世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.06
    僅かな緑の
 
*        *        *
 
 朝のお聖堂は、まるで波一つない水面のような雰囲気を持って佇んでいる。私はその建物の扉を開けた瞬間、そう思った。
 静謐と並ぶ椅子や祭壇と、古ぼけたオルガン。ステンドグラス越しの光は細く長く、道を指し示すように差し込んでいる。
 初めてここを訪れたのは、昨日の昼休みの時間だった。実夏さんに案内されて来たこのお聖堂にはその時、何人かの人影があった。一人は聖歌隊の伴奏なのかオルガンの練習をしていて、その中でお祈りをする生徒たちが数人いるという、日常と神聖を綯い交ぜにした光景だったことを覚えている。
 その時は人がいたせいなのか何も感じなかったけれど、一人で来るお聖堂は何もかもが違っていた。静寂に満たされた空間に冷たさはなく、私は手招きされているような、そんな錯覚さえ覚えた。
 祭壇の前に着くと、私は跪いた。それが当然であるかのように身体は動き、気づいたら祈りを捧げていた。今まで幾度となくそうして来たのだろう、違和感は何もなく、過去を知る度襲ってくるあの頭痛もない。
「主よ」
 声は安堵に満たされていた。ここに居ていいのかという疑問も、尽きない不安と不思議も消え、全てが許された気持ちになった。
 この安らぎこそ、私の求めていたものだ。ここに居る事を許された安心感。誰かに縋りたい気持ちを静めてくれる、この静寂。
 私は今まで何度祈りを捧げたのか分からない。どれだけ神を信じていたのかすら、この状況では知る由もない。それでも自分の居場所を教えてくれるこの場所は何よりも安らいで、言葉に出来ない満足感で満たしてくれる。私の全てがここに帰結するのだという確信めいた思いだけが、世界と私とを繋ぎとめていると言っていい。
 祈りを終え立ち上がると、突き刺すような青が私の瞳に差し込んだ。ステンドグラスから零れた光は、お聖堂に私の影を作る。細く長いシルエットは、お聖堂にいたもう一人の影まで、くっきりと続いていた。
「思っていたより、短いお祈りだったわね」
 影の主は、あくびをかみ殺しながら言った。そこに彼女がいることには、さして驚かない。なんとなく気配を感じることがあったし、彼女なら来ると思っていた。
「……紅霞さん」
「呼び捨てにして、って言ったでしょ。これだけ言って直らなかったら、怒るからね」
 紅霞さんはいつもと変わらない口調でそう言うと、座っていた椅子から立ち上がった。大きく伸びをする様は、あまりお聖堂の雰囲気に似合っていない。
「どうして、ここに?」
 彼女は確か、部屋を出る時はぐっすり眠っていたはずだ。昨日「お聖堂に行く」言ったら当然のように反対されたから、大分早起きして寮を出たつもりだったけれど、彼女にそんな小細工は通用しなかったということか。
「一々説明がいるかしら。貴女、教壇の前で跪いてそのまま倒れる自分を、想像してみたりしないの?」
 紅霞さんの言葉を聞いて、傍から見たらそんな危険性もあるのかと今更認識した。私は一度お聖堂に来ていたから大丈夫だと分かっていたし、それに倒れるほどの頭痛というのは薬を飲み始めてからは一度もない。
 紅霞さんに心配をかけて申し訳ないという気持ちはあるけど、だからと言って私がお聖堂に来るという答えが撤回されるかというとそうではない。どうしても、自分を知りたいという思いの方が勝ってしまうのだ。避けようのないないジレンマなのだろうけど、動かなければ何も解決しないだろうという、脅迫めいた予感が私を覆い尽くしていた。
「……ごめんなさい」
「謝るぐらいなら人の言うことを聞いてよ。――って、今のあんたには一番難しいんだろうけど」
 外に出ているから。紅霞さんは暫くの沈黙の後にそう言って、お聖堂を出て行った。静かに扉が閉まると、今度こそ本当に一人になった。
 私はまた教壇の前まで歩くと、朝の光に切り取られ、シルエットでしか見えない十字架に問いかける。私はここにいて祈りを捧げるべきなのか、それとも彼女のそばにいるべきなのか。
 瞳を閉じても天の声が降ってくるわけもなく、勿論聖痕が現れて道を指し示すわけもない。ここにいてもいいのだという安堵の残滓はまだ宙に漂っていたけど、どうするべきかは自分で決めろ、ということなのだろう。
「……はぁ」
 大きく息を吐いて、踵を返した。逡巡の末に出た答えは、外に出る、ということだった。
 扉を開けて、辺りを見回す。人影はなくて、冷たい風が一陣、隣を走り去った。外で待っていると言ったからには、この近くにいるはずだった。
「紅霞さん」
 お聖堂の周りを歩くと、彼女はその裏手に座り込んで朝日を見ていた。その後ろでは、ステンドグラスが陽光を吸い込んでいる。
「あら、またまた早かったわね」
 ちらりと私の姿を確認して、彼女は言った。待っていてくれる、というのは分かっていたことだけど、それでも紅霞さんがそこに居てくれて安心した。
 時々、何故自分がこんなにも不安なのかすら見失ってしまう時がある。薬はちゃんと飲んでいるから気持ちは落ち着いているし、こんな風に心配してくれる人もいる。ここにいるべきじゃない、と私を忌避する人は、ただの一人だっていないのだ。
 私は紅霞さんの言葉に小さく「ええ」とだけ返して、その隣に座った。少し乾いた地面から、僅かな緑の香りを感じる。日当たりはいいが遮蔽物が少ないせいで、時折吹く風は身体の熱を強引に奪っていくようだった。
「紅霞さんは、どうしてここに通っているの?」
「え? 何よ、突然」
「いいから教えて。知りたいの」
 しゃべることに問題がないならね、と付け加えると、彼女は苦笑した。風はその少しの間、凪いでいた。
 彼女のことを知りたいと思うのは、きっと私は前に進めているということだと思う。今まで私は、こうなってしまった私の過去にしか興味を持てなかった。漠然とした不安と戦うのに必死だったのだ。
 だけどその感情も、お聖堂を訪れて驚くぐらい静まっている。神、と呼ばれる存在がどれほど大きなものだったのかすら思い出せないけれど、きっとそれが存在するならば、「もっと視野を広げろ」と言っているのだと思う。
「ここにいる理由ねぇ……。条件がよかったからってのが、一番かな」
「条件?」
「分かりやすく言えば、学費がタダなのよ。それにレベルもそこそこ高い」
 紅霞さんの言う条件というのは、つまりこういうことなのだろう。この学校は学業に力を入れていて、優秀な学生については学費を免除するという制度を導入している。その制度がいい条件ということは、つまり――。
「あの、紅霞さん。答えにくかったらいいのだけど――」
「あ、待って。あんたが何を言おうとしているか当ててみせるわ」
 彼女は人差し指を私に向けて、うーんと考え込むそぶりをした。きっともう、言うことは決めてあるのだろうと、何故だかそう思った。
「次の質問はね、家族構成はどうなっているか。違う?」
 ――違わなかった。兄弟はいるのかとか、そういう質問からしてみようと思っていた。
「……その通りよ」
「でしょ、そうだと思ったわ」
 少しだけ弾んだトーンで、彼女はそう返す。そしてそのままの声の調子で、まるで他人事みたいに、彼女は言った。
「いないわよ、家族なんて」
 本当にあっけらかんと彼女は言って、それどころか朝日に薄い笑みすら投げかけている。誰かを厭っているようには見えないから、勘当されたとかではないのだろう。彼女に感じられる気配と言えば悲しみではなく、強いてあるとすれば寂しさのようなものだった。
「学園付属の中学に入るまで、私は児童養護施設にいたのよ。昔で言う、孤児院ってやつね。だから家族がいるとすれば、その時の仲間かしら」
 彼女の声は穏やかで、辛い過去を語るようには見えない。緋色の瞳の中にあるのは今度は寂しさではなく、郷愁のように感じた。
「そういう理由もあったのかしらね、栞と私が――」
 そこまで言って、紅霞さんは口を噤んだ。私は紅霞さんに対して訊いてはいけないことを訊いたのかと危惧していたけど、彼女はそれをひっくり返すように言ってはいけないことを言おうとしたと、その慌て方で分かった。
「両親がいないから、同じ部屋になったっていうこと?」
 言った後、普通そんなことはないだろうと思った。きっとくじ引きか何かで、ランダムに決められるはずだ。しかし紅霞さんは表情を硬くして、私を瞳を覗き込んでいる。
「あんた、知ってたの?」
 両親がいないということを指して言っているのだろう、紅霞さんは声まで硬くして訊いてくる。
「いいえ、正確には今知ったところよ」
 その答えを聞いた紅霞さんは、しまったと言った表情で舌を出した。今日の彼女は、いつもより表情豊かだと思う。
 なんとなく、そうじゃないかとは思っていたのだ。私が記憶喪失になったと分かった時、やってきた保護者は叔父を名乗っていたし、両親の存在は話題にさえ上らなかった。この分だと、おそらく兄弟姉妹もいないのだろう。
 悲しいという気持ちはなかった。失ったものの重さも分からないのだから、悲しみようがなかった。ただその揺るがない事実を前にして、心はどこか空虚を感じている。僅かな寂しさが、蝋燭の火を揺らす風のように吹いている。
「……ごめん。知らなければ、寂しい思いもしなくて済んだのに」
 悔しそうに彼女は言ったけれど、むしろその反応が嬉しかった。感情の向きは、寂しいとは正反対の方向に差している。
「いいえ、そんなことはないの。……じゃあ訊くけれど、紅霞さんは今寂しいと思う?」
 少しだけ驚いた表情を見せた紅霞さんに、私は笑顔で否定を伝えた。今この心にある安堵は、誰かがそうしようとしてできるものじゃない。与えられた安心感ではなく、許された安心感を、私は感じていた。
「寂しいなんて、考えたこともなかったわ」
 一瞬の沈黙の後、彼女はそう言って破顔した。寒さを吹き飛ばす笑顔、とは少々古臭い表現だけれど、紅霞さんの笑顔はそれほどまでに晴れ晴れとしていた。
「私の周りにはいつも誰かが居てくれたわ。あなたを含めてね」
 彼女の気持ちは、なんとなく分かるような気がした。元からないものを惜しむ気持ちというのは、寂しいと言うよりも空しい。自分で自分を傍から見て可哀想と認められないのに、同情されたりするのは奇妙な気持ちだろう。
「私ってこれでも、前向きな性格だと思うのよ。少なくとも私には目の前にある道が見えているし、過去にも未来にも翳りなんてないわ」
 未来、という言葉に、私は僅かに揺れ動いた。私と彼女とでは見ている先があまりにも違っていたことに、目から鱗が落ちる気持ちだった。
「目の前にある道って?」
「弁護士、若しくは実業家になってお金持ちになる為の道」
 彼女は冗談を言うみたいに笑って、「うーん」と背伸びをした。紅霞さんらしいのか、そうでないのか、分からないほど私は、彼女のことを知らない。
「お金持ちになってどうするの?」
「うーん、主な使い道は寄付ね」
 その答えを聞いて、ますます紅霞さんという人が分からなくなる。寄付する為に「お金持ちになる」なんて野望めいたことを言うのは、理由としてアンバランスだ。
「寄付って、どこに?」
「そりゃ施設に送るに決まってるでしょう」
 紅霞さんの言葉に、やっと点と点が繋がった。
「私が入ってた養護施設はね、後から知ったんだけど相当な赤字運営だったのよ。施設を無くそうにも、この辺りに孤児や児童を引き受けてくれるところなんてないし。もし無くなっちゃったら、みんな日本中の養護施設に移送されたり、親元や親類の所に引き取られたりして、バラバラになってしまう。それを避ける為にみんな必死にやりくりしてたって知って、私泣いちゃったのよ。恥ずかしながら、生まれて始めての号泣」
 照れ笑いを浮かべながら朝日に目を細める彼女の瞳には、透明の膜が揺れていた。彼女の目の緋色は、私にはただ情熱的に映った。
「養護施設出身者への風当たりが強いことは知っているわ。それでも、当たって砕けてもいないのに諦めるなんてバカなことはしない。――って、ああもうこの話はお終い。朝っぱらから将来を語りだすなんて、本当どうかしているわ」
 紅霞さんはそう言って立ち上がると、大きく伸びをした。私も真似て身体を伸ばすと、視界が空でいっぱいになった。
「行きましょ。もういい時間だわ」
「……ええ」
 歩き出した彼女の後ろを、私はついていく。足取りは思っていたよりも、軽い。
 
 
 
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