■ Sweet Valentine -最終話-
 
 
 
 
「あ……」
 
 話しこんで、一時間以上は経っただろうか。そう言えばこの子の名前すらまだ訊いていなかったな、と思い至ったその時、少女は声を上げ目を輝かせた。
 視線を追えば、疎らになった下校する生徒たちの中、驚いた表情でまっすぐこちらに向かってくる人がいる。恐らくこの子の彼氏なんだろうなと思った時、隣の少女は彼に向かって小走りで駆け出した。
 
「待ってた」
 
 彼が口を開くより早く、彼女はそう言った。まさかずっと待っていたのか? うん。――と言ったこっ恥ずかしいやりとりの後、少女の鞄から顔を覗かせる箱。それを認めた彼の表情は、今にでも彼女を抱き締めかねないほど喜びと感動に満ちているように見えた。
 
(今からあれをやらなきゃいけないのかなぁ)
 
 いざ現物を見せつけられると、この展開はかなり恥ずかしい。願わくば、他に人がいなくなってくれますように。
 由乃がそんなウァレンティーヌスに向けた祈りを捧げていると、件の彼女は「それでは失礼します」と一礼した。それで由乃が上級生だと認識したのか、彼の方も「どうも」と言って軽く頭を下げ、二人は肩を寄り添わせて歩いて行った。
 さて、いよいよ一人になった。由乃の他にも待ち伏せ中の女生徒は何人かいるけど、急に隣がいなくなった寂しさと寒さは拭い切れない。
 
「もう、遅いよぉ」
 
 甘ったるい声がして振り向けば、先ほどと同じような光景が繰り広げられている。それが繰り返される度、人影はどんどん減っていく。
 時間が経つにつれ、由乃は不安になってきた。今の今まで考えなかったわけではないけど、ひょっとしたらもう祐麒は帰ってしまったんじゃないだろうか。三年生を送る会が近い昨今では考えにくいけど、絶対にないとは言い切れない。
 
(もうチョコ食べちゃおうかな)
 
 祐麒に渡す物ではなく、菜々から貰ったものを。ありえないことだけど渡し間違えたら嫌だし、何よりどんなチョコなのか気になる。ちょうど手持ち無沙汰だし、そう考えると好奇心がめきめきと育ち出す。
 鞄を開けて菜々から貰った、おそらくチョコが入っていると思しき箱を取り出した。今更気付いたけど、菜々のことだからチョコであるとも言い切れない。菜々らしい何か、かも知れないし、そもそもチョコを贈るなんて習慣は後付けなのだから、何が来てもおかしくはない。
 恐る恐る、といった風に包装を取ると、しかし予想に反して普通のチョコレートの箱だった。既製品だったけれど、貰えるだけで嬉しいから文句などつけられるはずもない。
 一体、どんなチョコだろう。そう考えると心臓は元気になって、指が震えているのは寒さだけじゃないように思えた。
 箱が破れないように慎重に開けると、中身を滑らせ、その本体を確認する。
 
『感謝』
 
 そしてそのチョコには、確かにそんな文字が書かれていた。
 
「くっ……」
 
 思わず吹き出しそうになって、由乃は堪えたけど少し漏れてしまった。まったく、菜々らしい。やってくれるじゃないか。
 食べようかと思って箱を開けたけど、よくよく考えて見れば、今の状況でチョコを食べるのは少しおかしい。チョコはどんな物か確認するだけにして、由乃は再び箱を鞄に仕舞った。
 
(遅いなぁ)
 
 いつしかまた、粉雪が舞い始めていた。
 それでも「もう帰ったんじゃないか」なんて考えは払拭して、由乃はまた傘を傾ける。
 
 

 
 
 ――祐麒の行きたいところ。
 由乃にそう指定され、祐麒がまず考えたのは、都内からでもいけるレジャーセンターだった。体感、というのが大きなウリで、以前までは由乃の身体に気を使って選ばなかった選択肢だったけど、今なら恐らく大丈夫だろう。そう考えると居ても立ってもいられなくなって、せめて行き方だけでも調べておこうと思い立ち、放課になると同時に教室を飛び出したのだ。
 そして、祐麒が学校に忘れ物をしたと気付いたのは、出先から帰る電車の中でのことだった。
 
(まずい)
 
 今日の授業から推測するに、明日の数学の授業では、最も難しい問題を解かされそうなのだ。分かっていて醜態を晒すような事態は、なんとしても避けたい。
 さっさと家に帰りたかったけど仕方ない。M駅につくと、いつも学校へ行くときに乗るバスに乗り、今日二度目となる登校の道を辿ることにした。
 
「……はぁ」
 
 下校時よりも少しだけ閑散としたバスの中、祐麒は思わず溜息をついた。世はバレンタインデーで騒いでいるというのに、何をやっているんだろうか。
 バスから降りると、待ち受けるように吹き付けてきた風が首筋を冷やした。そして身震いを一つして歩き出すと、その光景はすぐに目に入った。
 
「え……?」
 
 雪が酷くゆっくりと舞っていた。夜闇に包まれた世界で、街灯だけがそれらを映し出していた。
 その雪が、街灯の光の筋を象るようにして強調している。そんなスポットライトのような灯りの下、まるでドラマのワンシーンのように、由乃は俯いていた。
 
「由乃!」
 
 白い地面を蹴って、駆け出した。祐麒の姿を認めた由乃は、一瞬だけ泣きそうな顔をして、そして次の瞬間に現れた感情は怒りにように見えた。
 
 

 
 
「由乃!」
 
 あまりにも鮮明な声に、眠気でボケっとしていた頭が覚醒した。そういや今日はあんまり寝てなかったもんなぁ、なんて考えながら声の元を探すと、すぐ祐麒の姿が見えた。
 自分でも不思議なぐらいの安堵に、不意に涙腺が緩むのを感じて、必死にそれを堪えた。その感情を押さえつけて次に表れたのは、明らかに怒気を含んだ声だった。
 
「……どこ行ってたのよ」
「どこ行ってたって……。それより由乃はどうしてここにいるの?」
 
 恐らく思わず口をついて出てきたであろう言葉に、「この鈍感!」と叫びそうになった。そんなの、今日という日の意味を考えればすぐ辿りつけるだろう。
 抑えろ――と身体に命令しても、どうにも追いつかない。谷中さんの息子さんと令ちゃんのツーショットを見た時のように、感情が先走っているのを、嫌というほど自覚できる。
 
「どうしてって、祐麒を待ってたからに決まってるでしょ!? あーもうっ、こんな鈍感のために何時間も待ってたなんてバカみたい」
「こんな鈍感、って……」
 
 あ、言っちゃった、と思ってももう遅い。祐麒は鈍感呼ばわりされたことで、少なからずショックを受けていた。
 でも、今更フォローなんかできやしないし、しようとも思えなかった。もう言葉を選んでいる余裕なんてないのだ。
 
「大体どこ行ってたのよ。戻ってくる意味も分からないっ」
「由乃、落ち着いて」
「できるならそうしてるわよ!」
 
 もう、なんだか、チョコの箱を投げつけたい気分だった。それをしないのはきっと成長の証だと思うことにして、なおも自制を試みる。きっともうブレーキ本体は壊れているだろうから、ハンドブレーキでもかけないと。
 我慢、我慢――一番苦手なことだ。でも何故こんなに感情を抑えようとしているのか、不意に冷静な自分が問いかけてくる。それはきっと祐麒に嫌われたくないからだなんて、すぐに辿り着ける答えだった。
 
「正直に言うと、下見に行ってた」
「……下見?」
「次の日曜日行く所は俺が決めるって話だったでしょ? だから、行き方とか調べてた」
 
 それを聞いて、すっと溜飲が下がった。なんで怒っていたんだっけと思えるぐらい、感じていた怒りはなりを静める。
 次に押し寄せてくるのは、後悔だ。由乃の為にそこまでしてくれたのに、理不尽に怒ってしまっていては、もう立つ瀬なんてありもしない。
 
「……ごめん」
「え……? なんで由乃が謝るの?」
「だって私、祐麒がそこまでしてくれているなんて知らずに、勝手に待っていたくせに怒っちゃって……」
 
 瞬く間に自分の勢いが萎んでいくのを感じた。らしくないな、なんて思いながらも、ここで謝ることができなければ本当に手の付け用がないなと考えると、素直に自分の行動が受け入れられた。
 
「俺の方こそごめん。てっきりチョコは日曜日までお預けかと思ってて」
「そんなわけないでしょ」
 
 そこでやっと、由乃は笑うことができた。そして鞄を開け、もったいぶるようにしてチョコの箱を取り出す。それを視認した祐麒は、「はは」と照れ笑いを浮かべた。
 
「はい、お待ちかねの手作りチョコ」
「うん、ありがとう」
 
 祐麒は由乃から箱を受け取ると嬉しそうにそれを眺め、「本当に嬉しいよ」と付け足した。
 
「ねえ、食べてみて」
「え、ここで?」
「いいじゃない。誰もいないし、祐麒の反応が見たいの」
 
 分かったよ、と祐麒は返し、周囲を見渡した。由乃がさっき確認した通り、辺りに人影はない。
 
「何かドキドキするなぁ」
 
 そう言いながら箱を開ける祐麒を見て、自分も菜々から貰ったチョコの箱を開ける時はあんな感じだったのかな、なんて考えた。
 あんな嬉しそうな顔していたのかな、って。
 
 

 
 
 クリーム色の箱から顔を出したのは、オーソドックスなミルクチョコレートのようだった。恥ずかしくなるぐらい、ハート型だ。
 由乃の方をうかがい見れば、「どう?」と顔で訊いてくる。どうも何も、チョコレートの見た目は予想以上に出来がいい。
 美味しそうだ、と一言告げ、パキリと端を折った。ハートを砕く、という行為事態はどこか不吉だったけれど、すでにハートを射止められている自分には些細なことだった。
 
「……甘い」
 
 チョコは舌の上で溶け始めると、これでもかと甘味を伝えてくる。市販の物より、ずっと甘い。
 
「美味しくない……?」
「いや、美味しいよ。すっごく」
「でも美味しいより先に『甘い』って言った」
「そりゃ……本当に甘かったから」
 
 由乃も食べれば分かるよ、とチョコの欠片をその可愛い唇の間に滑りこませた。もごもごと口を動かしながら、確かに頷く。
 
「味見した時はそれほどでも……っくしゅ!」
「由乃、風邪?」
 
 こんな寒空の下待っていたのだから、無理もない。思わず由乃の肩に手を置くと、不意に瞳を覗きこまれる。
 
「そう言えば、祐麒の方の風邪は治った?」
「いや、まだだけど」
「それなら問題ないわよね」
 
 由乃は悪戯っぽく笑うと、そうすることが極自然なことのように、祐麒の唇を塞いだ。ほのかに、チョコの香りがする。
 こんなところで、と軽く諌めると、だって風邪を理由にキスしてくれなかったから、と笑った。祐麒の肩にかけられた手が、何かを求めるように動く。
 
「……由乃、これ以上身体を冷やすといけないから」
「分かってる。でももう一回」
 
 祐麒だって、その意味が分からないほど鈍感ではない。一方的では嫌だから、こちらからもするべきだと言っているのだ。
 
「ねえ、早く」
「……分かったよ」
 
 周囲に人影がないのを確認して、そっと唇を落とした。唇を味わうように、もう一つの唇が蠢く。何を以って充分とするか分からなかったけど、もう満足しただろうというぐらいの時間唇を合わせ、やがて解いた。
 
「……送っていくよ」
「うん」
 
 由乃の家までの帰路は白く染め上がり、繋いだ手は驚くぐらい冷たい。それにすまないと思いながらも、握り返してくれる手の力が嬉しかった。
 
 
 
 祐麒が帰宅した後、改めてチョコの箱を開けて気付いたことがある。箱の中敷きの下に、まるで隠すようにしてカードが入れてあったのだ。
 
『For precious you』
 
 ――大切な貴方へ。
 黄色の台紙で踊るその言葉と、その意味をかみ締めると、ひたすらに幸せの味がする。
 はぁ、と息を吐いて、ベッドに寝転がった。そしてまたチョコを一欠けら口に放り込むと、やはりそれはどこまで甘く蕩け、まるで二人一緒にいる時のような充足感に満たされる。
 食べてもなくならないような、そんな魔法のようなチョコがあればいいのに。最後の一欠けらを口に放り込みながら、祐麒は半ば本気でそう思っていた。
 
 

 
 
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