世界の偽り
 
 
 
 
≫Chapter.02
   失くし物
 
*        *        *
 
 酷く頭がぼんやりとしていた。部屋の窓から見える景色は、大して面白いものではない。なのにただ椅子に座って、それを見ているのは、それぐらいしかすることがないからだ。
 貴方は記憶喪失よ、とは昨日宣告されていたから、改めてお医者さまに「恐らく心因性の全健忘でしょう」と言われても特に驚きはなかった。そんな言葉があるってことは、記憶喪失なんて物語の中だけの話じゃなかったんだ、と他人事のように思ったりしたぐらいだ。
 過去を知りたい。――私はそう思ったけれど、実はそれも簡単なことではないらしい。私が何か過去に触れることを思い出そうとすると、身体が拒絶するかのように頭が痛む。それはまるで頭の中で地割れでも起こっているかのように、あまりに鋭く苦しいものだった。
 その事実に対して学園長を初めとする、私が通っているらしい教師陣の尽力で、『久保栞の過去に触れる話題をしないように』とのお触れが出たらしい。紅霞さんはそのことを、何故だか苛立たしげに教えてくれた。
 ああ、――と溜息が漏れる。空気が重たいのは、薬の所為だ。どの錠剤がどんな薬かは忘れてしまったけど、私が自暴自棄になったり、情緒不安定になったりするのを抑えてくれる物らしい。ついでに、頭の痛みも。
 それでも心配なのか、つい二十分ほど前までは寮長と呼ばれる小母さまが私の話相手をしてくれていた。この寮にまつわるエピソードを、柔らかな笑みと一緒に語る、優しい人だった。
 その合計三時間にも渡る会話の中で分かったことは、沢山ある。
 まず私は高校一年生で、学園寮住まいである。今いるこの寮は丘陵地帯の麓部分に位置し、私の通っているらしい学校は十五分程坂を上ったところにある、カトリック系の女学園。名前は話してくれたなかったから分からないけれど、寮長の話し振りから由緒正しい、厳格な学校であることは感じ取れた。
 そしてこの辺りは、自然に恵まれている。山の中で暮らしているみたいだ、とまではいかないが、窓を見れば木の枝が覗いている。春になればさぞや賑やかになるだろう――と考えたところで、改めて今は冬なのだと認識した。気温から察しはついていたが、恐らく一月ぐらいだろう。部屋にはカレンダーやテレビがないから、正確な日時は分からない。
 よくよく考えてみると、ここがどこかすらも分からない。みんな日本語を喋っているから日本で間違いないだろうけど、ここが本州なのか四国なのか、または九州なのか。気温や周りの景色から察するに、北海道ではなさそうだ。
 考えれば考えるほど、自分の状況は特殊で不思議だ。目が覚めて、『今の私』になって二日と半日経ったけれど、今更そう思う。それまで色んな人に囲まれていて、一人でゆっくり考える暇もなかったからだけど。
 私は私を知らない。あなたはどんな人間ですか? と訊かれても、説明できない。薬のお陰か、それとも周りに親切な人が多くいる為か、酷い混乱はない。だけど心のどこかに不安は染み付いていて、現状は不思議過ぎた。きっと今の私の存在は、宙に浮かんだ雲と同じぐらい、不安定なんだろうな、と思う。
「……ただいま」
 不意に人の声が聞こえて、扉を振り向いた。ぼんやりと雲を見ていたからか、部屋の扉が開けられる音に気付きもしなかった。
「おかえりなさい」
 不思議、と言えば彼女も不思議の一部だ。紅霞(コウカ)さんは私の顔を見ると、ふっと息を吐いて表情から力を抜いた。
 紅霞さんは部屋が一緒だったというのだから、恐らく一番私に近い存在だったのだろう。恐らく一番迷惑をかけてきた相手で、そして今も一番世話になっている相手。
「紅霞さん、質問していい?」
「……随分唐突ね」
 紅霞さんは制服をハンガーにかけながら、こちらを見ずに言った。何故だか背中から、疲労が滲んでいる。
「答えれることだったらいいけれど、その前に、その呼び方を何とかすることね」
「呼び方……?」
「あーっと、これは言ってもいいのかな。……栞は前まで、私のことを呼び捨てにしていたから」
 また私が頭痛で苦しみ出さないか、心配しているのだろう。しかしその答えに、私の頭は何の反応も示さなかった。
 色々考えるうちに、分かった法則がある。それは「何故ここにいるのか」を考えるのには、封がされているかのように頭が拒絶し、「ここは一体どういうところなのか、私はどんな人間だったのか」を考えるのには、何も反応しないということだ。
「けれど、いきなりは」
「だろうね。初めて呼び捨てにしてって言った時も、同じ事言ってたよ」
 やっぱり栞は栞だね、と言われて、また不思議な気分になった。なるほど、彼女にとっては、これは二度目なのだ。
「それで質問って?」
 クローゼットから服を出しながら、また背を向けて言った。彼女は何かと、何かをしながら話すことが多い気がする。
「って、何を人の着替えをじろじろと見ているのよ」
 別にそんなつもりではなかったが、彼女に取ってはそう見えたらしい。正直に言ってもよかったけど、着替えを見ているより、人間観察をしている方が、紅霞さんに取っては不快かも知れない。
 そう考えて私は、人間観察をしながら思った、正直な感想を口にした。
「いえ。ただ、紅霞さんってスタイルいいな、と思って」
「は……?」
 紅霞さんの声が裏返った。
「あ、あんた、その気があるの?」
「……そう言う意味で言ったわけではないのだけど」
 服で下着姿を隠した紅霞さんは、心なしか頬を紅潮させているように見えた。そう恥ずかしがられると、こっちまで気恥ずかしくなってしまう。
「ただ正直に、そう思っただけよ」
「そう……まあ褒めても何もでないけど」
 そう言うと紅霞さんは、またいそいそと着替えを再開した。少しだけ、こちらを気にしながら。
「そうだ、栞。あんた明日から学校行ってもいいんだって」
 彼女は上着から頭を出しながら、何故だかそれがあまり喜ばしいことではないように言った。私にとっては、大きな事態の進展なのに。
「だからこれからあんたを、少し連れまわそうと思う。まだロクに外に出てないと思うしね。質問はその時に聞くわ」
 紅霞さんは肩まである髪を梳きながら、くいと顔で外を指した。
 夕日に透かされた髪は、本当に本当に、赤く見えた。
 
*        *        *
 
 寮の敷地を出て、道なりに行けば舗装された道に出る。それからまっすぐ、海とは反対側に歩いて行けば学園へと続く道に出るのだけど、今日はそちらには行かないことにした。誰かとすれ違っても面倒臭いし、どうせ明日通ることになる。
「川があるわ」
 アルファルトで舗装された道に出た途端、栞が言った。病院に向かう車の中で見えたはずだけど、景色をみる余裕なんてなかったのだろう。あの時の栞の苦しみ方を思い出すと、何故だか胸が締め付けられる。心配とか、そんな感情だけではない何かを、今でも覚えている。
「あっちの橋を渡って山の方へ向かえば学園だけど……今日は海へ行くわ」
 川を覗きこんでいる栞を置いて歩き出すと、少し遅れて彼女も着いてきた。初めてあった時の方が大人しかったな、なんて思い出しながら、下り坂を歩いていく。
 曲がりくねった川沿いの道から生えるように伸びる道を行けば、いわゆる街と呼ばれる場所に出る。だけど今日は、賑やかに場所に連れて行く気にもなれないし、栞の為にもその方がいいだろう。だからただ真っ直ぐに、海を目指して歩いた。
「そろそろ、質問に答えてくれる?」
「ああ、そう言えば質問すら聞いてなかったわね」
 私は少しだけ伸びをしながら、振り返らずに言った。一呼吸置いた後、栞は続ける。
「私は本当に、久保栞なの?」
「は……?」
 何を言い出すかと思えば。てっきり「ここはどこ?」ぐらいから始まると思っていたから、思いっきり意表を突かれた。
「だって私、何も思い出せない。昨日、私の保護者だって人が来たけど、全然見覚えのない人だった。私に取って、私が『久保栞である』という確証が、どこにもないの」
 栞の言うことはもっともだ。周りがいくらそう言っても、自分が自分であるという証拠は、どこにもない。
 確かに昨日、栞の叔父だと言う人が訪ねてきたけど、ほとんど医者や学園長の話を聞いただけで帰ってしまった。大人たちの間でどんな会話があったのか分からないけど、全健忘という症状でありながら栞を引き取ろうとせず、学園長に一任した、というのは会話の切れ端から知っている。
「何を言うかと思ったら、あんたね」
 栞を振り返って、何故だか私の方が切なくなる。無責任な叔父に対する勝手な怒りよりも強く、栞が可哀想だと思った。
「栞は栞で、間違いないわ。私が保証する。嘘だと思うのなら、住民票でも取り寄せてみなさいよ」
「別に、嘘だと疑っているわけじゃないのだけど」
 ただもう一度確かめたかったから。消え入りそうな声で、栞はそう言った。
 それから急に会話が途絶えてしまった、一歩分空いた二人の間には沈黙が壁を作っていた。何て声をかけたらいいのか、分からない。
「あ、今日の目的地が見えてきた」
 暫く歩いて、ようやく目指した場所が見えた。海に近づき、他のどの場所よりも川に近い、赤い塗装の剥げてきているオンボロの橋。それが今日の行き先だ。
「見て栞。ほら、下よ」
「下?」
 手摺に腕を乗せると、少しだけ背伸びをして川を覗き込む。その瞬間、栞は子供みたいな声で、「うわぁ」と声を上げた。
「ね、綺麗でしょ。人通りも少ないし、お気に入りの場所なの」
 栞をここに連れてくるのは、二回目だ。一回目もさっきと同じ反応をしたことを、よく覚えている。
「綺麗。凄いわ」
 栞の瞳に、夕日を浴びて光を乱反射させる川面が映っている。その表情も、姿も、あの日と何も変わっていない。
 艶やかで真っ直ぐで、黒く美しい髪。どこか神秘的で繊細な表情を持つその顔(かんばせ)と、憂いを帯びた瞳。夕日の世界に合っているのか、栞の存在感は強烈でありながら、どこか消えてしまいそうでもある。
 そんな彼女に、運命というヤツはなんて残酷な仕打ちをするのだろうか。神様というのがいるのであれば、彼女の為にその力を使うべきなんじゃないかって、姿形も分からない存在に文句ばかりが出てくる。
「もう一つ、質問」
「はい、どうぞ」
「私がどうしてこういう状況になったか、分かる?」
 栞は川面を見つめるときと同じ嬉々とした表情で言った。そういう質問は、そんな顔して訊く事じゃない。
 栞の質問に対して、分からないと言ったら嘘になる。だけどそれには何の確証もないし、全てを伝える事はいい考えとは言えないと思った。
「……分からないわよ。記憶喪失の原因なんて」
「確かに、そうよね。じゃあ質問を変えるわ。紅霞さんの知る限り、私はどんな人間だった?」
 それもまた難しい質問だ、と私は思った。それってつまり、私が栞をどう思っているかを語るのに近い。
 私にとって、栞はどんな人間だったか。それは、正直言って。
 
『あなたは凄く鬱陶しかったわよ』
 
 ――そんなことを言ったら、栞はどんな顔をするだろう。
 
 
 
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