≫Chapter.01■■
世界の始まり
世界の始まり
* * *
ふと目が覚めたらそこは見慣れない場所だった、という経験は誰にでもあると思う。
目を開いて、そこがどこであるか認識して、ゆっくりと回り始めた頭で状況を思い出す。いつもと違う場所で目覚めたら、よくあることだろう。
「……」
だけどそうじゃなかった場合、一体どうしたらいいと言うのだろう。目覚めてもう五分になろうかと言う頃合だけど、ここがどこなのか、どうしてここにいるのか、一向に思い出せない。
きっと目が覚めてないからだ。そう思ってベッドを下りると、仄かな朝の光が部屋を満たしているのが分かった。
少し厚いカーテン越しに届いた光は、見たことのない部屋の様相を映し出している。机が一つ、椅子は二つ、艶のある黒のクローゼットの横には、明るい茶色のタンス。一見どこにでもあるような家具にはしかし、身覚えがまったくなかった。
「ここは」
どこ? そう言おうとした喉は渇いていて、声が掠れた。寝汗を掻いていた訳でもないようなのに、酷く喉が渇いている。
机の横に化粧台を見つけると、私は恐る恐る近寄って、鏡のカバーに手をかけた。きっとその中にいるのは私であるはずで、それに間違いはないのに、何故だか妙な胸騒ぎがする。
――というか、私って。
「う、んっ……。栞?」
誰だ? 私は誰で、栞とは誰で、その声の主は。
私は鏡のカバーから咄嗟に手を話すと、声のした方を振り向いた。勢い余って尻持ちをついて、後ろ手に身体を支えながら、ベッドから起き上がる人と対峙する。
「もうお聖堂に行く時間?」
――誰だろう、この人は。カーテンの狭間を縫って進入した光は、見たことのない人の姿を照らし出している。
少しだけ緋色がかった瞳、光に透かされた髪はうっすらとした赤茶。体躯は自分と大差ないだろうけど、何故だか言い得ない存在感があった。
「何してるのよ。もう、いつもより十分も早いし」
何している、とは私が彼女に対して訊きたいことであり、自分自身にも訊きたいことだ。彼女は壁にかけてあった時計を見ながら、気だるそうに髪をかき上げる。
「ちょっと、なんで何も言わないのよ。おはようぐらい言ったら?」
彼女の言うことはもっとものような気がしたが、そこまで暢気ではいられない。私は彼女の足元から頭の先まで見た後、ようやく声を出すことが出来た。
「あなた、誰?」
「はぁ?」
いい加減にしなさいよ、とでも言わんばかりに、赤茶の彼女は顔を歪めた。
「あんたね、一ヶ月も同じ部屋で暮らしといて、その人の名前を忘れたって言うの?」
「一ヶ月も同じ部屋……?」
一体何の話なのだろう。見知らぬ場所に一ヶ月も住んでいるわけがないし、やはりそれだけ一緒にいた記憶だってない。
ならば私は一ヶ月前にどこで何をしていたのだろうか、と思い出そうとした瞬間、頭を締め付けるような痛みが走った。突然の頭痛に耐え切れず、立ち上がろうとしていた足は折れ、その場に蹲った。
「え、ちょ、ちょっと、栞!?」
ここはどこで、私は誰で、どうしてここにいる?
――思い出せない。記憶の深くを掘り起こそうとするたび、スコップで頭を叩かれているように、頭が痛む。
「どうしたのよ、ねぇ!」
彼女は私に駆け寄り、身体を支えてくれたけれど、とてもじゃないが起き上がれそうにない。
思い出してはいけない。――そう自分に言い聞かせて、他の物事に注意をそむけると、少しずつ痛みが和らいでいく。
「待ってて。寮長を呼んでくるわ」
私が身を起こすと、彼女は肩に手を置いて言った。扉の向こうに背中が消えて、バタンという音が後から聞こえた。
「待って!」
一人が怖い。何故だか痛烈にそう思った。
動かない身体に鞭を打って、私は這うように扉に向かった。鉛のような身体は、私に動くなと命令する。
「待っ……て……」
ドアノブに手をかけて扉を開いた、その瞬間。
私の世界はまた、眠りに戻るように消える――。
* * *
まったく厄介なことになった、と私は学園長の顔を見ながら、しみじみそう思った。寮長に栞の異変を伝えてから、たった三十分後のことだ。
事実は正確に、緻密に伝えたはずである。私が物音で目覚めたら、栞が化粧台の前にいた。いつもの起床時間よりも早く起きて何をしているのか訊いたら、「あなたは誰?」と訊かれて、その後栞は頭を抱えて苦しみ出した。
「さっぱり意味が分からないわ」
何を言っただとか、思えている範囲で全部伝えたというのに、学園長は困り果てた顔でそう言った。その隣に座っている寮長も、「同感」と言った顔で頷いている。
そりゃ、こっちだってさっぱり意味が分からない。一ヶ月も生活を共にした友人が、唐突に記憶をなくしてしまっているのだ。何度そう説明しても、学園長たちは一向に表情を変えない。
「とりあえず、あなたの言いたい事は分かったわ。とにかくお医者さんに見てもらいましょう」
それから学園長は知り合いらしき人物に電話をかけ、寮長は私たちに着替えてくるよう言った。寮長室の外に出ると何人かの生徒が登校している所で、何故だかまるで別世界のように感じてしまう。
「あの……」
私が部屋へと足向けると、後ろから栞が言った。
「あなたの名前、コウカさんって言うの?」
おそらく寮長室での会話を聞いて、ようやっと私の名前が分かったのだろう。本当に、奇妙な気分だ。
「ああ、そうだよ。紅に霞むと書いて紅霞。目がちょっとだけ赤みがかっているからだって、名付け親が言ってた」
たった一ヶ月前に言った言葉を繰り返すと、これからどういうことが起こるか、少しだけ分かった。恐らく私は、栞と出合ってから一ヶ月の間にしたことを、一つずつもう一度繰り返すことになるだろう。そしてそれは、凄く面倒なことだ。
重たい気分で部屋の扉を開けると、栞がまた後ろから喋りかけてくる。
「私はここに、一ヶ月もいたの?」
いい加減寝ぼけてないで、目を覚ましてくれないかな、と思う。しかしそれはきっと、無理な話なのだろう。
「そうよ」
私はクローゼットから制服を出すと、栞に押し付けた。
「そしてこれは私の予想なんだけど、貴方は記憶喪失ね」
「きおく、そうしつ……?」
まさか記憶喪失という意味まで忘れてしまったか、と思ったけどそれはないだろう。彼女が日本語を喋っている限り、言葉に関してまで記憶がなくなっているようには見えない。
「どうして? 私って一体、誰だったの?」
「そんなの私に分かるわけないでしょ。大体あんたは栞以外の誰でもないのよ」
そう、栞は栞以外の何者でもない。一ヶ月前転校してきて、敬虔なクリスチャンで、私のルームメイトだ。髪が長くて、びっくりするぐらいの美人で、人の悪口なんて絶対に言わない、潔白な人。――そんな説明を、私にしろというのか、栞は。
「栞って、今でも私は栞なの?」
「そうよ。それしかないでしょ。というかあんた、相当混乱してるわね」
頼むから私にこれ以上訳の分からないことを言わないで欲しい。説明するのも一苦労だ。
さっさと着替えて、と言って無理やり制服を渡すと、私も制服に着替えた。栞の方も、身体は覚えているのか、私とほぼ同時に着替え終わっていた。
「不思議……初めて着た気がしないわ」
「そりゃ初めてじゃないんだからね」
私は栞の制服の襟に手を添えてそう言った。
「制服を着させられるということは、私は学生なのね?」
「そうよ。……そりゃここは、学生寮だもの」
案外冷静に状況を見ているのかと思ったら、そうでもないらしい。さっき部屋に行くまでにすれ違った生徒たちを見ていれば分かりそうなものだけど、そこまで求めるのは酷だろうか。
とにかく、朝起きて制服を着るところまではいつも通りのように思えるけど、今は全然そんな状況じゃない。栞は混乱しているし、きっと私も混乱している。
「三島さん、準備は出来たかしら?」
ただ、栞が記憶を失っていても、私が混乱していても、はっきり言えることがある。
「はい、今行きます」
それは私、三島紅霞は三島紅霞でしかなく、久保栞は久保栞でしかない、と言うことだ。