世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.04
     忘れた祈り
 
*        *        *
 
 学校、と呼ばれた建物は、緑の多い丘の中腹にエメラルドの屋根を覗かせていた。レンガ調の壁面が、いかにもカトリック系の女学園らしい。
 気持ち長く感じた坂道を上りきって見上げた所感は、それだけだ。特に懐かしい感じはしなかったのは、全健忘と呼ばれる状態になって尚も記憶の底に残っているような、深い思い入れがなかった、ということなのだろう。私は何故だか、立派と称されるであろう建物を見ても、何の感慨も浮かばなかった。
「こんな風に、さ」
 校門から敷地に入った所で、隣の紅霞さんが言った。
「栞と学校に来るの、初めてかもしれない。いつも栞が一人で先に行っていたから」
 何故、とは訊かなかった。私が今の私になった目覚めた時、「もうお聖堂に行く時間?」と言っていたから、きっと毎朝早くお聖堂に言っていたのだろう。敬虔なクリスチャン、という情報を知れば、不思議なことではなかった。
 私は山から下りてくる風から身を守るように襟元を締めながら、紅霞さんの歩幅に合わせて歩く。学園は丘の中腹にある所為で、敷地にも坂が多い。軽く息切れし出した自分が、少し情けなかった。
「おはようー」
「あ、おはよ」
 突然後ろから風が吹いたかと思うと、私たちと同じ制服を着た少女が駆けて行った。紅霞さんに手を振られ去っていく彼女は、余程急いでいるのか、あっという間に校舎に吸い込まれて行った。
 ――何故だろう。
 私の中に、確かな違和感がある。走って行った少女にも、今こうして歩いている自分にも。
「ごきげんよう」
 また後ろから声をかけられて、「ああそうだ」と思った。迷子になって彷徨って、家が見つかったような感覚。違和感が和らいで、学園を見上げても覚えなかった郷愁が、胸を満たしている。
「ごきげんよう」
 紅霞さんと声を合わせて、挨拶に答えた。驚くほどすんなり、その言葉は出てきた。
 頭痛は、ない。その代わりにトクンと、頭の中が脈動したような錯覚を覚えた。間違いなく、これは私の過去に関する情報だ。
 こうして記憶の欠片を見つけると、いつも頭の中に疑問の渦が巻く。私はこの学校で生徒だったはずなのに、「おはよう」という挨拶には違和感を感じて、「ごきげんよう」という挨拶にはそれを感じない。
 紅霞さんは私と知り合って一ヶ月と言っていたけど、それまで私は一体何をしていたのだろう。転校してきたのか、それともたまたま寮の部屋変えがあって一緒になっただけなのか。ならばきっと「ごきげんよう」という挨拶は転校する前の学校で使われていたのか、あるいは中学校で使われていたのだろう。
「紅霞さん」
 立ち止まった私を、紅霞さんが振り返った。ズキンと頭が痛んだけど、今朝飲んだ薬が効き始めているのか、昨日ほど酷い頭痛ではない。表情に出てしまうほどの痛みではなかったのが、幸いだった。
「さん付けは止めてって、昨日も言ったわ」
「そう、だったわね」
 違う、今はそんな話がしたいわけじゃない。答えてくれなくても、疑問を口にしたい。そんな欲求がわだかまっている。
「まあ、後一週間もすれば直ると思うけど」
「どうしてそう思うの?」
「最初会った日から毎日一回、『さん付けは止めて』と言っていたら、そのぐらいの頃に呼び捨てにしてくれたからよ」
 そうか、と改めて思い知らされる。紅霞さんに取って、全てが二回目なのかも知れない。答えは目の前に転がっているはずなのに、真っ暗で見えないような、嫌な感触だけがある。
「その、最初に会った日なんだけど。私はどうして一ヶ月前にあなたと会ったの? どちらかが転校してきた、とか、それとも寮の部屋替えがあって初めて」
「栞」
 紅霞さんは怒ったような顔で、私の言葉を断った。口調は明らかに私を諌めていた。
「あ、ごきげんよう」
 二人の間の空気が張り詰めた瞬間を狙ったかのように、後ろからまたあの挨拶が届いた。
「実夏……。ごきげんよ」
「……ごきげんよう」
 振り返った先にいた、ミカと呼ばれた少女は気まずそうな作り笑いを浮かべて、片手を挙げていた。おそらく、だけど、彼女はこちらの雰囲気があまりよろしくないのを分かっていて、声を掛けてきたんじゃないかと思う。
「どうどうー」
 そして次に何を言うかと思ったら、まるで馬を落ち着かせるかのように手をぱたぱた振りながら、その小さい体を私と紅霞さんの間に滑り込ませた。短い三つ編みが巻き起こしたわずかな風が、頬を撫でる。
「なによそれ、私たちが喧嘩しているみたいじゃないの」
「あら、違ったの?」
 私と紅霞さんの顔を見比べながら、実夏さんは人懐っこい笑みを浮かべた。今度は、作り笑いではなかった。
「まあ、ちょうどいいわ。あんた、栞をお願いね」
「らじゃ」
 今度は私が、敬礼する実夏さんと紅霞さんの顔を見比べた。どういうこと? と顔で尋ねると、二人は口々に言った。
「私と栞は、クラスが違うのよ」
「そして私と栞ちゃんは、一緒のクラスなのよ」
 栞ちゃん、って。その呼び方は新鮮だったから、やっぱり彼女は私の記憶の欠片の中にはいないのだろう。人がよさそうなだけに、それが少し残念で、申し訳なくもあった。
 気が付けばグランドの横を通り過ぎて、校舎はすぐ目の前にあった。左手には自転車置き場。それから三段ほどの階段を上がった広場のような場所はレンガが敷かれていて、昇降口へと繋がっていた。
「栞ちゃんの下駄箱はこっちよ」
 つい紅霞さんについて行きそうになった私を、実夏さんが引っ張った。クラスが違えば下駄箱の場所も違うのは当然なのに、何をボケっとしていたのか。
 下駄箱を開けると、上履きには上から見える位置に『久保』と書いてあった。当たり前のはずなのに、当たり前に感じられないのが奇妙だった。
「栞」
 声に振り向けば、すでに紅霞さんは上履きを履き替えて待っていた。急いで上履きに履き替えると、実夏さんと一緒にその隣に並んで歩き出す。
「クラスのことについては、実夏に訊いて」
 階段を上りながら、紅霞さんは言った。隣で実夏さんも、うんうんと頷いているから異論はないのだろう。
「それじゃ、私はこっちだから」
 三階まで上がると、右に曲がって行った。一番近くにあるクラスのネームプレートを見ると、D組と書いてあった。
「で、私たちはB組だからこっち」
 紅霞さんの背中を見ていた私と、また実夏さんが引っ張った。左に歩いて廊下の中腹ぐらいまで行ったところが、私たちのクラスであるらしい。
 扉を開ける前に、一度立ち止まった。手がわずかに震えて、緊張しているのが分かった。
「おっはよー。ごきげんよー」
 そんな私を五秒だけ見守ってから、実夏さんは元気よく教室の扉を開けた。何もそんなに目立つように振舞わなくてもと思ったけれど、彼女の場合逆に大人しくしている方が目立つのかも知れないと思い直す。
「ごきげんよう――」
 意を決して教室の中に入ると、一瞬全ての視線がこちらに向いた。会話が波のように引いて、また戻っていく。ごきげんよう、おはよう、と、ちらほらと挨拶が返される。
「席はこっちね」
「え、ええ……」
 案内されて席に着くまでの間も、ひしひしと視線を感じた。同情、あるいは奇異、あるいは話しかけようか戸惑っているかのように。
 無理もない話だと思うし、こうなることも予想していた。ある日クラスメイトが記憶喪失になったのだから、物珍しくもあるだろうし、変な感じもするだろう。
 ――だけど一瞬、世界に見放されたかのような寂しさを覚えたのは何故だろう?
 ここにいる不思議と、ここにいてもいいのかという、消えない疑問。過去もなくし、この先も見えない、時間と切り離されたかのような自分の姿を、頭の中で思い描く。
「栞さん」
 宙を見つめる私に、隣に座っていた生徒が話しかけてきた。ショートカットの人の良さそうな少女だった。
「私のことは、分かる? 覚えている?」
 私はその質問に、ため息を飲み込むしかない。
「いいえ、ごめんなさい」
 彼女は残念そうな顔をしたけれど、そう言う他なかった。誰のことも覚えてないのよ、と付け足すと、彼女は「それもそうよね」と苦笑した。
「色々大変だろうけど……分からないことがあったら何でも訊いてね」
「そうだよー。私もいるし」
 そう言ったのは、ショートカットの少女の前の席に座った実夏さんだった。鞄を机の横にかけているところを見ると、ただ話す為に座ったのではなく、元からその席であるらしい。
 何でも訊いて、という申し出に私は何とも言えない感覚を覚えた。私がこれまでにあった人たちは、みんないい人ばかりだ。だけど、私が本当に頼っていいのは誰なのだろう。子供であれば、両親が一番の味方であるはずで、私に取ってその人は? 本当に、私は――。
「栞ちゃん?」
 覗き込んでくる瞳に驚いて、思わず身を引いた。こんなに接近されるまで気づかないなんて、どうかしている。
「ごめんなさい、ぼーっとしてて」
「ふふ、そういうところは相変わらずなのね」
 ショートカットの少女が、口を抑えて控えめに笑った。そうか、前からなのか、という淡白な所感しか、思い浮かばない。
「あのね、休み時間とか時間のある限り学校に案内しようと思うんだけど、どこか行きたいところってある?」
「そうね……」
 私は左手にある窓からグラウンドを見下ろして、少しの間考える。そしてここからは見えない物の存在を思い出して、気づけば口に出していた。
「お聖堂」
 そうだ、私は。
「お聖堂に行ってみたいの」
 そして私が縋っていたという神様に訊きたい。
 
 今の私は本当に、一人なんですか――と。
 
 
 
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