■ 綺羅星の下のGuiltyRose -後編-
 
 
 
 
 冬が別れの季節ならば、春は出会いの季節。ありきたりな言葉だったけれど、それは疑うべくもない真実である。
 かつて私にとって、春の桜ほど時の流れを感じさせるものがあっただろうか。そして、桜ほど儚いと思った花は、他にあっただろうか。
 ミルキーウェイ――。そう呟いたいつかの空はもう一年も昔、今は今として、咲き誇る桜は去年のものとは違う。その空の下、出会う人も。
 
「あ……」
 
 会いたい気持ちと、会ってはいけないという二律背反の螺旋階段を、舞い散る桜の花弁が描いている、そんな世界の中で聞こえた声。
 その声は、一体どちらのものだったのか、私は知覚出来なかった。ただ、次の瞬間、不意に口を開いてしまったということは、私の声である可能性が高いと言える。
 
「あなたは……」
 
 そう言いかけて、飲み込んだ先の言葉は何だったのだろう。あなたは、誰? あなたは、人間? あなたは、――栞?
 
「失礼いたしました」
 
 はっきりと耳に届いた声は、今度こそ彼女の声だった。そしてそれが合図だったかのように、彼女は逃げるが如く、その場を去った。
 後々に声の主は、『藤堂志摩子』という名前であることを知った。私としては珍しく、一度でその名前を覚えた人物だった。
 
「大丈夫」
 
 決して平静ではない声と心持で、自分に言い聞かせると、私は志摩子がさっきまで立っていた場所に佇立した。吹雪のごとく舞う桜の花弁はさきほどと変わらず、時に感情的なまで降り注いでいる。
 地に足をつけたばかりのその花びらは、強く吹いた風に、今一度舞い上がる。視界を白く染め上げるそれは、まるでさっきまですぐそこにいた少女のように、あまりにも儚く見えた。
 
 

 
 
 思えば、『妹』という単語と『志摩子』という名前を天秤にかける作業は、蓉子と江利子のお節介から始まっていた。私がつい蓉子の前で、志摩子の名前を出してしまってからのことだ。
 恋のキューピッドよろしく私と志摩子を引き合わせるために、蓉子は彼女を呼びつけ、驚くほどすんなりと手伝いを引き受けさせてしまったのだ。
 当然、最初は困惑の気持ちもあった。ただはっきりと、「妹なんて」という考えだけはあって、『妹』という言葉を遠ざけるようにしていた。しかし欠員補填という名目と、その欠員の原因を考えると、妹について考えざるを得ない状況であったのも、また確かである。
 
「白薔薇さま」
 
 そんな呼び名にも慣れてきた、夏の日だった。カンカン照りの太陽の下、涼を求めてふらりと薔薇の館に立ち寄ると、中には既に志摩子がいた。
 
「麦茶、いかがですか」
 
 そう言いながらも、お盆にはもう二つのグラスが載っていた。訊いてから注げばいいのに、と思ったが、ふとそこで志摩子の髪が濡れているのに気が付いた。おそらく、直前の授業が水泳だったのだろう。もし要らないと言われても、一人で飲み干せばいいと思ったのかもしれない。
 
「いただくわ」
 
 志摩子が私のすぐ側まで来ると、無為にプールの匂いがした。普段から嗅いでいるというのに、何故だか郷愁の念を駆り立てられる。
 ――ああ。
 麦茶を一気に半分ぐらい飲み干してから、私は心中で頷いた。一年経ったのだと、改めて実感する。
 音を立てずにグラスを置くと、右手に巻かれたロザリオが微かな音を立てた。気付けば志摩子がロザリオを見ていて、そしてすぐにそれから視線をそらした。
 
「……何」
 
 吐き出した言葉は、思っていたよりも冷たかった。私は時々、志摩子につらくあたる節がある。
 
「え?」
 
 しかし志摩子は私の問いの意味を汲みかけているらしく、少し目を見開いて「何のことですか」と続けた。
 
「さっき、ロザリオ見詰めてた」
「あ、……はい」
 
 否定はしないということは、やっぱりロザリオに気を取られていたらしい。
 私はロザリオを腕から外すと、戯れにその輪を広げた。私がお姉さまの妹になった、あの日のように。
 ――これは、悪い冗談だ。
 
「志摩子は、ロザリオが欲しい?」
 
 そこ質問に、志摩子は硬直した。汗をかいたままの空っぽのグラスから、手を離しもしない。
 この沈黙は、次の言葉を捜すためにあるのだろう。だとしたら何だか意地悪をしているようだと思い、私は広げた輪を元の右手に戻した。
 
「……あげないわ」
「え……?」
 
 それは無礼極まりない言葉だっただろう。いきなり試すようなことを訊いて、いきなり「妹には相応しくない」という意味の言葉を吐いて。
 だけど、栞ですら私の妹になんて考えられなかったのだ。他に誰が、私の妹になれるというのか。
 
「そうですか」
 
 志摩子は何気ない風を装って、グラスを片付け始めた。嫌な空気を振り払うように、私もグラスを空けると、何も言わずに志摩子に渡した。
 この頃から、確かに志摩子に対する気持ちが変わってきたことを自覚していた。妹なんて、考えられない。ただ少し離れた場所から見ていたいと、そう思うようになってきていた。
 それはすなわち、志摩子を必要としていることだなんて、思いつきもしなかったけれど。
 
 

 
 
 時が経てば、呆れるぐらい全てが変わっていく。それは強固であると信じていた自分の気持ちでさえ、流れるように形を変えてしまった、ということだ。
 季節は秋、私は志摩子を妹にした。焦燥感と周りの環境がそうさせたことは確かだったが、後悔はない。否、してはならないことだと思う。
 詰まるところ、お互いが必要としていたということ。確かに焦りこそが起因だったけれど、どの道を辿ってもこうなったのではないかと、今ではそう思っている。
 
「お姉さま」
 
 志摩子にそう呼ばれると、恥ずかしくもこそばゆい感じがした。お姉さまもこんな気分だったのだろうか、と過去を反芻したが、「お姉さま」と呼んだ後に名前を聞いてくるような妹、可愛げも何もあったものじゃないだろう。
 ――妹、姉妹制度。
 思えば、お姉さまのロザリオを受け取った後でも、こんなに姉妹制度について考えることはなかった。自分のことながらバカらしくなるぐらい、その単語が特別な意味を持ち始めている。
 少なくとも私は、お姉さまのように大人びてはいないことを自覚していた。平静でいられなくなるようなこと、いくらでもあった。
 そんな時にふと、お姉さまの言葉が蘇るのだ。「恩を返すつもりがあるのなら、未来の妹に」というあの言葉。あの時からお姉さまは、私が妹を持つことを予想できていたのだろう。
 私は志摩子をどう扱っていいかなんて、悩んではいない。ただ恩に代わる何かをどう与えればいいのか、分からないだけだ。
 初めて志摩子を見た時、私は鏡のようだと感じた。接するうちに、私そのものだとも感じた。だけど私は、志摩子が分からなくなるときがある。私自身、私というものを全て把握できていないのだから、当然だ。
 
「あなたは、志摩子が好きだから妹にしたのよね?」
 
 志摩子にロザリオを渡した直後、蓉子にそう問われたことがある。その後の沈黙の長さも、この身体に染み付いている。
 
「……そりゃ、ね」
 
 必至に搾り出した答えは、なんと弱かったことか。その答えを聞くやいなや、蓉子は私を睨めつけた。
 
「何、まさかそんな中途半端な気持ちで志摩子を妹にしたの?」
「違うわよ」
 
 私が答えに窮したのは、そんなことではない。私はあの時はっきりと志摩子を妹にしたいと思って、彼女を連れ出したのだ。そのことについては、気持ちに揺るぎはない。
 ただ、好きかどうか何ていう質問は別だ。ただ「好き」と言ってしまうのは簡単だけど、それほどまでに単純な気持ちではないのだ、これは。
 愛するということに置いて慈愛や友愛があるように、好きにも種類がある。一人の人として好き、女として好き、妹として好き――。その中のどれに私の気持ちが当てはまるのかすら、分からない。
 志摩子を好いていることに、間違いはない。だけどその「好き」の先に求めるものは、白い靄に隠れて見えなかった。
 
 

 
 
 学園祭が近づくにつれ、山百合会の仕事は加速度的に増えていく。タイムテーブルの作成、備品の確保、各部の催し物のチェック――この学校には学園祭実行委員はいないのかというぐらい、山百合会の仕事は枚挙に暇がない。
 そんな中、白薔薇姉妹の担当分として課せられた仕事は、あまり順調とは言えなかった。理由は単に、私が時計をみる習慣がないせいだ。
 この溜まった仕事をここらで何とかしようと思い立ったのが今日。下校時間はとうに過ぎていたが、この時期は先生たちの『ご理解』により、それを咎められることはなかった。
 
(暗い)
 
 外を見て、そう思った。吸い込まれそうだと思った朱は、いつの間にか黒に飲み込まれている。
 私が片さなければいけない仕事は、もう終わっていた。志摩子の方を見ればまだ少し残っているけれど、「手伝おう」という言葉に対して頭を横に振られてしまった。横から入って手伝えるような仕事ではない、ということらしい。
 コッ、コッ、コッ――と、壁にかけられた時計が時を刻んでいく。その音と紙にペンを走らせる音だけが、寂しくもこの部屋を満たしている。
 私は志摩子の横顔を、無遠慮に見詰めていた。志摩子はそれに気付く様子もなく、黙々と、だた黙々と。
 その横顔を見ていると、ふと去年の夏を思い出す。効き過ぎたクーラー、静かな図書館、薄く積もっている夏休みの宿題――。あの日もまた、こんな風に時計の秒針が動く音さえ響いていた。
 私が見ていても、気付かずに宿題に向かっていた栞の横顔を思い出す。私は栞と志摩子を重ねたり、比べて見ているわけではない。ただあの時、不思議なぐらい真面目に宿題に取り組んでいたあの時、栞から見た私は今の志摩子のようだったのかなと、そう思っただけだ。
 
『あ――』
 
 プリントに不備でも発見したのか、志摩子の唇が声なき声を発する。艶やかな唇が少しだけ開かれ、にわかに時が流れていることに気付かされる。
 暫く考え込み、ようやく答えが見つかったようで、志摩子は頬の辺りに添えていた右手を下ろす。ペンが紙に接するより刹那だけ早く、硬質な音が微かに聞こえた。制服の下に隠れている、ロザリオが発した音だ。
 もう夏服ではないから、この時期不意に目の前に現れるということは少なかったロザリオ。しかしこうして確かにその存在を感じると、私たちが姉妹であるということを、誰かに訴えかけられるような錯覚を以て自覚する。
 ――あなたは、志摩子が好きだから妹にしたのよね?
 いつかの問いかけは、今もなお私の中を飛びかっている。好きであるはずなのに、好きという答えに帰結するのを恐れるように、私はまだ迷っている。
 姉という、人の上にたつ立場についてなお、私はこれだ。妹を持ったからと言って、誰しも落ち着くものではないらしい。不安定だ――と自分で分かっている分、少しは成長したようだけど。
 
「ねえ、志摩子」
「あ、……はい」
 
 何気なく呼びかけ、振り向いた志摩子に同じ質問をしたら。――私のことが好きだから妹になったのよね? なんて訊いたら、一体どんな表情をするだろう。
 志摩子の瞳の中に、私が映る。私の瞳の中に、志摩子が映る。何故だか心が縛られるような錯覚に陥り、気が付けば零すように言葉を吐いていた。
 
「どうして、私の妹になったの?」
 
 言った後、すぐに後悔した。それは、訊かなくてもいい、訊く必要のない質問だった。
 瞬きをする瞳。なおも無遠慮なまでに映りこんだ私は不安げに揺れている。
 どうしよう――。
 そう思った。あなたが好きだからです、なんて言われたら、きっとどうにかなってしまう。
 
「私は」
 
 聞きたくない。分かりきっている。だけど遮る言葉も出てこない。
 
「お姉さまが」
 
 血色のいい唇が、甘やかな声を発して、意識を釘付けにする。
 心の中で「やめて!」と叫んだ。答えを聞いたら、壊してしまう。きっと、何もかも。
 
「お姉さまだから、妹になりたいと思いました。お姉さまが」
 
 ――好きだから。
 唇はその形を作ったけれど、声は聞こえなかった。私が立ち上がり、勢いよく倒れた椅子の音が重なって、聞こえなかった。
 気が付けば、何事かと立ち上がった志摩子を、壁に押さえつけていた。右腕を左手で、左腕を右手で掴み、身体の自由を奪う。志摩子は何が起こったのか分からず呆然としていて、この状況に驚いているのは私も同じだった。
 止めろ――。そう心に木霊しても、本当の私には届かない。ただの繰り返しになるだけなんて、分かり切っているはずなのに。
 
「今、何て言った?」
「……好きだから、と言いましたけれど」
 
 志摩子の言葉に、息が詰まる。感情はごちゃ混ぜになって、何色かすら分からない。
 純粋に好意を向けられることに嬉しさを感じてはいる。だけど、誰よりも好きだった人が居なくなる痛みを知らないくせに、簡単に「好き」と言ってしまうことを憎くも感じている。
 心臓は暴れ馬のように跳ね、志摩子を押さえつける力は増していく。感情は、ただ奔る。
 志摩子の目に移る私は、酷く瞳が澱んでいることだろう。だけど志摩子は怯える素振りを一切見せなかった。どこまでも真摯に、直線的に、私を見ていた。
 
「おね――」
 
 その後に続く言葉は何だろうか。お姉さま、止めて下さい? お姉さま、痛いです?
 私は不意に、拒絶が怖くなった。拒まれて当然の行為をしているくせに、その先の言葉を遮るためだけに、唇を近づけていく。
 
「――えさま」
 
 唇を、美しいと思った。まるで蛹から出たばかりの蝶が、その煌びやかな羽を始めてはばたかせるようだと、そう思った。
 ――もぎ取ってしまえ。私の許から、飛び立てないように。
 後ろから突き立ててくるかのような黒い情動に任せ、私は唇を。――志摩子の、唇を。
 
「……どうして」
 
 不意のその言葉は、志摩子の唇からではなく、私のそれから漏れた。
 
「どうして、目を瞑るのよ」
 
 私は腕から力を抜くと、志摩子の頭を通り過ぎ、額を壁につけた。
 
「どうして止めてって、言わないのよ……」
 
 拒絶が怖いなんて、知っていた。だけど受け入れられることにすら怯えているなんて、初めて知った。
 きっとまた、壊してしまう。そう思っていて付かず離れずの距離を保っていたのに、少し自我を失えばこれだ。心底自分が嫌になる。
 
「軽蔑したでしょう、私のこと」
「……お姉さま」
 
 なす術もなくなって、私はそっと志摩子から離れた。そのまま後ろにあった机にもたれかかると、さっきと同じように、ただ真っ直ぐな視線を投げてよこす志摩子がいる。
 酷く惨めだった。後悔はダムが決壊するようにやってきて、私は押し潰されそうだった。
 
「私ってこういう人間なのよ。……ロザリオ、突き返したくなったでしょう? ねえ、そうした方があなたの――」
「お姉さま!」
 
 その大声にはっとして、下がりかけていた視線を上げた。その視界には、志摩子の涙がスローモーションで伝い落ちるのが映った。
 まるで肌理細やかな広葉を滑り落ちる朝露のようなそれは、やはりどこまでも神聖で、罪悪感は一層強まった。もうどこにも行けないような空気の重さが、私を縛り付けている。
 
「ロザリオを返せなんて、言わないで下さい」
 
 もう一滴涙が落ちて、私は志摩子を抱きしめたいと思った。だけどそれすら私には許されることではないのだと思い至って、絶望という感情が心の真ん中に鎮座しているのを感じた。
 
「だけど、私は」
「お姉さま、私は寺の娘です」
 
 私の言葉を遮ったそれは、いきなり何をと訝しがらせるのには十分な発言だった。
 
「檀家の方々には黙ってここに通っています。おかしいですよね、仏教の家に生まれたのに、カトリックの学校へ通うなんて」
「……志摩子」
「ずっと負い目を感じながら、通っていました。ここにいるべきじゃないんだ、って、他の人たちとは違うんだって、そういうことばかり考えていたんです」
 
 涙で曇った瞳は、はっきりと不安で揺れていた。そこでやっと私は、志摩子が怯えていることに気が付いた。
 私のしようとした行為に対して、ではない。自分がここにいるという事実と、それを否定されるかも知れないという恐怖、罪悪感。実家が寺であるというだけでそこまでの迫害を受けるはずがないというのに、志摩子は確かに怯えていた。
 
「だけど、お姉さまは私を必要としてくれました。私がここにいてもいい、理由になってくれました」
 
 怯えの表情がふと優しくなって、涙に濡れた微笑に変わる。それが合図だったかのように、私は志摩子を抱き締めた。強く、どこにも行かないように、強く。
 私に志摩子を抱き締める資格なんてなかった。しかし、抱き締めてあげなければいけないという義務があった。
 
「志摩子……ごめん」
 
 震える肩を抱いて、私は涙が頬を転がっていくのを感じた。ごめん、ごめんねと繰り返しながら、必至に涙を堪えたけど無駄だった。
 虚無と嗚咽が羅列された部屋、ひたすらに頬を伝う熱さと、確かな形を成した感情。私が志摩子を好きだなんて、もう分かりきっていたはずなのに、ひたすらそう思わずにはいられなかった。
 
 ――盲人は何故、空を見て泣くのだろう。
 
 今なら、その疑問の答えが分かる。
 物を見ることが出来ない盲人に、空を見ることは出来ない。盲人が泣いたのは、空を仰ぎ見ることを望み、その願いが叶わなかったからだ。
 
 愚かな私は、視力があるというのに気付かなかっただけ。
 私は空を見て泣くまで、気付かなかっただけなのだ――。
 
 

 
 
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