■ さよなら、愛しき世界 -後編-
 
 
 
 
 あの日から、確かに水菜ちゃんは変わっていった。それはまるで木の葉のように、紅葉の色が濃くなるにつれ、笑顔の数は増えていった。
 
「水菜ちゃん」
 
 幼い声に、「あ」とまた幼い声が重なる。彼女を積極的に受け入れてくれたのは、裕香ちゃんだった。ある日私に、四葉のクローバーを見せてくれた、情緒豊かで優しい女の子。
 彼女たちは運動場の端にある遊具のトンネルを、もう一人の仲良しの子を交え、追いかけっこをして遊んでいる。私はその光景に目を細めると、時刻を確認した。もう、祈りの時間が近づいてきている。
 
 お聖堂の中の空気は、最早冷たいと言うより寒い。北国と呼ばれる地方の秋は、やはり他より寒いものだ。
 説教台を照らす、一条の光。暖かそうなその光に、私の足は歩みを進めた。
 よかったと、心から思った。やはり主は導いて下さったのだと、深く感謝した。
 
「――」
 
 祈りの時間は、いつも厳粛だ。しかし私は、今日ほど祈りに集中できる日はないと思った。
 ――救えたのだろうか。
 そう、自身に問いかける。水菜ちゃんを、私は救えたのか。そして、私は。
 私は彼女の笑顔が好きだった。無邪気な、今まで隠されていた笑顔は、まるで麗らかな太陽のように感じられた。
 私は祈りのために使っていたロザリオを仕舞うと、ゆっくりと顔を上げる。ふと、その瞬間に顎を何かが伝い落ちていく感触。床に一点だけ影を落としたような染みを見て、私は自分が泣いていたのだと気がついた。
 
「ああ――」
 
 一滴、二滴と落ちる雫をみて、私は確信した。救われたのだ、誰より私自身が。
 そして私はもう一人の彼女を思い出して、酷く居た堪れない気持ちになった。記憶の中の彼女は、悲壮な表情で、今も駅のホームで――。
 いや、ここでそれを考えるべきではない。私は踵を返すと、お聖堂の中ほどまで行った所で扉が開く。その向こうには、件のシスターの姿があった。
 
「あら」
 
 私はすれ違いざま、無言で小さく会釈した。
 この涙は、誰にも見られたくない。私は俯いたまま、お聖堂の扉を開いた。
 
「シスター久保」
 
 外の陽光に目を細めた途端、かけられる声。私は振り返ることなく、次の言葉を待った。
 
「……よかったわね」
 
 その言葉を聞いた瞬間、私はふと笑った。なんだ、どうせ見られていたのだ。
 失礼します、とだけ言って、私は扉を閉める。そして私は解放されるような気持ちで碧空を仰ぐと、その向こうに見えた彼女の顔にもう一滴だけ涙を零した。
 
 

 
 
 悪い予感、というのは、必ずしも人にだけあるものではない。
 例えば大地震のある日にはネズミが家屋から逃げ出すように、それは小動物にもある感性。人はそれを第六感と呼ぶらしい。
 
 その日は、大雪に見舞われていた。例年より三週間も早い降雪。いくら北国と言えど、まだ冬休みには入っていない日のことだった。
 
「どうやら、バスが動かないらしい」
 
 そう言ったのは、相変わらずタバコ臭い高沢先生。彼が言うには、積雪など天候には関係なく、純粋に故障してバスが動かないらしい。
 ラジエーターがどうしたとか、専門的なことは分からないが、当然すぐには直らない。そこでどうしようと緊急会議を開いたところ、「迎えの来ない、バス送迎の園児だけは教職員で分担して送り届けましょう」という園長の一声により、その対応は決定した。
 その決定は、中々の労力が必要だった。カトリックの幼稚園ということもあり、遠いところから通っている園児たちもいる。そして長谷水菜ちゃんも、その一人だった。
 
「行きましょうか」
 
 私は四人の園児たちに声をかけると、雪に冷やされた外へと出た。こんな事態でも幼い子供には関係なく、運動場に降り積もっていく雪を見てはしゃいでいる。
 それは水菜ちゃんも同じで、ここまで打ち解けることができたのかと安心した。そして彼女たちに笑顔をくれた突然の雪に、少しだけ感謝した。
 
 

 
 
 一人、一人。家に近い方から順番に、園児たちを帰宅させる。
 三人目の子を家に送り届けた時、雪はやんだ。残ったのは水菜ちゃんと、そして積もった雪、灰色の空。
 この空を見ると、この雪の匂いを孕んだ風にあたると、いつも思い出す。あの日も、雪の降る日だった。
 
「シスター?」
 
 私が何も言わずに空を見上げているのを不思議に思ったのか、水菜ちゃんは手を引いて見上げてくる。
 
「何でもないのよ」
 
 早く帰りましょうかと、私は水菜ちゃんの手を握り返す。友達とはしゃいでいたせいか、触れ合った肌から火照りが伝わってくる。
 この温もりは、この温もりだけは、何に代えたって守りたかった。この温かさこそが、私の見つけた幸せだった。
 それから彼女は、幼いなりに空気を読んだのか、一言も喋らなかった。時折話しかける私に、必要なだけの答えを返すだけだ。
 私は水菜ちゃんと聖を、重ねて見たことがあった。しかしどうだろう、今の水菜ちゃんは、以前の姿を想像出来ないぐらいに明るく笑う。
 ――私はそんな無邪気な笑顔を、聖の笑った顔を何度見ただろうか。
 そんなことを考えていた時だ。視界の端に、猛スピードで交差点に進入しようとする車が見えたのは。
 
「――」
 
 足が竦む。私たちの目の前の信号は青になったばかり。しかしその右側から交差点に入ろうとしている車は突っ切るつもりなのか、それとも止まれないのか、依然として凄いスピードを出している。
 体中が危険を察知して、横断歩道を渡ろうとしていた足を止める。その時、青になった方向から、同じくかなりのスピードを出した大型トラックが見えた。
 青信号になるタイミングを見計らって入ってきたトラックと、信号無視して突っ込んで来る乗用車。これは事故になるな、と瞬時に心得た私は、巻き込まれないように後退る。事故の様子を見せまいと、私は水菜ちゃんを抱き締めた。
 
「……あっ」
 
 私は一つ、大きな楽観を持っていた。ガードレールがあるから、ここはきっと大丈夫だろうと。
 ガン、ドン、ドスンと、グシャリ。
 そんな濁音まみれの重たい音が耳朶に届いた時、私は目の前の光景に絶句した。
 
「水菜ちゃ――」
 
 人は生命の危機を感じると、通常では到達しえない、限界を超えた能力を発揮すると言う。
 私にはトラックに弾き飛ばされた乗用車がこちらにくるのを、まるでスローモーションのように見ることができた。
 
(いけない)
 
 この子だけは、水菜ちゃんだけは、助けないと。
 スローモーションの景色の中、私は声なき叫びを上げ、水菜ちゃんを包むようにして抱き締めた。
 ガコン――。
 低空を滑るような動きで弾き飛ばされた乗用車はガードレールに足を取られながら、私たちの元へとやってくる。黒塗りのその車は、まるで死神か何かのように見えた。
 
 何かが折れ、何かが潰される感触がした。重く、どこまでも響く痛みが、全身を蝕む。
 悲鳴すら時すでに遅く、痛みに喘ぐことさえ困難だった。そして私は、耳を劈くような悲痛な叫びを、自分の上から聞いた。
 
「シスター!」
 
 気づけば、私は仰向けに倒れているらしかった。
 見上げた灰色の空。その向こうからは、またちらちらと雪が舞い降りている。
 
「シスター! シスター!!」
 
 彼女の額から落ちた血が、私の視界を赤く染める。
 灰色と白の世界。――その赤色は、その叫びは。
 水菜ちゃんは叫べるぐらい元気だということと、そしてこれが全て現実なんだということを教えてくれた。
 
 

 
 
 次に私が目を覚ますと、白い天井があった。
 静かな部屋、身体への多大な違和感。
 少し、ほんの少しだけ、私は残念に思った。天国に、天井なんていらないだろう。こんな、チューブも。
 
「栞……?」
 
 しかし、それならはここはどこだというのだろう?
 
「栞、起きたの……!?」
 
 どうして彼女が、ここにいるのだろう――?
 
「よかった、栞。よかった」
 
 彼女は。――聖は私の手を握ると、そっとベッドに乗り出していた身体を元に戻した。
 穏やかな、安心したような聖の表情。私はまだ、眠っているのだろうか。それとも、ここが天国だというのだろうか。
 
「どうして、ここに……?」
 
 私は握られている手を握り返そうとして、そうすることが出来ないことに気づいた。右手も、右足も、動けという命令を無視した。
 
「どうして、って」
 
 聖は、微笑んで言った。
 
「私がここにいるのは当然でしょう? 違う?」
 
 私は聖の言葉に、かみ締めるように頷いた。
 そうだ、私たちはいるべくして、ここにいる。私は神に誓って、そうであると言い切ることができた。
 
「もう、あんまり心配させないでよ」
 
 そして私は、聖がここにいる意味すら、理解してしまった。
 
「部屋の外で、小さな女の子が泣いてたよ。『シスターを助けてあげて』って。『私のお母さんみたいな人なの』って、私に言ってくるのよ。医者じゃないのにね」
 
 聖は苦笑して、もう一度私の手を握った。もうその感覚すらなくて、私はもどかしくなる。
 それを察したのか、聖は「大丈夫」と言って私の髪を撫でた。ふと、温室でのシーンが頭を駆ける。私の髪を弄っているはずの指先の温かさは、もう感じることができない。
 
「大丈夫よ、栞。全部、大丈夫だから」
 
 微笑みの中、潤んだ瞳を見て私は完全に悟った。優しさがこんなに残酷だったなんて、初めて知った。
 彼女はいつの間に外していたのか、本来私の口元を覆っているはずのマスクをつけた。その処置は、苦しさを紛らわすどころか、諦観を助長するに過ぎない。
 
「ねえ、栞」
 
 私はかろうじて震えてくれる声帯で、「何?」と返した。
 
「あなたは私と出会って、よかったと思う?」
 
 私は聖の言葉に、深く頷いた。その拍子にマスクがずれ、私は細く、でもしっかりした声で言った。
 
「私は幸せだった。聖との、過去も含めて」
 
 そして私は、今も幸せなのだ。
 緩やかに沈んでいく意識の端で、聖の微笑が見られたのなら。眠りにつく前に、最期に会えたのなら。
 
「私もよ、栞」
 
 聖は今までで一番の笑顔でそう言って、頬に一筋涙を伝わせた。
 
「栞と出会えて、よかったと思っている。そしてこれからも」
 
 ポロポロ、ポロポロと流れ落ちる涙は、まるで宝石のようだった。微笑みから零れる涙は悲しくて、またどこか嬉しくもあった。
 ――さあ、終わりが近づいている。言いたいことは、もう伝えられた。意識はさらなる深みへと、ただ落ちていく。
 
「死なないで、栞」
 
 死ぬわけないじゃない、と言いたかったけれど、もう声にはならなかった。
 聖はチューブのついたマスクを付け直すと、「栞」と呼んだ。それは叫び声でもなんでもなくただ優しい声で、優しい表情だった。
 
「栞!」
 
 私が目を瞑ると、そんな声が聞こえた。私を置いて行かないで。そんな声も、聞こえた。
 私はそっと、聖の手を離す。感覚を失くしたはずの手は、それだけははっきりと伝えてきた。
 
 ――ごめんなさい、聖。
 あなたと私はもう、片手ですら繋いでいられない。
 
 私はひっそりと、聖の温もりを心に閉じ込めた。今は一緒にいられないけど、きっとまたいつか会えるだろう。どこかで、きっと。
 だから私はあなたと共にいられる時を、その温もりと一緒に待とうと思う。いつまでだって、待っていよう。残り少ない意識で、私はそう誓う。きっと二人は、もっと幸せになれるはずだから。私に刺さった、あなたの心の破片は、もう取れたのだから。
 
 だから今、別れを告げよう。
 私の愛した、全てのものへ。私と出会い、支えてくれた全ての人へ。
 
「せ、い……」
 
 ――さようなら、さようなら。
 さようなら。私の、愛しき世界よ。
 
 

 
 
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