■ さよなら、愛しき世界 -epilogue-
           『白き花には優しい雨を』
 
 
 
 
 私は小高い丘を登りきると、大仰に息を吐いた。
 とある休日の、春にしては暑すぎる日。私は額に滲んだ汗をハンカチで拭くと、目の前の光景を吟味する。
 
『聖ステイマイエ教会』
 
 目に爽快な緑の萌える中に、その教会は建っている。その白い建物はまるでサナトリウムのようだと思ったけど、あくまでイメージでありその実物は見たことがなかった。
 コンコン、と私は扉をノックした。勝手に開けて入ってもよかったが、待ってくれている人がいるのだから、そうする必要はないだろう。
 
「はい」
 
 想像していたよりも滑らかに扉は開き、一人の女性が姿を現す。彫りの深い、まるで外国人のような顔立ちの女性。それを私が言うのか、という話だが。
 
「お待ちしておりました」
 
 私は教会の中に招き入れられると、ゆっくりと長椅子の間の通路を歩く。彼女は、言う。
 
「お久しぶりですね、聖さん。以前お会いしたのは、二年前だったでしょうか」
「そのぐらいだったかしらね、水菜ちゃ――。いいえ、シスター長谷水菜」
 
 シスター長谷水菜。
 それが今の、彼女の通称だ。
 
 

 
 
 部屋に案内するというシスター長谷の誘いを断り、私は長椅子に腰掛けた。
 何せここまでくるのは長旅だった。もうこれ以上歩きたくないし、それに私は教会の中を眺めるのが好きだ。彼女がこの場所を、愛したように。
 
「正式に、シスターになったそうね」
「ええ。報告が遅くなってしまって、申し訳ありませんでしたが」
 
 シスター長谷は申し訳なさそうにしながら、しかし少しはにかむ。
 ……彼女は、本当に美しく成長した。あの事故以来から付き合いがあるから、彼女の能力の高さは一番よく知っているつもりだ。あるいは、シスター以外の職業で花を咲かせることができたかもしれない。
 
「しかし、本当にシスターになるとはね」
 
 原体験とは、それほどまでに強いものなのか。私の台詞に、シスター長谷は誇らしげに言う。
 
「私もなるとは思っていませんでした。でも、どんどんカトリックの造詣を深めていって、あの人のことを思い出して。いつの間にか、この道のことしか考えられなくなっていたんです」
 
 シスター久保栞は、私にとってのマリア様でした、と彼女は言った。
 
「不思議ですよね。私には、幼稚園の時の記憶は殆どないんです。人から聞いても、私は走り回っている印象しかなかったそうなんですけど。私はシスターのことだけ、少しだけ覚えているんです。何を話してもらったのかは、はっきりと覚えていません。姿だって、写真を持っていなければ忘れてしまっていたかも知れない。それでも私は、抱き締めてくれた温もりだけははっきりと覚えているんです。私を救ってくれた温もりは、まるでマリア様のようでした。だから彼女は、私に取ってのマリア様だったんです」
 
 私は彼女の言葉を聞いて、不意に天を仰いだ。
 ステンドグラス越しの、柔らかな光。栞と出会ったのも、こんな美しいお聖堂の中でのことだった。
 
「でも、だからと言って、シスターになる必要が本当にあったの?」
 
 私は虚空を見つめながら、そう問いかけた。今更の問いだったが、訊いておかなくてはいけないことだった。
 
「必要とか、そう言うものではないんです」
 
 シスター長谷は、微笑んで続けた。
 
「私の命は、あの人に貰ったものなんです。だから私は、あの人の生涯で成しえなかったことをしたいんです。……でも駄目ですね。私はあの時のシスターと同じ年齢になりました。まだあの人には、到底及びません。人を一人だって、救えていません」
 
 私はシスター長谷の言葉に、「いいえ」と首を振った。
 ――人を一人も救えていない。
 そんなことがあるものか。ならば私の今の気持ちを、何と言えというのか。
 私には、彼女が白いものを纏っているように見えた。遠い昔、私が栞に見た神聖と同じ、白いものを。
 
「ありがとう、シスター長谷」
「え?」
 
 私が腰を上げると、シスター長谷は目を丸くして驚いた。
 
「もう、帰るわ。聞きたいことは、全部聞けたから」
「相変わらず、唐突なんですね。駅までお送りします」
「いいえ、結構。一人で歩きたい気分なのよ」
 
 私がそう言うとシスター長谷は残念そうな顔をしたが、やがて納得したように頷いた。
 彼女の開けてくれた扉を通ると、まだまだ高い日が瞳孔を刺激する。緑の香りを孕んだ風が、私たちの間を吹き抜ける。
 
「今日は、ありがとう。話を聞けてよかったわ」
「いいえ、こちらこそ。またいらして下さい」
「私がくたばってなかったらね。……ごきげんよう」
 
 私は何故だかそう言いたくなって、実に長いこと口にしていなかった挨拶をし、やっと細めていた目を開く。
 お気をつけて。そんな言葉を背中越しに聞いて、私は後ろで手を振った。クスリ少しだけ笑う声が聞こえて、私にはそれが心地よかった。
 
 ――ねえ、栞。
 私は救われたよ。そしてあなたの魂も。
 あなたの意思は、この世で今も息づいて、何よりも輝いている。
 あたなが生まれてきて、あなたと出会って、私は本当に幸せだった。
 
「栞」
 
 もうすぐ、私も行くよ。同じところにたどり着けるかどうか分からないけど、這ってでもあなたの元へ。
 そうしたら、またあなたは「ごきげんよう」と微笑んでくれるだろうか。また私を受け入れてくれるだろうか。また私と、一緒に。
 
「……また会おう」
 
 願わくば、私とあなたの魂が結ばれますように。
 仰いだ大空にその言葉は溶けて、遠くにいる栞に届けばいいと、私は心から願った。
 
 

 
 
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