■ さよなら、愛しき世界 -中編-
 
 
 
 
「あの子の事情について、知っていますか」
 
 それは突如として掛けられた、疑問の言葉だった。
 私は日誌をまとめる手を止め、椅子に座ったまま声のした方向を仰ぐ。そこには、真面目な顔をした先輩シスターの姿がある。
 
「あの子、とは?」
「説明の必要もないでしょう。貴女の気にかけている、長谷水菜ちゃんのこと」
 
 シスターはそこまで言うと、「場所を変えましょうか」と踵を返す。私はその背中を追って、職員室を出た。そして、彼女が向かったのはお聖堂だった。
 九月の終わりの週。やはりひんやりとした空気のお聖堂の中、シスターは祭壇に向かうわけでもなく、ゆっくりと長椅子に腰を下ろした。
 
「片親なのよ」
 
 シスターは、何の前置きもなしに言った。
 
「母親の方がね、いないの」
「……というと?」
「偉そうに話して置いてごめんなさいね。私も詳しいことは知らないの。ただ、ちらっと聞いた話だから」
 
 だから亡くなったのか、離婚したのはかは知らない。シスターはそう言って大きく首を振った。
 
「どうして私に、その話しを?」
「だって、貴女に必要な情報でしょう?」
「……」
 
 聖職者というのは、時として畏怖を覚えるまでに鋭い。現に聖職者と呼ばれる私でさえそう思うのだから、それはきっと本当だ。
 事実、それは私にとってとても重要な情報だった。心を閉ざす原因、と言うのは、そうそう聞けるものではない。
 
「どうして、あの子の固執するの?」
 
 ステンドグラスから漏れる光に埃が舞い、私はそれを真っ直ぐに見詰めながら答えた。
 
「凄く個人的な事柄から、です。正しい理由ではないことは、分かっています」
「そう……。理由は何にしても、あなたの行動が間違っているわけではないわ」
 
 私たちは暫く黙り込み、シスターは大きく息を吐くと「失礼するわね」と言ってお聖堂を後にした。
 私はお聖堂に差し込む光を見ながら、考える。彼女の家族にまつわることを調べるのは難しい。個人情報の取り扱いは厳重すぎるほどに管理されおり、私のように正式な組の担当がない職員にそれを知る権利はない。単なる補佐役、宗教的な情操教育を受け持っているに過ぎないのだ。
 いや、そもそもそんな情報が必要なのだろうか。事実として彼女のそばには母親がいない。そのせいで他人に対して壁を作っているなら。
 
「――主よ」
 
 あなたの導いてくれる道が、きっとあるはずだ。
 私はお聖堂を出ると、運動場をぐるりと見渡した。真夏に比べれば随分と光度を落としたように思える太陽が、はしゃぐ声たちへと降り注いでいる。
 鉄棒の傍ら、遊具の影。次に大きな樹木の木陰へと視線を移した時、やっと彼女の姿を見つけることができた。
 
「水菜ちゃん」
 
 私はいつもと同じように、しゃがみながら声をかける。そしていつものように、私を映す物憂げな瞳。その瞳に悲しみの色がのっているように思えるのは、あの話を聞いた後だからだろうか。
 私は、救いたいと願った。事情を知ってからなんて遅すぎて、それは浅はかだろうけれど、心からそう思った。彼女を愛しいと、心から。
 
「シスター」
 
 その声は、縋るように聞こえた。多少の脚色があるかも知れないけれど、私はそう感じた。
 
「どうして悲しそうな顔をしているの?」
 
 私はその言葉が彼女にとって辛い言葉となるかも知れないと分かっていて、声に出した。私が一方的に彼女のことを知っているのは、フェアではないと思う。
 彼女は俯き、考え、それから少しだけ目尻に涙を溜めて、「シスター」と言って続けた。
 
「どうしてこんなに悲しいの?」
 
 それは、感情が溢れ出したかのような声だった。
 
「どうして、居なくなってしまうの? どうしてもう会えないの?」
 
 子供は感情を剥き出しにする。そこには裸の、ただ純粋な悲しみがあった。
 私はその悲しみを緩和する方法を、一つしか知らない。それは考えようによっては卑怯で、傷の舐め合いと言われるかとかも知れない。
 
「私の話しを、少し聞いてくれる?」
 
 本当はこんなこと、言うべきではないのかも知れない。そう思いながらも私は、静かに彼女へと語りかけていた。
 
 

 
 
 両親が亡くなったのは、私が小学三年生の時のことだった。
 ある休日、両親は私を祖父の家に預け、知人宅へと向かっている時のことだ。峠道、無理な追い越しをしようとした大型トラックとの正面衝突。即死で、苦しむことはなかったはずだと言われても、それは私にとって納得のいくことではなかった。
 思えば、私は随分と両親に依存していたのだろう。私は親戚の家に引き取られてからも、身体に鞭打つような悲しみに泣くことしかできなかった。学校にもいかず、両親のことを思い出しては滂沱の海に溺れることしか、私にできることはなかったのだ。
 ――消えてしまいたい。
 涙が枯れてからも、私は度々そう思った。あの時一緒に車に乗っていたら、こんな思いをすることはなかったのにと、本気でそう思っていた。
 
 とある日曜日だ。泣かない代わりに声すら出さなくなった私を、叔父は教会へと連れていった。そこでは、当然のようにミサが行われている。
 私はそのミサを、ただぼんやりと過ごした。両親がクリスチャンだったという影響もあって、ミサには何度も参加したことがある。だからいつものとは違った協会でのミサだったわけだけれど、私はちっとも集中していなかった。ミサは単なる日曜日の習慣の一部であり、つまり幼い私には信仰心など皆無だった。
 
 ミサが終ると、叔父は私をある部屋へと通した。そこにはさっきまで教会の中で見かけていたシスターが、静かな表情で待っていた。
 シスターは、既に事情を了解していたらしい。それはまるでカウンセリングのような、特別な説教だったのだ。
 
「私たちの考えでは、あなたの両親は神の御許で、幸せに暮らしています」
 
 シスターは、まず私にそう言った。それから死後の五つの世界の話をして、あなたの両親は天国に行けたのだと。
 きっと私がもう少し歳をとってひねくれていたら、そんな話は信じなかったと思う。この時はまだ、自分が何を信じていいのかすら分からなかったのだから。
 
「死を恐れることはなかったでしょう。死は永遠の幸福への門出でもあるのです」
 
 私はシスターの言葉に、ポロポロと涙を溢しながら頷いた。
 ――あなたの両親は、決して不幸だったわけではない。
 その言葉は何よりも信用できて、そして信じたいことだった。きっとこの時から、私は神に縋ったのだ。
 
「だからあなたの両親は今、幸せに暮らしているのです」
 
 そして私はまた、思うことがある。
 ならば、ならば――!
 どうして、私を連れていってくれなかった? 私もそこで一緒に居たかった。その為なら、死だって怖くない。こんな世界は寂しすぎる。
 
「いいえ」
 
 私の訴えに、シスターは大きく首を振った。とても優しい、全否定だった。
 久保栞さん、とシスターは呟くと、私の頬にそっと触れる。
 
「神は、私たち一人ひとりを愛して下さった。だから私たちはここに生を受けているのです」
 
 そう言って、シスターは優しく私を抱き締めた。
 私はその腕の中で、大声を上げて泣いた。生きなさい、という言葉に頷き、私は確かに心の中の明かりを見た。
 抱き締めてくれた腕の温もりを、私は今でも覚えている。それはマリア様に抱き締めれているような安堵と、そして触れることができなくなっていた愛を、私にくれたのだ。
 
 その日から、私は両親を思い出して泣くことはなくなった。
 そうして私は何度もミサへと足を運び、やがてシスターになることを決心したのだ。
 
 

 
 
 私は話し終えて、「はぁ」と肩の位置を下げた。
 いつもの木陰、運動場や校舎からの死角。ふと視線を上げれば、柵の向こうに名も知らぬ草花がそよいでいる。
 
「……」
 
 水菜ちゃんは。
 微かに肩を震わせ、自分を抱くようにして腕を抱えている。私は確かに慟哭の兆しを察知して、そっと肩を抱く。
 
「私も、なの?」
「え?」
「私も、愛されるために生まれてきたの?」
 
 縋るような瞳に、私は深く吸い寄せられる。もちろん、と首肯すると、彼女は声を殺して泣いた。
 私にできるのは、あの日のシスターのように、彼女を優しく抱き留めることだけだった。彼女が私の話の何割を理解できているのか分からない。それでも、彼女の涙は私の涙と同じなのだと、それだけはしっかりと肌で感じることができた。
 かみ殺した泣き声は、喧騒に紛れる。やがてすっかりと木陰の形が変わると、水菜ちゃんは泣き腫らした目を擦りながら顔を上げた。
 
「シスター」
 
 ありがとう、と呟く唇と、その小さな笑顔を、私はきっと忘れない。
 何故だかその笑顔が、遠い日の聖に重なって見えたから。まるで欠けたピースを見つけられたような、そんな喜びに心が満ちたから。
 
 

 
 
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