■ 綺羅星の下のGuiltyRose -中編-
 
 
 
 
 誰かの妹になるのは、思っていたよりも簡単に受け入れられ、息苦しくもない。どうして妹になんて、という後悔もなく、薔薇の館の席に座っていて違和感がないのが、不思議で仕方なかった。
 それでも居心地が悪いとは思えなかったのは、自分で思っていたよりも順応性があるのか、それとも受け入れられる体制が整っていたからなのか。とにかく、それが私の『お姉さま』を持った時点での感想だ。
 
「聖」
 
 そう呼び捨てにされるのに慣れてきた頃、薔薇の館はにわかに賑やかになった。紅薔薇のつぼみと黄薔薇のつぼみが、それぞれ妹を迎え入れたのだ。
 紅薔薇のつぼみの妹が蓉子で、黄薔薇のつぼみの妹が江利子。二人が山百合会幹部に名前を連ねるようになったのに、私はいたく驚いたものだ。滅多に人の名前を覚えない私にとって、こうも知っている人間ばかりが集まるというのは奇跡だと思った。
 
 蓉子は相変わらずの優等生で、とにかく薔薇さまたちからの受けがよかった。特に紅薔薇さまからは溺愛されていて、「もう今に薔薇さまと呼ばれてもおかしくないわ」とまで言われていた。
 一方江利子は、少し印象が違っていた。幼稚舎の頃の大喧嘩を引きずっているわけでも、中等部の頃のようにクラスが一緒になって顔を合わせるなり「最悪」と言うわけでもない。少なくとも以前よりは活気がなくて、たまに、自虐的ながら私に似ているとすら思ったこともある。もちろん、そんな理由で馴れ合ったりはしなかったが。
 
 お姉さまは私を束縛しないと言ったが、大事な会議がある時は私も出席させられる。しかし、それ以外は本当に自由だった。
 一応お姉さまと、そのお姉さまである白薔薇さまの顔を立てるために、仕事のある時は手伝う。立て込んだ仕事がなければ薔薇の館に行くかどうかは私の自由で、お姉さまはそれを咎めるようなことをしなかった。
 誰か他に私に文句が言ってくる人物がいるとしたら、それは蓉子だけだ。中等部に引き続き、飽きもせずに私につっかかってくる。その度に口論になったりもするが、それで私の言動が改まることはなかった。
 
 三十一回目に薔薇の館に入った時、私はお姉さまに聞いたことがある。
 
「お姉さまは」
「……何?」
「これで、いいんですか?」
 
 思えばその言葉は、私が白薔薇のつぼみの妹として放った、もっとも誠実な言葉だった。私を束縛しないと言っても、妹に持った以上責任が生じる。私はそれを看過するほど、不義理な妹であるつもりはない。
 
「ちゃんと説明なさい」
「白薔薇のつぼみの妹は、これでいいのかと訊いているんです」
「そうね……いいんじゃない? あなたの好きにしているのなら、それが一番だわ」
 
 それは温かく包みこむようでいで、どこか冷気を孕んでもいる言葉だった。
 お姉さまの瞳には、なんの揺るぎもない。この人は私のために言っているのではなく、きっと本心で言っているのだ。
 
「あなたこそ……と言いたいところだけど、これは愚問ね」
「は……?」
「あなたこそこんな姉でいいのかという質問は、意味がないということよ。私はあなたを導くことに興味がない、一般的に見れば最低の姉だわ」
 
 私を捉えていた視線は解かれ、お姉さまはわざとらしく溜息を吐いた。お姉さまが私の前で溜息をつくのは初めてだが、それが偽物であることは、何となく察した。
 せい、と呼ばれて、私はお姉さまの隣に腰掛けた。お姉さまは私の髪を梳き、横顔を眺め、「素敵」と呟き、また髪を梳いた。
 
「あなたの表情、私は好きよ」
 
 愛しげにかけられる言葉は酩酊の色。いつから彼女の言葉は、こんなにも耳に優しくなったのか。
 
「今のあなたを壊したくないの。それって、やっぱり最低なのよ」
 
 私はふと膝に落ちてきたお姉さまの指に、自分の指を絡めた。
 
「お姉さま」
「何?」
「本当に、そんな風に思っていますか?」
「いいえ、全く」
 
 お姉さまは、憎らしくなるぐらい清々しい笑顔だった。
 
「お姉さまは、最高の姉ですね」
「そう思う?」
「ええ」
 
 愉快だった。人とのやり取りを、これほどまでに心地よいと感じたことはない。
 
「おかわり、淹れますね」
「待ちなさい」
 
 私がカップを持って立ち上がると、腕を掴まれた。
 
「要らないわ。座っていなさい」
「……はい」
 
 強く、強く。
 私の腕を掴み、引き寄せたその手は、だが一瞬にして離された。
 
 

 
 
 夏の鮮やかさが衰え、秋の色彩が褪せ、冬が溶け失せる。日常が高らかな靴音を立てて過ぎ去り、そうしてまた春が巡ってきた。
 ミルキーウェイ――。そんな風に思った空の下、天空から溢れる光に包まれて、私たち――私と栞は、導かれるようにして出会った。
 運命だなんて、信じるクチではない。だけど奇跡という言葉は、この時ばかりは意外とすんなり受け入れられるように思えた。
 
「ごきげんよう」
 
 強いて言うのなら、私は彼女のどこが好きだったのだろう。
 顔か、声か、雰囲気か、それとも性格か。しかし彼女の魅力をどれか一つに帰結させることなど、あまりにも無粋なことに思えた。
 思えばあの時から、私は自分を見失いかけていたのだろう。私は出会った次の日から、自分でも驚くほど積極的になり、結果として彼女との時間を得ることに成功した。会っている時間は短く感じ、会えない時間はどこまでも長く、その瞳に自分を映せる幸せと退屈な授業に吐いた欠伸は、いつまでも相成れることなく渦巻いた。
 季節が色づく程に私たちは惹かれあい、また努力した。少しでも長くいられるように、彼女に触れていられるように。
 当然ながら薔薇の館という、公称なのか何なのか分からない建物の意味は、私にとって酷くおぼろげな物になっていた。もはや私は白薔薇のつぼみという肩書きを背負っており、お祖母ちゃんの立場は考えなくていい。だからお姉さまの言う通り、私は本当に好きな時にだけ、薔薇の館に顔を出した。勿論それは、栞に会えない間の暇つぶし程度だったが。
 
「聖」
 
 この時期、こんな風に不満げに声を出す人間は一人しかいなかった。言うまでもなく、蓉子だ。
 
「……何」
「あなた、私に何回同じことを言わせるつもり?」
 
 なら蓉子は、私に何回同じ答えを言わせるつもりなのだろう。
 彼女が決まって警告してくるのは栞のことと、それから山百合会の仕事のこと。どちらも耳にタコができそうなぐらい聞かされて、その度に私は同じような答えを返してきた。蓉子のお節介は、中等部や一年生の頃より、ずっと頻度と辛辣さを増している。
 この頃からだっただろうか。私は蓉子の小言の上手いかわし方というのが分かってきて、「考えておく」と前向きなことを言っておけば、一先ずその場は治まった。言わば「前向きに善処する」というその言葉は、ひどく政治的な意味であると蓉子は理解していたと思う。だからと言って私を追い詰めようとしない辺りは、昔に比べて私との付き合い方が上手くなったということだろう。
 
 一度お姉さまに、面と向かって訊いたことがある。お姉さまは私に何も言わないんですか――と。
 その言葉を受けたお姉さまはやはりいつもの調子で、穏やかな海のような表情で言ったのだ。
 
「言ったでしょう。私は駄目な姉なのよ」
「……はい」
「私が言うべきことは、蓉子ちゃんが言ってくれるしね。私が余計なことを言ってあなたの顔を歪めるの、考えるだけで憂鬱だわ」
 
 お姉さまは言った後、「物憂げなあなたの表情も素敵だけどね」と言った。やはりこの人は、私の顔しか見ていない。
 それでいいと思った。だからお姉さまは、私の心を縛るようなことはしないのだ。私がお姉さま以外の人を好いていたとしても何も言わないし、それを咎める理由すらない。私にとって、あまりにも良好な関係だ。
 
「聖」
 
 不意に高音域の張りが増した声が響いて、私は顔を上げた。
 
「たまには、あなたの淹れたお茶が飲みたいわ」
「……はい」
 
 私は妹としての不義理の穴埋めに、精一杯美味しく淹れようと思った。茶葉の量に気を使ったのは、きっと初めてだ。
 
「どうぞ、お姉さま」
 
 そうして出来上がった紅茶は、江利子はおろか蓉子の足元にも及ばない味だったのを覚えている。そしてそれを満足気に飲むお姉さまの表情も網膜に焼き付いていて、それを思い出すたびに私はいたく申し訳ない気持ちになるのだ。
 
 

 
 
 夏休みの間、私は多くの時間を図書館で過ごした。宿題を片付けたり、水泳の補習に出ている栞を待ったり、図書館が開いていれば必ずと言っていいほどだ。
 この頃から私は、自分の中にあるこの感情の異質さに気がついており、何度もその気持ちの解明をしようとした。いくつもの本を読んで、自分なりに噛み砕き、しかし消化できることはなく、結果としては無駄だったと言える。
 
「聖」
 
 高尚な鐘を鳴らしたような声に、私はふと顔を上げる。視線の先には、冷房の強さに腕を摩っている栞がいた。
 
「何を読んでいるの?」
「ああ、これ?」
 
 その本は、とても詰まらない本だった。お勧めとして置いてあったから手に取ってみたが、最初から最後まで一気に読めるということ以外、あまり身になる話でもなかったのだ。
 話の内容は、純然たる悲劇だ。盲人は何故、空を見て泣くのだろう――、そんな一文から始まる、一冊の本。
 全体として多くを占めるのは、失明し、新しく発案された手術を受けようとする男と、心臓の病を持ち、同じく手術を待つ女の恋愛話。姿の見えない女に惹かれていく男の心情を中心として書かれたそれは、「どこかの空」という平凡なタイトルであったことを、辛うじて覚えている。
 容姿に自信はないが、男に惹かれていく女。そしてその恋を実らせようと、女は美しい人だと謡う他の患者たち。コンプレックスとプレッシャーに押し潰されそうになりながら、やがて二人は同じ日に手術しようとする。――そして女は亡くなり、男の視力は戻ることがなかった。
 
「どんな本なの?」
 
 私が夢中になって読んでいたのが珍しかっただろう、栞は手元の本を覗き込んだ。
 
「大した本じゃないわ。普通の恋愛小説」
「……そう」
 
 私が本を閉じると疎外感を感じたのか、栞は少し悲しげな表情を見せたが、しかしこの本の内容を伝えることの方が残酷なことに思えた。
 今もなお、男が空を仰いで涙するシーンが、確かな心象風景として描かれている。それをすべて伝えることは、心優しい彼女にとってよい結果を生まないのは明らかだった。
 
「悲しい話、だったのね」
 
 顔に出ていたのか、栞はそう言って私の手をとった。運動したばかりの手は、冷房に冷え切った手に心地よい。
 ――盲人は何故、空を見て泣くのだろう。
 この一文に始まり、この一つの疑問が残された、ただの一冊の本。その悲しみは私にとってあまりにリアルで。その考えを振り払いたくて、私は強く栞の手を握り返した。
 
 

 
 
 やがて悲劇は、形は違えどやってきた。全てが、栞の全てが愛しかったけれど、届く前に消えてしまった。
 否、届いていたのだろうか。届いていたから私の前からいなくなったのか、今となっては確かめようもなかった。
 
「よかったのよ、これで」
 
 十二月二十四日。あまりにも冷徹な風と現実の中で響いたお姉さまの声は、寒さと同時にこの結末を身に染み入りらせた。
 結果として、私は天使に触れることができなかった。栞がどこかに行かないようにその翼を折ろうとしたけど、そうなる前に彼女は飛び立ち、折り損ねた翼が巻き起こした風が、この冷たさなのだと思った。
 
「でも私――」
 
 それから私はいくつ言葉を漏らしただろう。涙に濡れた声で、誰に懺悔していたのだろう。
 いくつかの言の葉にのせた後悔は、お姉さまの胸に吸い込まれた。あってよかったと思える未来にしたらいいじゃない、と、見えなくなった目の前の道すら照らしてくれた。
 
「お姉さまは」
 
 駅の改札を出た直後、私は言った。
 
「やっぱり、お姉さまなんですね」
「……ええ、そうね。きっとそうなんだわ」
 
 何気ないその言葉と、その答え。それがどれだけ、後々の私に力をくれただろう。
 後日、私は山百合会の仕事の引継ぎのために、ひたすらお姉さまに連れまわされた。そうしてくれたのが、そこにいてくれたのがお姉さまでよかったと、私は心の底から思った。
 しかし、考えてもみれば何と不出来な妹だっただろう。支えになるどころか、支えてもらっていた。私はひたすら受身で、寵愛を受けるばかりだったのだ。
 お姉さまは駄目な姉なんかではなく、私がただ駄目な妹だった。お姉さまが卒業する間際、それがあまりにも悔しくて、私はその気持ちを「ごめんなさい」という言葉で始め、不出来を詫びた。何一つ恩を返せなかった、不誠実さに対する懺悔だった。
 
「恩を返すつもりがあるのだったら、あなたの未来の妹に」
 
 しかしお姉さまは、そんな言葉で私を包み込んだ。妹なんて、と呟いたけれど、お姉さまの言葉を全て否定することはできなかった。
 
「聖、私はね」
 
 卒業式の後、お姉さまは私の身体を強く引き寄せ、その腕で抱きしめながら言った。
 
「あなたが、大好きだった」
 
 強く、強く。身動きも取れないぐらい強く抱きしめられて、呼吸は困難なほどに。
 その言葉に、その身体の温もりに不意に涙がこみ上げたけれど、私は泣かなかった。最後の最後で、またお姉さまに頼るようなこと、したくなかった。
 
「お姉さま、私も――」
 
 私も、あなたのことが。
 
「ええ――」
 
 しかし続くはずの私の言葉は、お姉さまの声によって遮られる。
 
「その先の言葉は、他の誰かに上げてちょうだい」
 
 そう言ってお姉さまは、私の前から消えていった。栞と同じように、大切な人がまた一人。
 ――盲人は何故、空を見て泣くのだろう。
 こんなにも悲しいのに、その答えは分からない。遥か遠くまで澄み渡った空を見ても、去り行く背中を見詰めていても。
 
 

 
 
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