■ Sweet Valentine -第一話- 山百合会幹部の選挙や、新聞部の騒動が治まった二月の中旬。 寒さのピークを通りこしたかというこの時期、時折振る雪の間に見えるのは、クリスマス・イヴに次ぐ決戦の日。それはデパートの一角や、コンビニの陳列棚で存在を主張しては、早く決しろと迫ってくる。 ――そう、バレンタイン。 由乃にとって、世の女性にとってとても重要なその日は、着実に迫ってきているのだ。 きっかけは、由乃が「喉渇いた」と言ったことだった。天気のいい日だったから、「カフェには入らないで、どこかで飲み物を買って公園で飲もう」と祐麒が言った。その時ちょうど近くにあったのがジュースの自動販売機ではなく、スーパーだったのが始まりだ。 紅茶のペットボトルを探している時、ふと視界に入ったそれはホームメイド用のチョコレート。特設コーナーに置かれたそのブロック状のチョコレートは、がっちりと由乃の視線を惹きつけてしまった。 「由乃?」 そこで固まってしまったのを怪訝に思ったのだろう、祐麒が顔を覗きこんで訊いてくる。何でもない、と言い払うには、ちょっと長い時間見詰めすぎた。 「えーと、まあ。……もうすぐバレンタインなんだなぁ、って」 由乃がそう言うと、祐麒は「うん」と頷いた。そりゃそうだ、って感じである。 祐麒としては、きっと反応に困っているのだろう。心情を汲み取るなら、「手作りチョコを期待してもいいのかな?」ってところだろうか。 由乃としては、そう期待されることは一向に構わない。もとから手作りでいこうと思っていたわけであるし。……ただ、お味や出来の方は、と言われると厳しいのだけど。 「祐麒はどんなチョコがいい?」 少しの沈黙が気まずくなって、由乃は顔を見上げて問いかけた。するとふと、祐麒の顔が明るくなる。 「あ、くれるんだ。よかった」 「当たり前でしょ?」 何すっとぼけたこと言ってるのよ、と由乃は繋いだ手に力を込めた。祐麒はそれに少し笑った後、「そうだよね」と言って空いていた手で繋いだ手を包み込んだ。 しかしすぐに重そうなカゴを持った小母さんが通りがかって、無為にその手は解かれる。街中で手を繋いでいるのは平気だけど、スーパーの中では流石に恥ずかしかった。 「ねえ、どんなのがいい?」 中途半端な沈黙をかき消したくて、由乃は思い切って訊いてみた。問われた方の祐麒は言えば、うーんと首を捻る。 「そういうのって、俺が指定するようなものじゃないよね」 「そりゃ、そうなんだけど」 参考に訊いてみただけよ、と由乃はその話題を打ち切った。喉渇いたー、と、今度は祐麒の腕を取って歩き出す。 「あれ? 材料買わなくていいの?」 「うん、後でゆっくり考えてから買いに行く。……っていうか、祐麒の前で買ったら、チョコの種類がバレちゃうじゃないの」 そう、チョコだって色々あるのだ。ブラック、ホワイト、ミルク、ストロベリー……材料でどんな物ができるか予想されてしまっては、結局祐麒に好みを訊いたことと同じ状態になってしまう。 そのままペットボトルの陳列棚に向かうと、由乃は紅茶のペットボトルを手に取った。祐麒はカフェオレのペットボトルを取って、会計は二人一緒にした。 スーパーの外に出て、キャップを回しながら辺りを見ると、入った時とはがらりと景色の色が違っていた。薄く積もった雪に夕日の朱が栄えて、否応なしに一日の終りを感じさせる。 歩きながら飲むのもアレだから、近くの公園へと入った。園内では三人の子供たちが、雪を踏んづけてははしゃいでいる。 「ここでいいかな」 雪の積もっていない、すなわち人の座った形跡のあるベンチを見つけると、「うん」と返事をしてそこに座った。お尻に伝わってくるヒンヤリとした感覚が、やっぱり冬なんだなぁという感慨を呼び起こす。 暫く何気ない会話を続けていると、足元に雪玉の欠片が滑ってきた。いつの間にか子供たちが、雪合戦を始めていた。 「結構積もったよね」 由乃が呟くと祐麒は「うん」と頷いて、ベンチの端に残った雪を払った。 暖冬だ暖冬だ、なんて言っても、毎年この時期になると雪は降る。由乃は今公園の中ではしゃいでいるような子供たちと一緒ぐらいの歳の時、はしゃいで走り回りたくても出来なかったから、この歳になってでも雪が降ると嬉しいのだ。 だから今朝祐麒と会った時も、「雪合戦がしたい」とねだった。最初は快諾してくれたけど、十分もしないうちに由乃の髪の先が濡れ始めると、祐麒は「風邪ひいちゃうから」と言って早々に打ち切ってしまった。念願の雪合戦の試合時間、およそ七分と半。由乃としては、満足したとは言えない時間だ。 さて、その子供たちは一体何分ぐらい雪合戦をしていただろう。気が付くと三人の子供たちは「じゃあねー」と手を振り、それぞれ別の方面へと帰って行く。 さっきまで眩しいぐらいだった夕日の朱は、もう藍青色。いよいよ公園には、二人の影しか残っていない。 「ねぇ」 由乃はそう言って、祐麒のそでを引っ張った。寄りかかっていた肩から少しだけ身を引いて、祐麒の顔を見上げた。 由乃が何を言いたいのか分かったのか、祐麒はそっと肩に手を置いて――そのまま固まった。 「……祐麒?」 「ごめん、俺風邪気味なんだった」 「えー、もう。何よそれ」 絶妙のタイミングで出したキスの合図は、思いっきり空振り。さっき由乃の目を覗きこんだ瞳の熱さは、一体どこに行ったのよ、って話だ。 由乃は怒った風に、わざと音を立てて立ち上がった。それに続いて祐麒が「ごめんってば」と言いながら立ち上がる。――しかし、風邪ぐらいで引く由乃ではない。 「よし……」 立ち上がった祐麒の首に、腕を回してしがみつく。少しだけ背伸びをして、祐麒の顔が振り向くより早く、その頬に唇を一つ落とした。 「祐麒の頬、冷たい」 「なっ……由乃」 「何よ、ほっぺたなら風邪うつらないでしょ」 「そうじゃなくて、さ」 「あ、火照ってきてる。ねえ、今なら温かいかな?」 照れる祐麒を見て、由乃はクスクスと笑った。恥ずかしがらせて、これで少しは腹のむしが治まった。 「よし、帰ろ」 もうとっくに、公園の街灯には灯りが点されている。由乃が手を取ると、握ったその手は温かい。さっきまで手の内で転がしてした、紅茶とカフェオレの温かさだった。 路地を少し歩くと、すぐに大通りに出る。バス停を認めるとちょうどバスが停車しようとしているところで、小走りでそれに乗り込んだ。 由乃の家の最寄のバス停まで、三つ。学校で風邪引いている人が多くって、なんて話していると、十分なんてあっという間に過ぎてしまう。降車ボタンを押しておよそ一分後に、多少荒々しく停まったバスから降りると、外気は一層冷え込んでいるように感じた。 「ねえ、次の休みはどうする?」 「もちろん空けてあるけど。……あ、由乃は土曜日空いてる?」 「あー、ごめん。多分忙しい」 「そっか、もうすぐ卒業式だしね」 俺も三年生送る会のことを考えなきゃな、なんて言いながら、祐麒は頭をかいた。来週の予定を確かめあうのは、デートの帰り道の習慣だった。 「じゃあ日曜日ね。ねえ、今度はどこに行く?」 「うーん、由乃はどこか行きたいところあるかな?」 「私はね、この前新しくできた……って、違うでしょ。私が訊いてるの。祐麒はどこに行きたいかって」 危うく、また自分の行きたいところばかりに行くことになってしまうところだった。ここ最近は、由乃の意見ばかり聞いてもらっている。 それって、どうだかなぁ、と思った。優しいから、由乃を優先してくれる気持ちは分かるけど、それは平等じゃない気がする。 だから由乃は、次こそは祐麒の行きたいところに行こうと決めていた。 「俺の行きたいところかぁ」 すぐには出てこないな、なんて言いながら、祐麒はうんうんと唸る。二十秒も考え込んだら、もうそこは由乃の家の三十メートル手前だった。 「何、祐麒って結構優柔不断?」 「そんなわけじゃないけどさ。……うーん、やっぱり俺としては由乃の行きたいところに行きたいな、なんて」 だから、それじゃダメなんだって言うの。 どうしてそれが分からないかなぁ、って、軽く笑った祐麒に少しムッとしたた。勿論これは、祐麒の優しさに依存した、身勝手な苛立ちなのだけど。 「何よ、私と一緒ならどこだっていいって言うの? そんな適当に考えてたの?」 「いや、適当なんかじゃない。でも由乃と一緒ならどこだっていいっていうのは、本当だよ」 「なっ……」 そうだった、と由乃は思った。祐麒は、割りと恥ずかしいことを、平然と言ったりするんだった。 ほのかな頬の熱さを感じて、由乃は目をそむけた。祐麒はわけが分からない言った風で顔を覗きこんでくるから、由乃は更に顔を背けて、結果として前を向かずに歩くことになる。 「由乃、危ない」 「えっ?」 ぐいと抱き寄せられたかと思うと、バランスを崩して祐麒の方へよりかかってしまった。言われて見てみれば、由乃が歩く先には電信柱があった。 まったく、何をやっているんだろう。さっきの祐麒のセリフと、今この状況と、ダブルで恥ずかしい。 「さっきから何でそんなに赤いの? あ、もしかして、さっきキスしなかったこと怒ってる?」 「違うわよ! ……もう、バッカじゃないの」 よりかかっていた祐麒から身体を離すと、一歩前に出て歩き出した。それに追いつこうと祐麒が早足になって、追いつかれまいと速度を上げていると、すぐに家についてしまう。次はどこに行くか決めていなかったけど、由乃は構わず敷地に足を踏み入れ、振り返って言った。 「とにかく、次の日曜日に行くところは、祐麒が決めてよね」 「うん、……分かった。ちゃんと由乃が喜びそうなところに――」 「もう、そうじゃないでしょ。祐麒の行きたいところでいいの!」 それじゃあね、と背を向けながら言って、勢いよく玄関の扉開け、閉めるときもまた然り。そのままの勢いで靴を脱いで、……だけど少し気になって、靴をつっかける。 横開きの扉を少し開けて外を見ると、そこにはあるのはいつもと変わらない佇まいの門。その向こうで、軽く額を押さえながら歩き出す祐麒の姿が見えた。 「……鈍感」 もう見えなくなった背中に、由乃は呟いた。 由乃だって祐麒と一緒ならどこでもいいってこと、どうして分からないのよ、って。
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