■ Sweet Valentine -第三話-
 
 
 
 
 この喧嘩とも呼べないような小さなすれ違いに、どちらが悪いと区別をつけるのなら、間違いなく由乃に非があるのだろう。それは充分理解している。
 理解しているからこそ、由乃は今、両親の寝静まった家の中で一人、台所を甘い香りで一杯にしているのだ。チョコ作りを親に見られるのは、相当に恥ずかしい。
 
「よし、と」
 
 湯銭したチョコを型に流し込んで、由乃は頷いた。色やツヤも、悪くない。
 由乃が選んだのは、結局このオーソドックスな型で作るチョコレートだった。トリュフ、クランチチョコ、生チョコやコーヒービーンズなど、色々選択肢はあったけど、やはり初心者らしく失敗の少ないチョコにしたのだ。
 だからと言って、ただ溶かすだけではない。一応、色々放り込んだりして自分なりにアレンジしているのだ。祐麒の口に合うかどうか、というより、美味しいのかどうかすら未確認だけれど。
 
(急に冷やすとよくないんだっけ)
 
 うろ覚えのチョコ作り知識を引っ張りだして、チョコは自然に固まらせることにする。だけどやはり味が気になって、クッキングペーパーの上にチョコを少し垂らし、冷凍庫に突っ込んだ。……実はこのチョコ、本日三度目の作品だったりする。
 本当なら、もっとオリジナリティのあるチョコにしたかった。食べたら忘れられないような味を、と言ったら何を初心者がという話になるだろうけど、最初は本気でそう思っていたのだ。
 某有名ショコラティエは新作に唐辛子を使ったらしい、と雑誌に載っていたから真似してみたけれど、あえなく失敗。二作目は、これまた雑誌の情報からリキュールや洋酒もチョコに合うという話だったので、お父さんのウイスキーを拝借した。ウイスキーをどれだけ入れていいか分からなかったため、やはりこれも奇妙な風味になって失敗。だからこのチョコ、「三度目の正直」ってやつにかけているのだ。
 
「さて……」
 
 そろそろ、さっきペーパーに垂らしたチョコが固まっている頃合だろうか。冷凍庫の扉を開けると、冷たい空気に混じってほのかなチョコの香りが鼻腔に届いた。
 指でつついてみて固まっていることを確認すると、パリとチョコを剥がした。つまんで口に放り込むと、まってましたと言わんばかりにチョコは溶け、そっと舌を滑る。
 
「よしっ」
 
 思わず、ガッツポーズ。無難な味だけれど、これなら成功と言えるだろう。
 ようやく終わったー、と時計を見ると、もう午前一時過ぎ。急いで片付けて、ラッピングの用意をしていたら、すぐに一時半になってしまった。立派な真夜中だ。
 
「あっ……」
 
 もう寝ようと思って立ち上がったところで、不意に思い出す。そう言えば、ネックとなるカードを忘れていた。
 去年のことがあるから、何故だかカードが特別な物に思えてならない。だから用意しようとは思って台紙を買って来てはあるけど、チョコのことばかり考えていて、何を書くかは決まっていなかったのだ。
 
(あーもうっ)
 
 そろそろ寝てなくては、明日がきつくなるって言うのに。でも、だからと言って適当にできるものでもない。
 深夜にラブレターを書くのは危険すぎるし、かと言って適切な文章が思いついてくるわけでもなくて。
 そんな由乃を見ているはずなのに、カチカチと歩くことを止めない時計。最後に見たとき、どちらの針も右側を向いていたのを、由乃はあえて見なかったことにした。
 
 

 
 
 バレンタインデー当日は天気予報の通り、空も大地も冬色だった。午前中、不安になるぐらい降った雪は地へと横たわり、今は粉雪が布団をかけている。……教室からみた外の印象は、そんな感じだ。
 クラスメートの中には、雪を憂鬱そうに見ている人もいれば、「ホワイトバレンタインデーなんて素敵」と手を叩く人もいる。そんな中、由乃ならどちら側の人間なんだと問われれば、間違いなく前者である。こんな日に雪だなんて、ついてない。
 チョコを渡すチャンスがあるとすれば放課後。驚かそうと思って事前に連絡は取ってないから、受け渡しには祐麒を待ち伏せる必要があるのだ。
 
(タイミング悪いっていうの)
 
 日曜日に積もった時は嬉しかったけど、それはそれ。こんな寒天の下で待たなくてはいけないと思うとぞっとする。
 だけど、だからと言って計画に変更はない。あれだけ頑張って作ったものを無駄にしたくないし、何より一方的に怒ったことを謝らないと。そうしなければ、きっとまた頼りっぱなしになってしまう。そうなってはいけないという思いが、心のどこかで強く根付いていた。
 
 やがて放課後になり、掃除やら何やらのしがらみから解放されると、由乃は真っ直ぐ校門へと向かった。積雪一センチぐらいかと思われる銀杏並木には、既に黒い点がいくつかあった。
 先ほどまで粉雪だった雪は、手のひらにのっても中々溶けない程の大粒な雪に変わり、そしてまた粉雪になった。淡い雪だったけれど、コートやマフラーに着いても中々取れなかった。
 
(色々勘繰られるんだろうなぁ)
 
 朔風に三つ編みの髪を弄ばれながら、自分の今からを思い浮かべた。
 男子校の前付近で待ち伏せ。それもバレンタインデー。その状況で何も思わない人間はよほど鈍感か、バレンタインデーというイベントを思いつきもしない人なのだろう。
 傘を傾けて、少しだけ空を仰ぐ。尚も雪は宙を滑り、それを見ながら傘で顔を隠していれば恥ずかしくないかと考えた。だけどそれでは待ち人が来ても気付けないと思い至った、その時だった。
 早足で雪の中を歩く由乃の背中に、どこか遠くから「由乃さま」と呼ぶ声が聞こえたのは。
 
「え?」
 
 由乃が振り向くと、下校途中の数人の生徒たちが見えた。そのうち何人かは、自分が呼ばれたわけでもないのに声の主を探していた。
 ――誰?
 心の中でそう疑問に思った瞬間、聞き覚えのある声だと気付いた。以前姿は見つからなかったけれど、由乃は足を止めて耳を澄まし、目を凝らした。
 やがて小走りでこちらへと向かう姿が見え、それが菜々だと気付いた瞬間、胸が跳ねた。菜々が、自分のために走っている。それに何故だか、少しの感動すら覚えた。
 
「ど、どうしたのよ」
 
 自分の目の前で白い息を他よりも濃くしている菜々を見て、ひょっとしたら由乃の心臓の方が活発なのではないかと思った。いくら雪の勢いは弱まっているとは言え、傘も差さずに走ってきたのだ。髪は少し乱れ、制服の端には雪が纏わりついている。
 
「これを」
 
 そう言って差し出されたのは、赤くラッピングされた箱だった。その中身が何であるかなんて、訊くまでもなく判った。
 
「これ、私に?」
「令さまに渡して下さい。……なんて言うと思いますか?」
 
 いや、菜々なら言いそう、と思ったけど、口に出さずに「ううん」と首を振った。この赤い箱は、間違いなく菜々が由乃に贈ってくれるものだと認識すると、知らずに笑みがこぼれる。耐えようと思っても出来なくて、どうしてそうする必要があろうかと考え付くと、また笑った。
 
「ありがとう。嬉しい」
 
 思わず箱を胸に抱いて礼を言うと、菜々も薄く照れ笑いを浮かべた。初めてみる表情で、思わず胸が高鳴る。
 凍えそうなほど寒いけど、心はポカポカと温かかった。チョコを贈ることばかり考えていて、貰えるなんて思っていなかったから、尚のこと嬉しい。
 だけど、と少し引っかかる部分もある。こう考えると失礼極まりないけど、菜々ってこういう方向に気の回る子だったかな、と思うのだ。何となく、季節物の行事には疎いと思っていた。
 
「……でも、どうしたの?」
 
 嫌な予感が胸にわだかまって、思わずそう訊いた。ストレート過ぎると思ったけれど、もう遅い。
 どうしたの、と菜々が復唱して首を傾げる。その後少し考えてから、菜々は言った。
 
「山百合会のクリスマスパーティーにお招きいただいたお礼に、ですが」
「本当に?」
「何を疑っているのか分かりませんが、そうするのが筋だと言われました」
 
 ほら、と由乃は思った。悪い予感は、見事に大当たりだ。
 
「言われた、ってことは、菜々の意思じゃないんだ」
「いえ、誘われたのならチョコを渡すことでお礼に代えたらいいのでは、と助言をもらっただけです。由乃さまにチョコを渡したのは、私の意思です」
「そう……。うん、それならいいんだ」
 
 何がいいのか、由乃自身よく分からなかった。でも菜々の口から、「私の意思で渡したいと思った」という意味の言葉が紡がれたのなら、それでいいんだと思った。
 
「それでは、私はこれで失礼します」
「うん、ありがとう。大事に食べるわ」
 
 そうして下さると嬉しいです、と菜々は辞去した。急に一人になったけれど、あまり寒さは感じない。
 箱を抱いたまま、暫く佇んでいた。菜々の姿が見えなくなった瞬間、己の使命を思い出し、また早足で歩き出す。雪の勢いは、少しだけ増したように思えた。
 マリア像の前を通りがかると、例年通り行列ができていた。蔦子さんの姿を見つけて、由乃は自分が箱を胸に抱いたままだったことに気付いてはっとしたけれど、彼女は撮影に夢中でこちらに気付きもしなかった。
 校門を出ると、迷わず花寺の校門の方向へと向かう。幸い人影は少なく、由乃の行動を訝しがる人もいないようだった。
 更に校門に近づくと、当たり前だけど花寺の制服が多くなる。だけど意外だったのは、由乃の他にもリリアンの制服があることだった。リリアン以外にも、疎らだったけれど女学生の姿がある。
 なるほど、と思うと同時に、よかった、と思った。花寺もリリアンも古い学校だから、こんなコテコテのドラマのような状況を演じる人が、由乃の他にも居たのだ。仲間がいてくれたこと、由乃の他にも花寺の生徒と付き合っている子がいるってことに、ちょっとした親近感が沸く。
 そう思いながら多種多様な人たちに視線を送っていると、一人の女の子と目が合った。
 
「あ、由乃さまもですか?」
 
 由乃のことを『さま付け』で呼んだことから察するに、この子は下級生。つまり、リリアン女学園の一年生だろう。
 由乃さま「も」という言葉に、ええ、と頷く。恐らく、というより、きっとチョコを渡しにきたのだと思われているに違いなかったし、それに間違いはなかった。
 
「そう言うあなたも?」
「はい、どうしても今日渡したいので」
 
 そう言って照れ笑いを浮かべる彼女は、少しドキッとしてしまうぐらい可愛らしかった。恋の力は偉大だ、なんて考えながら、自分もこんな風に笑えているのかな、なんて考える。
 
「付き合いだして長いの?」
「えっと、ちょうど一年です」
 
 恥ずかしそうに紡がれたその言葉の意味は、とてもロマンチックなものだった。つまり、ちょうど一年前、チョコを渡して、見事上手く行っているわけだ。
 由乃は「そう」と相槌を打ったきり、次の言葉を見つけあぐねていた。立場が同じだから、色々訊きたいことはあったけど、不躾に質問を並べるのもアレだし、まず何から訊きたいかという順位付けが難しい。
 
「由乃さまは、どのぐらいでしたっけ?」
「私? 私は、もう少しで二ヶ月かな」
 
 こちらから何かを訊く前に、そう切り出されてしまう。彼、部活で遅くなると思うんです、と告げた彼女は、それまでの話し相手をして欲しいとでも言わんばかりに、由乃の隣に並んだ。
 身の上話を交えながら由乃に質問を重ねる彼女は、きっとこう言う話をしたかったんだろうな、と思う。リリアンはそういう色恋沙汰には疎い方だから、話したくても、そういう話をする機会がなかったのかも知れない。
 由乃もその話がなんだか心地よくて、彼女が彼のことが大好きだということがよく分かって、いつしか話しに没頭してしまっていた。由乃も自分のこと、結構話した気がする。
 
「幸せそうですね」
 
 雪が止み、彼女はそう言って微笑した。
 そこで由乃は改めて自分の状況を見て、「きっとそうなのよ」と呟いた。
 
 

 
 
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