■ さよなら、愛しき世界 -前編-
 
 
 
 
 
 私は窓を破りたかった。
 
 無情にも無機質な、車輪がレールを叩く音。その音が私を鼓舞しているというのに、身体は動かなかった。
 ここから出て、激しく身体を打とうとも立ち上がり、その名前を叫び、もう一度抱き締めるために、私は窓を。
 
「……さようなら、聖」
 
 冬曇りの車窓に映った顔に、涙が一筋伝う。
 きっと割れたのは窓硝子ではなく、私の心で、彼女の心。
 
 高校一年の冬。
 私は一つを守るために、全てを失った。
 
 
 
 

 
 
 
 
 残暑の香る九月の初め。室内には「コオォ」と冷たく低い音が鳴り響いていた。
 
「シスター」
 
 そう呼ばれるようになって、どれだけ経っただろうか。
 私は帳票をつける手を止めると、幼い声に振り返り、その声の主を視界に捕らえた。
 
「どうしたの、裕香ちゃん」
 
 うっすらと冷房の効いた、職員室。私はそこに裕香ちゃんという一人の女の子がいることに違和感を覚えた。幼稚園に子供たちが残っているにしては、いささか遅い時間なのだ。
 ――そう、幼稚園。
 北国と呼ばれる地方にある、カトリック系のこの幼稚園が、今の私の居場所だ。
 
「見て、シスター」
 
 そう言って差し出されたのは、四葉のクローバー。まあ、と嬉しさを声に出しながらも、私の疑問はまだ拭えない。
 
「わざわざ見せてきてくれてありがとう。でも裕香ちゃん、どうしてこんな時間まで残っているの?」
「ママ、最近迎えに来るのが遅いから」
「……そう」
 
 それにしてもどうして一人で、と思っていると、職員室の窓がコンコンと叩かれる。硝子の向こうでは、石橋先生が手を振って笑っていた。
 
「裕香ちゃん、他の先生方にも見せて上げて」
「うん!」
 
 早速隣にいる先生、……正確には『教諭』に見せに行くと、「あら」と嬉しそうな笑い声。その様子を見届けると私はゆっくりと立ちあがり、職員室を出て石橋先生に会釈した。
 
「裕香ちゃんのところ、最近立て込んでいるみたいでね」
「そうなんですか」
 
 ふと職員室を覗き込めば、そこには沢山の笑顔があった。
 そんな笑顔を見るたびに、私はここには全てがあると確信する。シスターになると言うことは、個人的な財産を捨てることに等しいけれど、ここには全てがある。
 失礼します、ともう一度だけ会釈をして、私はその場を離れた。廊下を端まで歩き、校舎を出る。日差しに片手を上げながら右手方向に身体を向ければ、お聖堂はすぐそこにある。
 
 お聖堂の中は、職員室ほどではないにしろ涼しかった。ステンドグラスを通して緩くなった光が、静謐とならんだ長椅子の道を照らし、私は導かれるようにして祭壇へと歩みを進める。
 一日に七回のお祈りは、欠かしたことがない。それは洗礼名を受けてからも、懇意にして頂いたシスターに「あなたの将来の幅を広げるために」と幼稚園教諭の資格をとることを奨められてからも、ここに居場所を見つけてからも。
 
「……」
 
 身体を折り、跪く。十字を切り、静かに手を合わせる。
 祈りの時間は、本当にそれだけのことしか考えない。ただ黙想し、天使祝詞を唱える。ポケットから取り出したロザリオは、その為にある。
 だから誰の顔だって浮かばない。誰の、顔だって。
 
「――っ」
 
 不意に浮かんできそうになるイメージを、私は集中力で打ち崩す。違う、それは今考えることじゃないと、脳の髄に言い聞かせる。
 それは本当に何度も、祈りの時間にやってきては私を苦しませるのだ。割れた心の破片は尚も私の心に突き刺さり、何年という月日が経ってもなお鋭い痛みを伝えてくる。
 
「――ああ」
 
 祈りを終え、私は息を吐いた。繊細な、それでいて朴訥な十字架の前で。
 私は立ち上がり、逃げるようにしてお聖堂を後にする。……否、事実逃げているのだ。
 扉の立てる無骨な音を背中で聞いて、私はもう一度大きく息を吐いた。運動していたわけでもないのに、額には汗が滲んでいる。
 涼をとりたい。そう思って私は木陰に身を寄せ、天を仰いだ。そこには蒼穹を遮る葉たちが、日差しに透かされた健康的な緑を以って、私の視界を癒してくれる。
 
「……聖」
 
 今でも時たま。いや、よく思い出す。あの優しい表情を、請うような瞳を。――私を待つ、祈るような横顔を。
 年の暮れ、冷たい夜のヴェールが降りた駅のホーム。そこで佇立する聖の姿は、シスターとしての初請願を果たした今でさえ色褪せず。まるで網膜に焼き付いたかのように、私の時はあのシーンで止まっている。
 
『あなたたちのことを思って、私は言っているの』
 
 遠い昔の、学園長の言葉。慈悲深い表情に神々しさを確かに感じていて、私は神の御言葉だとさえ思っていた。
 それでも、私は「もう会わない」とは言いつつ聖と会った。逃げようという提案に、首肯した。
 そして、もう一度。
 もう一度、私は約束を破った。あの祈るような横顔から、目の前に迫った現実から逃げだした。
 両親との死別に決心したことに揺るぎは生じたものの、結局私は私の道を選んだ。きっとそれが聖のためだと思ったけど、私は何度の別の可能性を考えた。
 私が聖の前に歩みを置けば、きっと彼女は笑ってくれた。辛くても、ろくな生活ができなくても、二人で生きていけたかも知れない。そう思うたび、後悔に胸が締め付けられた。
 
 きっと正解なんてない。
 あったとすれば、お互いが今、幸せに生きているかどうかだ。
 
「聖」
 
 あなたは今、笑って生きている?
 唇がその言葉を形作った瞬間に風が舞い起こり、私の髪が――あの頃よりもずっと短くなった髪が、宙を泳ぐようになびいた。
 
 

 
 
『あなたは素晴らしい聖職者になれる』
 
 それは、私を幼稚園へ派遣することを推して下さったシスターの言葉だった。
 年老いた、権威のあるシスターだった。私は心から慕っていたし、もっとも信用できる人だった。
 
『あなたの純朴な人柄は、人に慕われるものよ』
 
 だけど。
 その言葉だけは、鵜呑みにすることは出来なかった。
 
「水菜ちゃん」
 
 運動場の端、遊具の影。私は声を掛けながらしゃがんで目線を合わせると、物憂げな瞳が私を映し出す。
 その瞳は決して歓迎の色を灯しているわけではなく、歳に似つかわしくない鋭い視線が、氷のような冷たさで私を迎え入れる。
 
「みんなと遊びましょう?」
「……いいの」
 
 私の言葉に、水菜ちゃんは小さく首を振った。
 つまらなさそうな表情と、他を排除する仕草。私がこの少女に慕われていないことなんて、火を見るより明らか。
 集団生活の中ではありがちな光景だ。コミュニケーションが上手く行かず、輪に入れない園児は少なからずいた。それを円滑にできるようにするのが幼稚園という場所の大きな目的であるわけだけど、この少女は少し違った。馴染めないわけではなく、人との関わりを拒絶している。
 周囲に向ける冷ややかな視線や、アイロニカルな態度。その様子を見るたび、私は少女を彼女と重ねてしまう。
 水菜ちゃんが、異国風の顔立ちというのもあるのだろう。……いや、実際に異国なのだ。彼女は欧州人と日本人のハーフだから。
 周囲が拒絶しているわけでは、決してない。もちろん、その容姿が原因ではないことは確かだ。この幼稚園には外国人夫妻の子供が二人通っていて、そのどちらも上手く馴染んでいる。
 
「水菜ちゃ――」
 
 私がもう一度話しかけた瞬間、水菜ちゃんは駆け出した。それは予想外に俊敏な動きで、私の横をするりと走りぬけて行った。
 色の薄い髪の毛が太陽に透かされ、走り去る姿はまるでドラマのワンシーンのよう。私は水菜ちゃんが木陰でしゃがみ込んだところで、ゆっくりとその後を追う。
 
「シスター」
 
 ――と。そこで私を呼び止める声。シスターはこの幼稚園に複数人いるけれど、近くに他のシスターがいたなら、『シスター久保』と呼ばれるはずだった。
 
「はい」
 
 私が振り向くと、最近中年太りに悩んでいるらしい高沢先生が、「こっち」と手を上げて合図をしていた。
 
「彼女が逃げ出すっていうのはね、何をしてもダメなんだよ」
「はあ」
 
 生返事を返すと、高沢先生は頷いて続ける。
 
「一度逃げたらね、何度話しかけてもまた逃げてしまうからね」
 
 僕のように学習能力がないと嫌われてしまうよ、と、高沢先生は苦く笑った。
 しかし私は、その意見を否定しなくてはいけない。確かに高沢先生は近づいてくるだけで避けられてしまうという状態に陥ってはいるけど、それはきっと彼がタバコ臭いからだ。事実、私は何度も追いかけては話しかけるし、その度に逃げられようとも、それから避けられ続けるということはなかった。
 
「ご忠告、ありがとうございます」
 
 だから、私はまた彼女を追いかける。高沢先生が「やれやれ」と首をすくめても、だ。
 私はゆっくりと、園内で最も大きな樹木へと歩みを進めた。やがて木陰にはいると、水菜ちゃんと同じく身をかがめる。
 
「ボール遊びは嫌い?」
 
 私はゴムボールで遊ぶ園児達を見た後、水菜ちゃんに微笑みかけた。しかし私の方など見ていない彼女にとってその微笑の意味などなく、水菜ちゃんは辛うじて分かる程度に首を縦に動かしたに過ぎない。
 
「……すきじゃない」
 
 俯いたまま、水菜ちゃんは細々とそう声にした。
 
「じゃあ、滑り台は?」
「……」
 
 彼女は無言で立ち上がり、そしてやはり駆け出した。
 その背中をやはり走って追うことはせず、私はまた歩く。
 
 きっと教育者と意地ではなく、私の個人的な意地だ。心を開いて欲しい、もっと素直になって欲しいなんて、そんな願い。
 彼女は『あの人』で、彼女は私。――走り去る背中を見ながら、私は遠い昔を回顧していた。
 
 

 
 
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