■ Sweet Valentine -第ニ話-
 
 
 
 
「あーあ……」
 

 自室に入るなりベッドに倒れ込んで感じるのは、疲労よりも自己嫌悪だった。まったくどうして、っていつも思う。
 この苛立ちが祐麒に依存しているからだなんてこと、とっくに理解している。祐麒は優しくて、でもその優しさに頼りきりになっている自分が嫌で、そして今日みたいに当たってしまう。わがまま過ぎると言うか、その辺り彼女としてどうなのよって、自分で自分に言い聞かせながらも耳が痛い。
 祐麒が鈍感というのは、まあ仕方のないことだと思う。何せ祐巳さんの弟なんだから、……というのは、少し失礼な物言いか。
 とにかく、今日の祐麒に悪いところなんて一つもなかった。凄くよくしてくれる、彼氏の見本のような態度と姿勢だった。それに苛立ってしまったのは、自分に感じた不甲斐なさを方向転換させてしまっているだけなのだ。
 
「あー、もうっ」
 
 ベッドを手のひらでパンと叩いて、由乃は立ち上がった。このままウジウジ悩んでいても仕方ない。
 気分転換にテレビでも見ようと、部屋の扉を開けた。少し急な階段を降りると、リビングからは人の気配がした。お父さんは日曜日だと言うのに旧知と飲みにいくと言っていたから、お母さんだろう。
 由乃はそう考えて扉を開けたわけだけど、リビングにいたのは全く別の人物だった。
 
「あれ、令ちゃん?」
「あ、由乃。やっと降りてきたね」
 
 令ちゃんはそこいるのがさも当然のように、ソファに腰かけてテレビを見ていた。お母さんの姿はない。
 令ちゃんとの付き合いは長いけど、この状況の意味が分からなかった。うちに来ているんなら、由乃の部屋に来ればいいのに、なんで留守番しているみたいにこんなところにいるのだろう。
 
「……お母さんは?」
「私と入れ違いに、ウチに行ったよ」
「で、何で令ちゃんはこんなところでテレビを見ているの? こっちに来たんなら、私の部屋にくればいいのに」
「いや、ね。デートの後だから、色々一人で思うこともあるだろうと思って、降りてくるのを待ってたのよ」
 
 ふーん、と言いながら、由乃は令ちゃんの隣に腰掛けた。腰をソファに沈ませながら、中々の紳士っぷりだと考える。確かに、ベッドの上でもんどり打っている姿は見られたくない。
 会話はそこで途切れてしまったから、由乃は気になって令ちゃんを見た。令ちゃんは、黙ってテレビを見ていて、画面の端には『バレンタイン間近』と表示されている。
 
「由乃は」
 
 レポーターが道行く人に声をかけ、「あなたは」と言うと同時に令ちゃんが口を開いた。
 
「祐麒くんにチョコあげるの?」
 
 レポーターは「チョコを上げる人はいますか?」と訊いたので、「います」と言うと同時に「もちろん」と言った。
 
「ふーん。手作りで?」
 
 テレビの中の人は「市販のもので」と答え、由乃は「まあね」と言う。
 
「へぇ、どんなのにするつもり?」
 
 テレビは「ラブラブになりたい人には飛びっきり甘い物を、職場の上司にはビターな物を贈ります。甘さに、その人とどんな関係になるか託すんです」と話した。由乃は、――言葉に詰まった。
 
「……うーん、それが一番難しいのよ。作り方が難しいチョコなんて出来ないし」
「あらま、由乃は隣に住んでいる従姉妹の趣味を忘れちゃったの?」
「……あのねぇ」
 
 由乃はそこまで言って、その先の言葉を飲み込んだ。
 令ちゃんが言いたいことは、それは詰まり「私が教えるわよ」ってこと。だけどそうすることは、令ちゃんにとって凄く痛いことだ。令ちゃんがそうなることは、自分で予想できてないはずがない。それなのにそう言ってしまう令ちゃんは、――やっぱり由乃に対して優しすぎて、そして大バカなんだと思う。
 
「何? 急に黙り込んじゃって」
「いいんだ、一人で作る。令ちゃんの分もね。それに令ちゃんに手伝って貰うと、結局それって私の味じゃなくなるでしょ?」
「あら、それはいい心がけ。何か嬉しいなぁ」
 
 それはチョコを貰えると分かったからの喜びなのか、チョコ作りに対する姿勢に対する喜びなのか、よく分からなかった。
 さーて、と言って令ちゃんは立ち上がって扉に向かうと、途中で「あ」と言って振り返る。
 
「由乃、今日のデートは楽しかった?」
「そりゃ、もちろん」
「本当に? 帰ってきた時、由乃の大声が聞こえたから、私はてっきり喧嘩でもしたのかと思った」
「……そんなわけないでしょ」
 
 ならよかった、と令ちゃんはリビングを後にした。由乃が一方的に怒っていただけだから、嘘は言っていない。
 もう一度テレビを見ると、天気予報のお姉さんがバレンタインデーは雪になりそうだと話していた。そこで由乃は、バレンタインデーまで後数日なんだなぁ、と改めて思い、また頭を抱えるのだった。
 
 

 
 
 白く吐いた息が、風に霧散する月曜日の朝。
 冷たく研ぎ澄まされた空気には静寂が似合うというのに、花寺にそんな趣は一つもない。今日も校舎へと向かう往路である源氏の道には、「ぶははは」と大きな笑い声が、何の遠慮もなく響き渡っている。
 花寺学院高校の校舎への道は、二通りあった。体育会系のひしめく険しい山道が源氏の道で、文科系の人間が通るのが長くて平坦な平氏の道。祐麒は生徒会長として平等を規すため、行きは源氏、帰りは平氏を通っていた。
 そんな短い山道も束の間。夏ならばこの少しの間に汗をかかなくてはいけないところだけど、冬場にはいい運動だった。
 
「よう、幸せ者」
 
 教室に入り、席に着いた祐麒の肩に置かれた手は、声とその重さから小林だとうかがい知れた。また祐麒を冷やかしに来たらしいことは、声の調子から察した。
 
「なんだよ、急に」
「いやぁ、うん。もうすぐバレンタインデーだねぇ」
 
 小林のその言葉に、声の聞こえる範囲にいたクラスメートたちの動きが鈍る。無為に会話を続けようとはしているが、聞き耳を立てていることは明らかだった。
 普段なら、バレンタインデーなんて単語が出ても、誰も反応しない。貰える相手がいるやつは余裕綽々の表情を見せ、逆の人間は「何それ、美味いの?」と言うだけだ。
 しかし、小林だって分かっているだろうに。リリアンの新聞部が祐麒と由乃の交際についてのインタビューを載せて以来、好奇の視線が注がれているってこと、火を見るよりも明らかだ。当然そこには、「生徒会の繋がりでリリアンのお嬢さまを彼女にしやがって」という嫉妬と羨望が混じっているのも、また明らかなこと。それを誰よりも分かっているだろう小林が、わざわざ教室でこんなことを話題にする意味が、いまいち理解できなかった。
 
「小林、そういう話は生徒会室でしよう」
「そうしたいところだけど、今日は野暮用があってね」
 
 その言葉に、祐麒は軽く小林を睨みつけた。分かれよ、と視線で強く言う。
 しかし小林はその視線をさらっと無視して、祐麒の耳に口を近づけて言った。
 
「あのなあ、この中で一番悔しいのは誰だと思う?」
「この中で……?」
 
 小林の言う「この中」というのは、聞き耳を立てている連中のことであろうか。それすらもはっきりしなかったので、祐麒が「さあ」と返すと、小林はやはり他には聞こえない声で言った。
 
「それはな、この俺に決まってんだろうが。同じ生徒会役員で、割りと目だってたと思うのに、どうしてこうも違うのかなって、思ってしまうわけよ。分かるか、この気持ち」
「いや……。その、なんだ、すまん」
「謝るな、余計虚しくなる」
 
 よよよ、とわざとらしい嘘泣きで、小林は祐麒から身を離した。
 
「さて、本当のところどうなのかな、ユキチくんよ」
 
 どうやら小林は、引くつもりはさらさらないらしい。さあさあ、と、強引なぐらい突っ込んでくる。
 
「……貰えるか分かんねぇ」
「何……?」
 
 観念してそう言うと、小林は訝しげな表情を作った。
 
「なんだよ、貰えるか分からないって」
「なんて言うかな、この前ちょっと怒らせたから。俺が優柔不断なのが悪いんだよなぁ」
 
 正直にそう言うと、話を聞いていた周りのクラスメートの一人が「ひゅぅ」と口笛を吹いた。
 祐麒がそれをキッと睨みつけると、「でさぁ」とまた元の会話に戻っていく。小林は、……というと、本気で心配そうな顔で、祐麒の目を覗きこんでいた。
 
「お前さぁ、それ本当に大丈夫なのかよ」
「いや、でも怒らせちゃっただけで、喧嘩とかじゃないんだよ。そこまで心配されるような状況じゃないって」
 
 そう、これは別に喧嘩をしたわけじゃない。それに次の日曜日にも会う約束をしているんだし、いくらでも取り返しはつくはずである。
 でも、その日曜日が問題だ。
 由乃の言った通り、祐麒がただ行きたいところに行くのは簡単だと思う。けど今年のバレンタインデーは都合よく日曜日になっているはずもなく、今週の半ばにあるのだ。折角チョコを作ってくれるという約束があるのに、日曜日までお預けなのはちょっと痛い。
 だけど、まあ――と、周りを見回して思う。自分はなんて、贅沢なことで悩んでいるのだろうって。貰えるかどうか分からない、とは言ったけど、流石に怒ったからチョコは上げないなんてことにはならないはずだ。
 
「なんて言うか……ユキチも大変なんだな」
「傍目からみたら、そうなるのか。……でも、もしいなくなったらって思うと、そっちの方が辛いし」
「なあ、ユキチよ」
「何だ?」
「殴っていいか?」
 
 そこで不意に気付く。先ほどの祐麒の発言は、遠まわしな惚気ではなかったか。
 
「いや、でもさ、お前にもそうやって思える日がくるって」
「……そうだといいけどな」
 
 祐麒の慰めが心に響いたのか、それとも虚しくなかったのか。小林は固めた拳を解くと、「まあ頑張れよ」と肩を叩いてその場を離れた。
 急に一人になった瞬間にチャイムはなって、否応なしに時の流れを感じさせられる。まるで時間が「早く行動を起こせ」と急かすようで、祐麒はまた額に手を当てた。
 
 

 
 
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