■ 二人でクライシス -第三話-
 
 
 
 
 
 一月のマリア様のお庭は、身も凍るような寒さで真美を迎え入れてくれる。
 現在もうすぐ午前七時半を回ろうかというところ。マリア像の周りには、ほとんど人影はない。いつものささやかな喧騒の代わりに、スズメの鳴き声がよく聞こえるだけだ。
 
「ふぁ……」
 
 あくびをかみ殺して、スクールコートを抱き締めるようにしながら歩く。当然だけど真美は、毎日こんな時間にきているわけじゃない。それもこれも、ひょんなことで知ってしまったスクープのせいだ。
 
『由乃さんと祐麒さんのことをもう、新聞部は知っている。そのことを記事にされたくなければ――』
 
 そんなようなことを真美は示唆して言ったわけだけど、だからと言ってスクープをただ待っているわけにはいかない。由乃さんがスクープを用意できなかった時は、真美が記事を書かなくてはいけないのだから。
 考えてみれば、随分とムチャなことをしたものだ。誰よりもスクープを求めているはずの人間が、それを記事にしないなんて。そりゃ部員たちだって、「どうしてですか!?」って噛み付いたりもするだろう。それが編集長の私情なら、尚更のことだ。
 
「……はぁ」
 
 情というのは、本当に厄介だなと思いながら、中庭に入る。その途端に冷たい風が制服の中に侵入してきて、思わず身体を抱き締めた。
 何故こんな朝っぱらから、こんな場所にいるか。それは単に、スクープのためだ。
 もし、由乃さんがなんのスクープも用意できなかった場合。その時は真美が何かを用意する他ないから。
 
「それにしても」
 
 薔薇の館を見上げながら、呟く。薔薇の館には何の変化もないな、と。
 これでもし薔薇ファミリーが朝から会議なりなんなりして騒いでいてくれれば、それで記事ができたのだけど、何もないなら仕方ない。
 真美はそれから警備員のように校内を見て回ると、腕時計に視線を落とした。朝礼まで後二十分程度。登校してくる生徒の姿が、だんだんと多くなってくる時間帯だ。
 
(収穫なし、か)
 
 真美は肩を落として教室に向かうと、ちょうど教室に入ろうとしている祐巳さんと目が合った。
 
「ごきげんよう、真美さん」
「……ごきげんよう」
 
 暗めのトーンで挨拶を返す真美に、祐巳さんは小さく首を傾げた。
 
「真美さん、眠そうだね」
「そう見えるのかしら」
「うん、駄目だよ。ちゃんと寝なきゃ」
 
 言いながら教室に入る祐巳さんに続いて、真美も入り口をくぐった。スクープだなんだとゴタゴタしていると思ったら、全くいつも通り。……という訳ではないようで、よく見れば祐巳さんの目の下にはうっすらとクマができていた。
 真美が席について、それから約五分。由乃さんはいつも通りの時間に登校してきて、いつも通りの「ごきげんよう」。こちらは寝不足よりも、苦悩の色が表情に滲んでいる。
 
「ごきげんよう、由乃さん。アレ、用意できたかしら?」
 
 意地悪のつもりは毛頭ないけど、真美はそう言いながら由乃さんの肩に手をかけた。もしかしたら、真美は早起きしてスクープを探しているというのにあなたたちは、みたいな見当違いの恨みが出てきたのかも知れない。
 由乃さんは憂鬱そうに振り返ると、「はぁ」と大仰にため息をついた。
 
「あったら、こんな顔してると思う?」
「してないわね」
 
 だけど、と真美は思う。それにしては、まだ余裕があるように見えるのだ。いざとなったら、という時の奥の手が用意していある、って感じに。
 だって、普段の由乃さんなら悩む前に行動しているだろう。それがどうにも悩んでいるような表情なのだから、その奥の手を使うか使うべきか、そこを考えているのではないだろうか。
 もちろん、本気でスクープのことを悩んでいるのかも知れないけど。
 
「まあ、とにかく。締め切りは今週の金曜日だから、よろしくお願いするわ」
「金曜日っ!?」
 
 それってあと一週間もないじゃない、と由乃さんはトレードマークの三つ編みがなびくぐらいの勢いで顔を上げた。
 
「まあ、急だわね。でも安心して、それは一応の締め切りで、最悪来週の月曜日まで待つわ」
「……それでも短いわよ」
「私は十分に時間があると思うけど? それに由乃さんには、もう何かあるんじゃないかしら」
 
 その『何か』というのは当然祐麒さんと由乃さんのことではなく。何か別に、スクープとなる素材があるのではないか。
 当然それは真美の予想でしかないわけだけど、由乃さんはその言葉にピクリと表情で反応した。これはビンゴかも知れない。
 
「それじゃ、楽しみに待っているわ」
 
 これなら、きっと新聞部の未来は明るい。
 真美が鷹揚に身を翻すと、背中に「うー」と恨めしそうな声が届いた。
 
 

 
 
 放課後になり、祐巳さんと一緒に薔薇の館に赴くと、珍しいことに祥子さまと乃梨子ちゃんしかいなかった。
 
「ごきげんよう」
 
 軽くそう交わして由乃と祐巳さんが席につくと、暫くした後乃梨子ちゃんが紅茶を運んできてくれる。
 その間は少しも会話はなくて、妙な雰囲気だった。祥子さまは別に不機嫌そうでなければご機嫌というわけでもなく、乃梨子ちゃんは事務的にお茶を淹れるだけだったから。
 
「――で」
 
 何かの書類に目を通していた祥子さまが、顔を上げて言った。
 
「由乃ちゃんも乃梨子ちゃんも、昨日のこと、考えて来たのでしょう?」
 
 ここで「祐巳も」と言わないのは、祐巳さんが考えてくるのは決定事項なわけだ、と由乃は思った。それを言ったら由乃だって考えてくるのは決まっているけど。
 しかしここで元気よく「はい、もちろんです」と言えればいいのだけど、由乃と乃梨子ちゃんの口から漏れた返事は「ええ」という力ない返答だった。
 
「私が思ったのは」
 
 乃梨子ちゃんは席につきながら、由乃の方を見て言う。
 
「ただスクープを作るだけなら、簡単なんですよね」
「……と言うと?」
 
 祐巳さんが訊いたので、乃梨子ちゃんはそちらに視線を移して続けた。
 
「例えば往来の多いところで由乃さまが祐巳さまの頬を叩けば、それだけで記事になります。それによる弊害は、いくつでも出て来るでしょうけど」
 
 そうなんだよなぁ、と由乃は腕組をしながら思った。たしかにそうすれば、次のリリアンかわら版は賑わうこと間違いなしだろう。
 しかし、(たが)えてはいけない。それはスクープではなくスキャンダルだ。それにもしそんなことが起こったとしたら、由乃は沢山の祐巳さんファンに恨まれることになる。
 
「本気で言っているわけじゃないわよね?」
「もちろんです。誰の名誉も汚さずにスクープを作りたいわけですよね」
 
 乃梨子ちゃんは祐巳さんから視線を外すと、「難しいです」と言って言葉を切った。
 そう、難しい。そんな都合のいい話はそうそう転がっていないし、作り出すにしたって誰か人が絡んでくることになる。スクープ作るからちょっと動いてちょうだい、なんて、ろくな頼みごとじゃない。
 誰にも迷惑がかからないのなんて、相当いいニュースか、そもそも人が関わらないかだ。例えば、マリア像の裏には隠された地下室への入り口があって、そこには初代薔薇さまのロザリオが眠っている! なんてことがあったら面白い記事になるだろうけど、残念ながらそんな事実はないのだ。
 
「それにしても、珍しいわね」
 
 そこでふと、祥子さまが言った。
 
「由乃ちゃんなら、もうとっくに動き出していそうなものだけど。何かあって?」
「それは……」
 
 それは、真美さんにも言われたことだ。由乃には何か、隠し玉があるんじゃないかって。
 そりゃまあ、あると言ったらある。菜々のこと、騒ごうと思ったらいくらでもことを大きくできそうな気がした。
 だけど、それこそ一番人に迷惑がかかるじゃないか。少なくとも菜々は有力候補ではあるけど、妹にすると決定したわけじゃない。妙な噂を立てられるなんて、菜々も望んでいないはずだ。
 
「あるにはあるんですけど」
 
 それに続く言葉が思い浮かばなくて、由乃にしては珍しく歯切れが悪くなってしまった。
 祥子さまはそれに「そう」と返したっきり。祐巳さんも乃梨子ちゃんも、それ以上何も聞いてこなかった。これは由乃の中での問題、ってことだろう。
 
(それは、その通りなのよね)
 
 これは、由乃の問題なのだ。山百合会のみんなの力を借りようとしているけど、本当は由乃一人の問題。
 いや。
 由乃と祐麒君、二人の問題であり、二人の危機なのだ。
 
 

 
 
「ちょっと、そこのあなた」
 
 乃梨子がそう声をかけられたのは、K駅のブックセンターから出た時のことだった。
 
「はい?」
 
 そう言って振り返ると、乃梨子の真後ろに立っていた女性と目が合った。大学生ぐらいの、顔立ちの整ったお姉さんが、間違いなく乃梨子を呼びとめたのだ。
 見知らぬ人に、それも人懐っこいお爺さんやお婆さんではなく、若いお姉さんに声をかけられる理由が分からなくて、乃梨子は目の前のお姉さんを正視した。
 
「あなた、乃梨子ちゃんよね?」
「はい、そうですけど」
 
 お姉さんが乃梨子の名前を知っているということは、少なくとも相手側から見れば顔も名前も知っているということ。よくよく思い出してみれば見たことがあるような気はするのだけど、言葉を交わしたかどうかは記憶に無い。
 さて、どこで見たのだろう、と乃梨子は頭をフル回転させる。すると表情からそれを察したのか、お姉さんの方からヒントを出してくれた。
 
「ほら、剣道の交流試合で。覚えてないかしら?」
「……ああ!」
 
 鳳仙花の実が弾けるように、乃梨子の頭の中にあの時の光景が浮かんでくる。確か、佐藤聖さまたちと一緒にいた、先代の薔薇さまの内の一人だ。
 
「えっと、先代の紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)でしたか」
「残念ながら違うわ。黄色の方よ」
「あ、すみません」
 
 乃梨子の間違いに、先代黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)は「いいのよ」と片手を上げて笑った。名前は確か、鳥居江利子さま。
 江利子さまは微笑を崩さないまま、乃梨子に話しかける。
 
「こんなところで会えるなんて思いもしなかったわ。少しお話したいのだけど、時間は大丈夫?」
 
 その言葉に、乃梨子は腕時計を見た。陽はもう落ちようとしているけど、帰宅時間としてはまだ遅いとは言えない時間だ。
 
「はい、大丈夫です」
「そう。じゃあどこか喫茶店でも――」
「あの、すみません。私は『これ』なもので」
 
 乃梨子は「これ」と言いながら、カラーの下に片手を当てた。リリアンの校則では、登下校の際に飲食店に立ち入ることは禁止されている。『白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)が校則違反』なんて記事、由乃さまだって喜ばないだろう。
 江利子さまは乃梨子の言いたいことを瞬時に分かってくれて、少しだけ声に出して笑った。
 
「固いのね。でも志摩子の妹としては相応しいわ」
 
 じゃあ悪いけれどあそこでいいかしら、と言うと、江利子さまは少し歩いたところにあるベンチに腰掛けるように乃梨子に示した。
 
「ちょっと待っていて」
 
 乃梨子がベンチに座ると、江利子さまはそう言ってどこかに消えた。それから二分とせずに戻ってくると、その手には二つの紅茶の缶。
 
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 
 そう言って受け取った紅茶の缶は、もちろんホットだった。
 
「由乃ちゃんは元気?」
 
 江利子さまは乃梨子の隣に腰を降ろすと、まずそう訊いた。
 とっさに「元気ですよ」と答えそうになって、口をつぐむ。とてもじゃないけど、最近の由乃さまは元気なようじゃない。
 
「あら、元気じゃないの?」
「いえ、健康ではあるようなんですけど、かと言って元気と称してもいいものか、という状態なので」
「まあ」
 
 珍しい、とでもいいたげに江利子さまは頷くと、「どうして?」と続けた。
 
「由乃さまが男性とお付き合いしているのを、新聞部に掴まれて、それで――」
「お付き合い!?」
 
 驚いて声を上げる江利子さまに、乃梨子まで驚かされる。
 乃梨子は、おかしいなと思った。もう付き合い始めて少し時間が経っているのだから、「お祖母ちゃん」である江利子さまだって知っていると思っていたのだけど。
 
「……初耳だわ」
 
 江利子さまはそう言って、悔しそうに唇を噛んだ。何か思うところでもあるのだろうか。
 
「相手は?」
「えっと、……花寺学院高校の、福沢祐麒さん。祐巳さまの弟で、本年度の生徒会長です」
「いつから?」
「去年の暮れぐらいから、と聞いていますけど」
 
 江利子さまが有無を言わさない勢いで訊いてきたから、乃梨子はつい知っている情報を喋ってしまった。いや、お祖母ちゃんとして、そのぐらいの情報を教えても大丈夫なはずだけど、これは。
 
(しまった――)
 
 乃梨子は今更、自らの失敗に気が付いた。
 思い出してみれば、江利子さまは去年「可愛い妹たちへ」と書いてバラエティギフトを贈ってくれていた。その時由乃さまはずっと江利子さまの企みだの何だのと疑っていたから、二人の仲が芳しくないことなど分かっていたことではないか。
 
「それで、新聞部に掴まれてどうしたの?」
「いえ、あの」
 
 これ以上は言わないほうがいい。そう思った刹那、江利子さまは無為に紅茶の缶をベンチに置いて、その「コン」と「カン」と混ぜたような音がやけによく聞こえた。
 まったく、なんてことだろう。相手が三奈子さまならこんな失敗はしないのに。
 
「どうしたの?」
 
 乃梨子が両手に感じる温もり。
 それは江利子さまから、頂いてしまったものなのだ。
 
「……これ以上は言えません、なんて、今更ありでしょうか」
「答えは『なし』ね。さあ、知っていることを全部喋ってちょうだい。時間が押しているなら、帰りながらでもいいわよ」
 
 それから江利子さまは、乃梨子がどれだけ「プライベートなことですから」とか言い訳しても、「言いかけたのだからいいじゃない」と食らいついた。
 その駆け引き、時間にして十五分。
 乃梨子はついに、洗いざらい由乃さまと祐麒さんのことについて喋らされてしまった。先代の薔薇さまというのは強敵だと、まざまざと見せつけられた。
 
「そう、由乃ちゃんが」
 
 そう言った江利子さまはの目は、生き生きと輝いていて。
 ごめんなさい由乃さま、と、乃梨子は心の中で手を合わせた。
 
 

 
 
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