≫Chapter.05■■
疑問が巡る
疑問が巡る
* * *
時々、どうしてここにいるんだろう、と思う時がある。例えば今みたいに、どういった経緯でここにいるのか忘れてしまった時は、いつもそうだ。
「はぁ……」
私は病院の白い壁を見ながら、ため息をついた。これじゃまるで栞みたいだと考えると、苦笑しようにも笑えない。
たしか学園長に頼まれたのだったか。そう言えば昨日「明日病院に行くから」と言われていたような気がする。だから学校が終わって寮に帰るなり、寮長は私たちを車に押し込めたのだろう。なんとなく付いてきてしまったけど、どうして私まで連れて来られたのかまでは分からない。
――ここにいても、仕方ないか。
どうせ栞も、すぐには出て来ない。そう考えると足取りが軽くなった気がして、私は座り心地の悪い長椅子から腰を離すと、一路中庭へと向かった。白い壁と適度な明るさに囲まれた通路は、外に出ることを欲する為に作られたかのように窮屈だった。
二階分階段を下りると、小さな昇降口のような場所に出て、そこが中庭へと繋がる通路になっている。冬だからか、患者の姿はない。夏は緑に覆われていただろう芝生は、所々枯れ欠きながら一つの道を示していて、それが病院の遊歩道へと続く道だった。
昇降口の対面にある渡り廊下を越えると、そこからは一気に自然が多くなった。山側には痩せた木々。斜面を見下ろせばくすんだ色の芝生が広がり、緩やかなカーブを描く遊歩道が続いている。
私はその斜面を降りて、芝生の切れ目にある背の低い塀に肘をついた。赤いポンコツの橋から見る夕日も好きだけど、ここから見る夕日には勝てない。学校の屋上と同じぐらいの、絶景スポットなのだ。
夕日の広げた赤い緞帳が、夜の帳に貪食されていく。胸を梳くような光景は、いつ見ても同じではなくて、新しい感動をくれる。嫌なことや面倒くさいことを忘れるには、一番の特効薬だ。
目を細めてそれを見ながら、何故私は夕日にこんなにも惹かれるのだろうと思った。まさか自分の目と同じ色だからなんて、ナルシストのような理由ではないことは確かだ。子供の頃はその特徴をからかわれて、赤が嫌いだった時期があるぐらいなのだから。
ぼんやりと考えていても、答えは見つからなかった。それでもいい。栞だったら全て疑問を持つところだろうけど、私はそうでもない。
今彼女は、何と戦っているのだろうか。そんな事を考える。きっと自分自身であり、周りの全てではないだろうかとすら考えてしまうほど、彼女の中の疑問は多い。
もし自分が記憶を失ったら、と思うと、それも無理もない気がした。きっと逆の立場になったら、私はすでにはめられたパズルのピースである自分の場所を、疑うに違いない。
もう、戻ろう――。外に出てまだ十分も経っていないけど、そう思った。栞を一人にして置くべきではないと、心の根元の方でそう知っていた。
来た道を戻って病棟に入ると、窓の外を見て大部暗くなったことを、今更認識した。最近何故だか、時間が経つのが早く感じる。
「あら」
診察室の外には見知った顔がいて、そこにいるのが不思議ではないというのにぎょっとしてしまう。そんな顔をした私は、彼女はどう思っただろうか。
「どこに行っていたの?」
学園長、――学校ではシスター・村田と呼ばれるその人は、わざわざ立ち上がってそう言った。修道服から覗く瞳は、やけに鋭い。
「……少し、散歩に」
「そう。でもできたら、待っていてあげて欲しかったわ。いつ診察が終わるのかも分からないし」
学園長は抑揚のない声でそう言うと椅子に掛けなおし、私も座るように促した。正直この人の相手は、苦手だ。
シスター・村田、と言えば、このあたりの修道会では知らない者はいない程の人らしいけれど、その厳格さが私には馴染めない。歳の割りに――と言うと学園長は怒るのかも知れないが、五十を超えて尚黒く艶やかな髪であったり、中年期を過ぎてまだ美しいと称される風貌も近寄りがたい要因だった。
敬虔なクリスチャン、という点で言えば栞と同じだったのだろうけど、二人とも全く違う人間だ。栞は人を惹きつける容姿と内面を持っているけど、シスターに対して覚えるのは畏怖、あるいは懐疑心。
彼女は、何か大事なことを隠している。――私は確信めいた気持ちの上で、そう考えている。実際にそんな身振りがあったわけではないのだが、彼女には表も裏もなさ過ぎて、それが猜疑心を増長させるのだ。
「貴女にはできるだけ、久保さんの近くにいて欲しいのよ」
学園長は白い壁を見上げながら言った。声は相変わらずフラットで、温かくもなければ冷たくもない。よく出来た電子ピアノの音と、雰囲気が良く似ていた。
「どうしてですか」
つられて、なのか、私も抑揚のない声で訊き返した。答えは分かっていたけれど、そうでも言わないと会話が続かない。
「一人だと、考えすぎてしまうからよ。出来るだけあの子のそばにいて、話をして上げて欲しいの。勿論、過去に関する話題は駄目だけれど」
過去に関しての話題は避ける事。その意見には今でこそ賛成だけれど、最初学園内でそのお達しが出た時はとにかく不愉快だった。その一件で栞の存在は注目され、まるで慰み者にでもなったかのような扱いに私は腹を立てていたのだ。
栞の為なのは、その時でも理解できた。それでも、嫌でも耳に入ってくる噂や、好奇心からでしかない質問に晒された私は、まるでストレスを感じさせる為の拷問でも受けているかのようだった。何より、そんな周りの小さな騒ぎに巻き込まれて初めて、栞に対して同情ぐらいの心情しか持ち合わせていなかった自分が露見した事に失望した。結局周りの人間と同じ程度の人間だったという事が、私に取って耐えられないぐらいの恥だった。
「分かっています」
私は自分でも驚くほど、素直にそう返した。反駁する理由は探せばいくらでもあったけど、そうする必要はなかった。
「それなら、いいのよ」
学園長は安堵とも取れる色の声を出して、ようやっと人間味が出てきたような気がした。そう感じてしまうほど先ほどまでの学園長には、おおよそ人間らしいと感じられる所がなかったのだ。こういう人柄で修道会で名前が通っているというのが信じられないけれど、そう感じているのは私だけなのかも知れない。
「ひとつ、訊いてもいいですか」
私は流れ出した沈黙を払拭するように、学園長の目を見て言った。尚も鋭く光っている瞳は、私を牽制しているように感じる。
「質問の内容によるわね」
「すごく、シンプルな質問です」
私は言いながら栞に聞こえないかと思ったけれど、診察室と待合との間はそこそこの遮音性があることを思い出した。簡単に診察の内容や、通路の雑談が聞こえてくるようなら問題だ。
「栞はどうして、転校してきたんですか?」
おそらくその質問は、学園長に取って突拍子のない質問だったに違いない。それなのに学園長は、顔色一つ変えずに答えた。
「本人の強い希望からよ。それは転校してきた時に、説明があったでしょう」
「それは知っています。ですから、その強い希望の動機はなんだったのか、知りたいんです」
「三島さん、それはプライベートな問題よ。あまり首を突っ込むべきではないわね」
ということは、学園長は転校してくる動機を知っていると言うことか。それとも、知らなくてただ人の過去に触れようとするのを諌めているのかも知れない。何にしてもその答えは、私が納得できるものでもなかった。
「それって、おかしくありませんか? 面倒を見て欲しいというのに、栞のことを知るのを許さないなんて。矛盾しています」
反感を口に出してみれば、抑えるのは意外と難しいことを知った。それほど私は、納得できない話に憤りを覚えていた。
「けれど知ってどうするというの? そのことを知って、事態は好転するとは思えない。それに私はまだ、あなたに話していい権利を持たないわ」
まだ、って何だ。誰かの許可がいることなのか、それとも内心私の反駁に動揺しているのか。しかし学園長という人を考えるに、その可能性は皆無に等しい。
「なら、いつかは知ることになる、と言うんですか」
「……そうね。栞さんといたら、いつか知ることになるかも知れないわね」
珍しく、歯切れの悪い返答だ。そう思った瞬間、すぐそばから扉が開く静かな音が聞こえた。ありがとうございました、という声の後に、栞は少し疲れたような顔で診察室を出てきた。
寮長の運転する車が山間の道を滑りだすと、ヘッドライトの照らし出す道に冷たさを感じた。いつの間にやらとっぷりと日は暮れ、鳥の影すら見えない。
栞は私の隣で、目を閉じていた。眠っているわけではないらしく、まるで瞑想か、黙祷しているようにさえ見える。頼りない外灯がわずかに栞の顔を照らす度、以前から感じていた神秘さが増して、世界から切り取られて行くように感じた。
私は時々、本当に栞は別の世界から来たのではないかと思う。転校してきてすぐの栞ではなく、今の栞を見て、そう感じた。存在感はあるのに、消え入ってしまいそうな儚げな雰囲気を持っているということもあるのだろう。改めて思うけど、彼女は私の周りには居なかったタイプだ。
「ねえ」
見つめていた唇が、突然動いた。私が見ていたことに気づいたのかと思ってハッとしたけれど、栞は真っ直ぐ前だけを見詰めていた。
「……何?」
言葉の先を急がない栞に焦らされて、私の口調はいささか冷たくなってしまったかも知れない。けれど栞は気にした様子もなく、視線をこちらに向ける。
「私、明日からお聖堂に行こうと思うの」
否定を許さない意思を秘めた瞳で、栞は確かにそう言った。