけれど、彼女に対して一応の責任は感じている。こういう時、真っ先に動くのは自分だという自覚があるのだ。
「あ、沙都ちゃんたちかな」
不意にドアが開けられる前の、ぐっと扉が押さえつけられる音が聞こえて、実夏は言った。
「……」
しかし、実夏の予想は外れた。ドアを開けた栞は私と目が合うと、次に飾り付けられた部屋を見渡す。
「ああ、栞、これは」
帰ってくるにしては、ちょっとタイミングが悪かった。まだメンバーは揃って無いし、用意も完璧じゃない。
それでもまあ、帰ってきたからには「ちょっと部屋の外で待ってて」というのも酷だろう。今日は特に冷えることだし。
「歓迎会だよ、栞ちゃん。私と紅霞ちゃんで考えたの」
満面の笑みで、実夏が言った。後からみんな来るから、さあ上がって、とまるで自分の部屋に案内ように栞の手を引いた。
だけど。
「……実夏さん」
栞は動かなかった。エスコートしようと添えられた実夏の手は、その白い手を滑っただけ。
栞は踵を返すと、部屋を去ろうとした。駆け出す気配を察知した私は、先に動いてその手を掴む。
「どうしたって言うのよ、栞」
身体をこちらに向かせ、栞と対面する。俯いた顔からは、拒絶しか読み取れない。栞の手を取ってじっと見つめる私を、実夏は不思議そうに見ていた。
「私――」
顔を上げた栞の瞳は、涙に揺れていた。救いを求めているような、それでいて外界をシャットアウトするような、悲哀に満ちた目をしていた。
「……ごめんなさい、紅霞」
その細い身体からは想像もつかない強い力で掴んだ手を解かれると、栞は部屋から飛び出した。
ああ、そうだ――。
今日は、栞が記憶を失くしてから数えて、ちょうど一週間だ。翻るスカートの裾を視界に捉えながら、私はやっと思い出した。