■ 綺羅星の下のGuiltyRose -前編-
 
 
 
 
 ――盲人は何故、空を見て泣くのだろう。
 その一文を書き記した一冊の本には、なんの答えも載っていない。ただ純粋な疑問として、それは今も頭の中を駆け巡っている。
 盲人の彼らに光はなく、また失くしても生きていけるのだろう。私は確かに、そんな風に思っていた。
 
 

 
 
 空が泣いているなんて、一体誰が言い出したのだろうか。
 高校一年の春、私は雨が降る度そう疑問に思い、窓ガラスに映った自分の顔を眺めていた記憶がある。いくら考えても、知り得ないことを分かるはずがないのに、私は雨粒が地面に叩きつけられるのを見れば条件反射でそれを考えてしまう。
 
「きりーつ」
 
 ザーザーと雨足のノイズが混じった号令は、鬱屈しそうな授業の終りを告げるものであり、また放課を知らせるものでもある。いつもは誰かの声に合わせて動くなんてこと、嫌で嫌で仕方がないものだったけれど、この時だけは意外と素直に「起立」が出来るのだ。「礼」の方は知ったことではないが。
 私は机の横のフックにかけてあった鞄を手に取ると、誰を待つこともなく教室を出た。掃除に向かわなくてはならないが、だからと言って同じ班の人間を待とうなんて、考えはしても実行する気にはならない。
 それに何より、私にはさっさと教室を出なければいけない理由がある――のだったが。
 
「待って」
 
 聞き馴染んでいない、馴染みたくもない声が私の肩を掴む。
 
「聖ちゃん」
 
 そんな風に呼ばれるのが、私は堪らなく嫌いだった。まるで両親が、私を甘やかす時のような響きを持っているからだ。
 私は憂鬱そうに、しかし表情にはそれを出さずに振り向く。果たしてそこには、『さっさと教室を出なければいけない理由』である、一人の上級生の姿があった。
 
「今帰り? 少し付き合ってもらえないかしら」
 
 それは問いかけとお願いだったが、教室を出た直後という人目に付き易い場所に置いては、ただの上級生命令だ。彼女の常套手段であり、私がもっとも嫌いなやり方。
 
「……五分ほどでしたら」
「いいわ、行きましょう」
 
 私は内心の苛立ちを感じながら、廊下を歩いていく彼女の背中を追った。ちなみに彼女は彼女であって、名前は知らない。最初しゃべった時に名乗っていた気がするが、インパクトのある名前ではなかったから忘れてしまった。
 やがて人目に付かない廊下の端までくると、彼女はパッと振り返る。何故だか、今日の彼女は緊張しているように思えた。
 
「あのね、一つ訊きたいのだけど。……あなた、お姉さまはいて?」
「いいえ、いません」
「そう……よね」
 
 そんなの既知のことだろう、と私は心中で悪態をつく。私が姉妹の申し込みを拒み続けていることを、彼女が知らないわけがなかった。
 彼女はスッと息を吸い込み、真っ直ぐに私の瞳を捉える。その刺すような視線が決心を意味していることは理解できたが、緊張はしなかった。どうせ次の台詞は、知れている。
 
「聖ちゃん」
 
 だから私を、「ちゃん」付けで呼ぶな。
 
「私のロザリオ、受け取ってくれない?」
「お断りします」
 
 決定的な言葉を突きつけるのは痛快だったが、人の悲しむ顔を見るのはいつまで経っても慣れることが出来ない。
 
「どうして!?」
 
 どうして、なんて、私が訊きたいぐらいだ。こんな愛想のない一年生を妹にしたいだなんて、どうかしている。
 それとも、彼女は今日みたいに私を連れ出して、一方的に話をして馴れ合ったつもりなのだろうか。懸命に私に話しかける彼女が気の毒になって漏らした笑顔を、親愛の証だと思ったのだろうか。
 だとしたら、それは本当に気の毒な話だ。私は彼女に親愛の感情を抱くこともなければ、姉にしたいとも思わない。もっと言ってしまえば、今この時のように私の行動を制限してくることが、どうしようもなく嫌いだった。
 
「私は姉を持ちたいと思ったことがないからです」
 
 どうして、という問いに、私はいつもそう返す。一番もっともらしくて、傷つかないだろうから。
 
「……そう」
 
 一応了解したように言ったけれど、きっとまだ問い質したいことがあるだろう。だけどそれは私にとって無意味で、覆りようのない事実を確固たるものにするに過ぎない。
 
「五分経ちました。では失礼します」
 
 踵を返し、まっすぐ歩き出す。廊下はまだ、雨音で濡れている。
 私は今日が雨降りで本当によかったと思った。もし彼女のすすり泣く声なんて聞こえたら、明日の目覚めは最悪なものになるだろう。
 ツカツカと歩きながら、通りがかった教室の時計を見ると、さっきから三分しか経っていないが気がついた。しかし彼女がそれを咎めなかったのは、私の言いたいことを理解してくれたからだと、勝手に解釈しておくことにする。
 
「聖さん」
 
 廊下の中ほどまで来た時、不意に呼びとめられる。その呼び方から一瞬同級生かと思ったが、違う。柔和なようでいて居丈高な口調は、決して同じ歳の人間にできるようなものではなかったからだ。
 私が声に振り向くと、やはりそこにいるのは上級生だった。人の名前を覚えない私が、何故上級生であると分かったかと言えば、それはその人が学校内での有名人だったからだ。
 
「何でしょうか、白薔薇のつぼみ」
 
 確か彼女は、新入生歓迎会でそう紹介されていた。つまりは山百合会の幹部で、自然と目立つ存在で、そして私は彼女の名前を知らない。覚えていない。
 
「ちょっとね、あなたの顔を見てみたくて」
「はぁ」
 
 またか、と私は辟易する。そう言って私に近寄ってくる上級生は多いけど、ここまで露骨なのは初めてだ。
 それに何より、「白薔薇のつぼみ」と呼ばれる人がそんなことをするのだから呆れたもの。人気者なら、もっと奇抜で面白い方法で私に目をつけてみろ――と、心の中で唾棄する。
 
「ねえ」
 
 私はもう嫌悪感を隠すのも面倒になって、相当無愛想な顔をしているはずなのに、彼女は何が楽しいのか笑っている。
 まるで人を化かすピエロ。ならばもう、彼女に関わる必要はどこにもない。「白薔薇のつぼみ」なんて、所詮は肩書きだ。
 
「待ちなさい」
 
 無言で背中を向けた私に、彼女は言った。
 
「あなた、私の妹にならない?」
「お断りします」
「あら、残念」
 
 背中越しに話しながら、私は少し驚いていた。出会ってすぐに姉妹の申し込みをしてきた人が初めてならば、あっさりと引き下がってしまう人も初めてだった。
 
「また顔を見に来てもいい?」
「……どうぞご自由に」
 
 私がぶっきらぼうに言うと、彼女は「けっこう」と言って上履きの音を立て始める。
 その足音が雨の音に塗りつぶされた後、私はやっと自分の心臓が跳ねていることに気がついた。
 
 

 
 
 翌朝の目覚めは最悪とまではいかなかったけれど、教室についてからが最悪だった。
 
「聖さん、美沙さまのお誘いを断ったって本当?」
「素敵な方なのに、どうして?」
 
 どうして、と訊かれたって、今しがた「ああ、そんな名前だったな」と思い出したぐらいなのに。
 言ってしまえば、いくら構ってきたって私の中での意味や価値は変わらなかったのだ。人に言わせれば「ドライ」なのだそうだが、直す気は更々なかったし、直るとも思えなかった。
 ――ドライ。
 実に的を射た意見だと思う。乾ききって、ひび割れて、ヒューヒューと隙間風を鳴らしている自分の心をイメージしてみると、中々に笑える。
 
「もったいないよね。憧れている人も多いのに」
 
 ふと気付くと、最初は二人だった人の壁が五人に増えていて、私を「ドライ」だと評したクラスメートもその中にいた。私がこういう人間だと言うことを分かっているのだったら、放って置いてくれればいいのに。そんな軽薄な言動がまた私を乾かすってこと、何故分からないのだろう。
 いい加減、曖昧な態度を取り続けるのにも疲れてきた。察してくれるなんて望みは、もう捨てた方がいいのだろう。だけど吐露するように何もかもを喋ってしまうなんて、プライドをズタズタにするようなものだ。私は自分の心を、他人に仮託したくない。
 
『もう私にとやかく言うのはやめろ。あんたたちの相手は面倒だ』
 
 口からそんな言葉が転げ出そうになった時、まるで私の意思を読み取ったかのように人壁が割れた。もう朝拝の時間か、と思って時計を見たが、それにはまだ五分ほど早い。
 ならば何故、と思って人壁の亀裂に目をやると、まるでモーセの十災のように人並みが切れている。そして、そうしてできた道を歩いてくるのは、昨日の『白薔薇のつぼみ』だった。
 
「ごきげんよう、聖さん。昨日言った通り、また顔を見にきたわ」
「……ごきげんよう」
 
 にっこりと微笑む顔を見ながら、私は苦汁を嘗めている気分になった。予鈴まで後四分と三十秒。今日ほど、学校に早くきたことを後悔した日はない。
 周囲はざわめき、教室の中にいるクラスメート全員が私と白薔薇のつぼみに注目している。全くもって、面白い状況ではない。
 
「やっぱり」
 
 白薔薇のつぼみは、目を細めて続けた。
 
「あなたは素敵だわ。是非とも私の妹にしたい」
 
 何を言い出すんだこの人は、と思うと同時に、周囲のざわめきが一層大きくなる。回りくどいのは嫌いだけど、ストレート過ぎるというのも問題だ。
 
「昨日、お断りしたはずですが」
「そうだったわね。でもあなた、勘違いしていない?」
「勘違い……?」
 
 私にはさっぱり意味が分からず、机の前に立った彼女に視線を返す。
 白薔薇のつぼみが「そうよ」と言うと、「お断りした」発言に沸いていた野次馬たちが黙り込んだ。
 
「……と、それは放課後まで考えて貰うことにしましょうか。今日、時間を作って貰えるかしら?」
 
 そう言うと彼女は「はい」とも「いいえ」とも答えていないというのに、私の耳元で「放課後になったら古い温室に来て」と囁いた。わざわざ他に聞こえないようにしたのは、邪魔をされたくないからだろう。
 
「それじゃ、また後で」
 
 白薔薇のつぼみはもう一度だけ笑顔を作ると、私に背を向け歩き出す。
 クラスメートたちは緊張した、しかし華やいでいる声で「ごきげんよう、白薔薇のつぼみ」と挨拶した。そんな中、私は彼女を「誰が妹になるものか」と無言で見送った。
 
 

 
 
 勘違い、の意味が解せなくても時間は過ぎ、放課後はやってくる。
 渋々、というか、嫌々やってきた古い温室には、すでに白薔薇のつぼみの姿があった。
 
「一目惚れ、って言うわけじゃないんだけどね」
 
 挨拶もなしに、彼女はそう切り出した。
 
「単刀直入に言って、私はあなたの顔が好きなのよ。聖さんはまるで動く芸術品ね」
 
 それはどうも、と返しながら、私は不機嫌だった。
 顔を褒められるのは、悪い気はしない。しかし、褒められればなびくなんてものでもないのだ。どうせ私を妹にしたいと言う上級生は、「姉妹申し込みの殺到している一年生を妹にして鼻高々」という優越感を味わいたいだけなのだろうから。そうでなければ、こんな愛想のない一年生を妹にしたいとは思わないだろう。
 
「あなたの妹になるメリットは、この顔を愛でてくれるということだけですか?」
 
 私は皮肉たっぷりに言うと、白薔薇のつぼみは呆れたようにかぶりを振った。
 
「言ったでしょう。あなたは勘違いしているって。あなたは妹というのに拘りすぎなのよ」
「拘りすぎ……?」
 
 彼女の言葉は、意外だった。自慢じゃないが、私は姉妹制度について本気で考えたことがない。
 伝統にのっとり、絆を姉妹という形で具体化させる制度。私にとっては、独占欲と自己顕示欲を満たすための、滑稽な儀式。
 斜めに構えた見解であるとは自覚しているけど、これが私の中での『姉妹制度』だ。だから私は、これからも姉や妹を持つことはないだろう。――彼女の言葉を聞くまでは、確かにそう思っていた。
 
「ええ、私は別に姉妹ごっこをしたいわけじゃないわ」
 
 白薔薇のつぼみは、近くに咲いた白薔薇の花弁を爪弾いた。
 
「私はあなたを『白薔薇のつぼみの妹』として縛るつもりはないわ。妹として、支えて欲しいとも思わない」
「……なら、私を妹にする意味などないのではないですか」
「いいえ、さっきも言ったでしょう? 私はあなたの顔が好きなの。だから妹と言う口実でもいいから、私の近くにいて欲しい」
 
 妹は、口実。どこまでが冗談なのか、計り知れない。
 しかし私は、確かに彼女に共感を覚えていた。大凡の姉妹制度のあり方に囚われない考え方は、私にとって新鮮だった。
 
「あなたもいい加減、茶番には疲れているんじゃないの?」
 
 茶番というキーワードに、私は目を見開いた。一体いつから私を見てきたのかは知らないが、姉妹云々に関して煩わしさを感じていることは確かで、それを彼女は見抜いたのだ。
 看破されたというのに嫌な気になるどころか、逆に心地よく感じてしまうのは何故なのだろう。彼女は新鮮に加えて、『不思議』でもあった。
 
「いい? もう一度言うわよ」
 
 黙りこくってしまった私に、白薔薇のつぼみは真っ直ぐと言った。
 
「あなたの顔が好きよ。近くで見ていたいから、私の側にいなさい」
 
 彼女の首から外されたロザリオの輪が広げられ、十字架が茜色の光で鈍く輝く。
 答えはもう、決まっていた。具体的な理由もなしに妹になれと言われるより、形あるものを好み、受け入れてくれる方がずっとしっくりくる。
 
「はい」
 
 私が彼女の前に膝を屈すると、軽やかにロザリオがかけられた。白薔薇のつぼみ改め『お姉さま』は、私の髪を広げ、その長い髪をロザリオの輪から抜き出すと、微笑んでそれを梳いた。
 これが解放なのか、それとも束縛になるのかは分からない。ただ、彼女に命令されて嫌な気分がしないことだけは確かで、その直感を信じてみようと思う。
 
「聖」
 
 西日が差す古い温室は、初めて訪れた場所だというのに郷愁を感じる。お姉さまに呼び捨てされたことですら、ずっと前からそうであったように自然だった。
 私は「はい、お姉さま」と畏まって声を発し、その滑稽さに苦笑が漏れそうになるのを堪えながら立ち上がる。温室の隅で咲く白薔薇が二人を祝福するように笑っていたが、無視して私は言った。
 
「ではまず、お姉さま。あなたの名前を教えて下さい」
 
 その言葉にお姉さまは一瞬目を見開き、そして「やっぱりあなたは素敵」と言って、大きな声で笑い出したのだった。
 
 

 
 
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