世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.03
      風を望む
 
*        *        *
 
 あなたから見た私はどんな人ですか?
 そう訊かれれば、私だって戸惑っただろう。そんな突拍子のない質問を受けた紅霞さんは、凄く困った顔をしていた。
「どんな人間って、難しいわよ」
 真っ赤に燃える夕日を瞳に映して、紅霞さんは言った。ただでさえ光に透かせれば赤く見える髪が、殊更赤く見えて神秘的にさえ感じた。
「じゃあこうしましょう。栞が私のことをどんな人間か説明して。そうしたら、私はそれに見合った答えを話すわ」
 それに見合った、って。つまり詳しく、正直に言えば言うほど、同じだけ私のことを教えてくれるというのだろう。言って見ればこれは、照れ隠しだ。
「そうね。まずは面倒見がいい」
「……本当にそう見える?」
 見えるわ、と言いながら、私はもたれていた手摺から身体を離した。くるりと身体を翻して、今度は背中で橋の手摺にもたれかかると、丘なのか山なのか分からない景色が広がる。空は稜線から放たれたかのような薄紫と白、それから青のグラデーションで彩られている。
「今日ここに連れてきてくれたし、それに貴女はきっとロマンチストね」
「情緒ある風景が好きな人、ぐらいにしてくれないかしら」
 照れるような笑いと一緒に、紅霞さんはそう言った。
「でも言っていることは半分当たりで半分外れね。私は面倒なことが嫌いで、それをさっさと片付けるのが好き」
「それで今日、ここに?」
「そうよ。今日出来ることを明日に残すな、が私のモットーだから」
 私にこの辺りを案内するのが面倒事と話すのも照れ隠しだろうか、と考えるのは楽観しし過ぎだろうか。少なくとも、嫌々やっているようには見えないけれど。
「あと、それから」
「スタイルがいい、とか?」
「もう、茶化さないで。真面目に考えているのよ」
 まださっきのことを気にしているのか、変な風に捉えられたものだと思う。
「それから紅霞さんは、きっと信心深いわ」
「え? どうしてそう思うの?」
「昨日着替えるとき、ポケットからロザリオを出していたもの」
 ロザリオ、と口にした瞬間、何故だかデジャブにも似た、妙に懐かしい気持ちが溢れた。これは多分、無くした記憶の欠片――。
「ああ、あれね。うちの学校、全員部活に入らなきゃいけないから、そこそこ部員数が多くてサボりやすい聖書読書部に入っているのよ。ロザリオはお祈りする時に使うの」
 本来聖書読書部っていうのは、お祈りする為の部活じゃないんだけどね、と彼女は付けたした。お祈り、という言葉にも、頭は僅かに反応を示す。
「それを言ったら栞の方が信心深かったわよ。毎日朝早く起きて、学校のお聖堂に行っていたし」
「お聖堂……?」
 ズキンと、頭が痛んだ。頭の中で火花が散ったように、鋭い痛みがこめかみとこめかみの間を走る。
「栞――?」
 赤い瞳が、私の顔を覗きこんだ。大丈夫よ、とだけ言って、また海を振り返った。
 本当は何も大丈夫ではない。お聖堂という、過去の欠片から記憶を手繰ろうとすると、頭痛はどんどん酷くなっていく。
 でも――。それでも、知りたいと思った。私が何者なのか、それは知っておくべきことだ。それにここにいてもいいのかという不安を、さっさと拭い去ってしまいたかった。
「それから、私は……?」
「……栞、駄目よ。私が迂闊だった。今日はもう帰るわよ」
 私は時々こんなことを考える。もし久保栞という人間は、意図的に作られた存在だったら? 誰かが何らかの目的で、利用する為だったとしたら?
 人を疑うことは辛かった。だけどこの世界には、信用する為の確証があまりにもなさすぎた。
 踵を返し、私の手を引いて帰ろうとする紅霞さんの手を、逆に引っ張り返す。夕日の赤が鮮明さを増して、表情が見えない。
「栞、聞き分けて。前に教えたでしょう、貴女の過去に関する話題はタブーだって」
「それは私が苦しむから? でも何も知らせられずにいるなんて、そっちの方が苦しいわ」
 私は紅霞さんに縋った。頭はそれを阻止しようとするけれど、構わずに腕を掴む。
「私を困らせないで。お願いだから」
 苦しんでいる栞を見たくないのよ。そう言われてしまうほど頭痛は酷くて、眩暈まで併発する。
 紅霞さんを掴んでいた手を離すと、それが支えになっていたのか私の身体はバランスを崩した。ぐらりと揺れた視界の端に映った紅霞さんは、今度は逆に私を掴んだ。
「……大丈夫だから」
「どこがよ。帰るわよ、ほら」
 紅霞さんに身体を支えて貰いながら、ゆっくりと歩き出す。
 それから何を言っても、紅霞さんは黙ったまま、何も答えてくれなかった。支える腕を振り払って質問をぶつけるぐらいの気概は、心身の安定とともに奪い取られてしまっていた。
 また遠ざかっていく記憶。赤い光を撒き散らしながら消えていく夕日が、何故だか悲しく見えた。
 
*        *        *
 
 失敗したな――。
 消灯時間が過ぎたベッドの中で、私は今日の出来事を思い出していた。
 あれほど学園長から栞の過去について話さないように言われていたのに、これだ。時折自分の詰めの甘さを呪いたくなる。
 確かに「過去に触れるな」というお達しに関して、反駁するところはあった。正確にはそのお触れにでは、でなく、その周りの反応にだ。まるで栞を病人みたいに思って、彼女に対して憐れみの目で語るのが腹立だしかった。
 だからと言って、栞を苦しませていい理由にはならない。どれだけ彼女が自分自身を知りたくても、一番近くにいる私は、もっとも堅くそれを守るべきだった。
 しかし、そうは言っても、実際は栞について知っていることは少ない。一ヶ月前、三学期という中途半端な時期に転校してきて、同じ東京出身だからという理由で同じ部屋にされた。本来は二人部屋だったけれど、その時私が一人で使っていた、という理由もある。
 すぅすぅと安らかな栞の寝息を聞きながら、その時のことを思い出す。まるで死人みたいな目をしていた、初めて会った日のことを。
 
 最初栞を見た時、目には見えない神々しさを感じた。神と言うよりは天使のような、そんな雰囲気を帯びた彼女は、だけどその目は悲しみに満ちていた。
 その時私が知っていた情報と言えば、同じ東京出身で、敬虔なクリスチャンであるということだ。事実、この寮について初めて訊かれたのは、お風呂やトイレはどこなのかということではなく、お聖堂はあるのか? という質問だった。
 一体どうして彼女が神に縋るのか、どうしてあんなに悲しい目をしていたのか、私はまだその理由を知らない。話すにはきっと時間のかかることだと感じ取ったから、訊きもしなかった。
 栞は寮に住み出して三日か四日ぐらいした頃に、一人の時間を見つけては泣くようになっていた。実際はもっと前からかも知れない。ただ私が部屋に帰ってきて、顔を伏せて泣いている栞を見たのは、そのぐらいの頃だった。
 それから栞は、就寝時間になって部屋が暗くなると、私がすぐ近くにいても泣くようになった。泣く理由を訪ねても、「ごめんなさい」としか返って来なかった。栞が寮に来て十日も経とうかと言う頃だった。
 その短い時間で分かったことは、少なからずある。栞はとても真摯で、優しい人で、空を受け止める海のように寛大だ。そして私は、それとは全然違う人間だった。
 栞が泣くことに理由はきっとあって、それはきっと凄く悲しいことだったはずで。それを分かってはいるけど、夜な夜な泣かれては堪ったものじゃない。安易に私と同じ部屋にするように指定した学園長を、夜が来る度恨んだぐらいだ。
 
 そして三日前の晩、つまり栞が目覚めたら記憶を無くしていたあの前夜は、一際酷く泣いていた。悲しみを噛み切るのに必死になって、少し離れた所からでも身体が震えているのが分かった。
 時を同じくして、私もどうにかなってしまいそうだった。栞のことは嫌いじゃない。だけど我慢強い方ではない私にとって夜泣きなんてされては拷問同然で、だけどどこか心配もしている。そんなごちゃ混ぜの状態だった。
 
 それを鑑みたら、今の栞は何て安らかに眠っているのだろう。月明かりを頼りに栞のベッドまで近づくと、ゆっくりと腰を下ろした。
 整った顔立ちが、薄明かりに映えているのを、私はしばらく見つめていた。それは明日から栞も学校に行くのだと言う杞憂を忘れる為なのか、それともただ見とれていただけなのか、私はまだ分からなかったけれど――。
 
 
 
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