■ その少女、青信号につき -後編-
 
 
 
 
 由乃が『それ』に気付いたのは、午後五時を回ろうかという頃だった。
 
「ねえ、祐麒君」
 
 言いながら、祐麒君の服の袖を引っ張る。
 ただ今、ウインドウショッピングの真っ最中。ショーウインドウの中の商品についてあーだこーだ言いながら歩いていると、何となく『それ』に気付くことができたのだ。
 だって、行く先々に同じ三人組がいるなんて、そうあるものじゃない。
 
「どうしたの?」
 
 顔をこちらに向ける祐麒君の服を更に引っ張り、街路樹の陰に隠れる。そして、耳打ち。
 
「私たち、つけられてる」
「は? 誰に?」
「うーん。あのクセッ毛は祐巳さんかな。後、髪型変えているけど志摩子さんと乃梨子ちゃんも一緒みたい」
 
 後ろを振り返って確認したわけじゃないけど、今もあの三人組が遠目でこちらを窺っていることだろう。まったく、あの程度の変装で由乃の目を誤魔化せると思っているのだろうか。
 
「あ……。確かに、祐巳のあの服は見たことがある」
 
 祐麒君は由乃と向かう合うようになると、ちらりと後ろを確認して言った。ということは、やっぱり祐巳さんたちであっているのだ。
 
(ああ、悔しい――)
 
 一体何時から見られていたのだろう?
 以前、令ちゃんとちさとさんのデートをつけたことがある由乃だから、面と向かって文句は言えない。だからこそ煮え切らないというか、素直に怒れないのが悔しい。
 
「……何で俺たちをつけるんだろ?」
「決まってるじゃない。興味本位か、心配してるんでしょ」
「心配って、由乃さんの?」
「いいえ、祐麒君の」
 
 ここで間違っても「私の心配してるんでしょ」とは言えない。そんなの情けないし、それじゃまるで由乃が手の付けられない暴走特急みたいではないか。……まあ、それと何が違うと言われれば、言葉に詰まってしまうのだけど。
 
「何で俺の心配なんか……」
「まあ、それが姉心ってヤツよ、たぶん。まったく祐巳さんったら、実はブラコンなんじゃないかしら」
 
 腕組して言うと、祐麒君は困ったような顔になる。その表情の真意は分からないけど、尾行に対して肯定的でないのは確かだった。
 
「どうしよう。撒こうか?」
「うーん、それでもいいんだけど」
 
 それだけだと、何か決めの一歩に欠けるというか。撒いたところで、この悔しさは消えないわけだ。
 平たく言えば、一泡ふかせてやりたい。このデートの見物料は、割り増し料金じゃないと納得がいかない。
 
「とりあえず、歩こう。祐巳たちが怪しんでる」
「……そうね」
 
 言われて、また歩き出す。どうして由乃たちの方が気を使わなくちゃいけないんだと思ったけど、途中で尾行を止められたら撒くのと一緒の結果になってしまう。
 何かいい手はないものだろうか。肩からさげたバッグから『猫侍』と取り出すと、何とか言いなさいよと見詰める。
 このぬいぐるみは、別に本当に欲しかったわけではない。令ちゃんが「もしゲームセンターに行ったら、景品をねだって甲斐性を調べなさい」とか言うから、義理でお願いしたのだ。
 しかし予想通りというか、祐麒君はかなり気合を入れてこれを取ってくれたから、それはそれで何だか嬉しかったんだけど。まあ、それは置いておいて、どうやって祐巳さんたちを驚かすか。そう、この状況を逆手に取ったような――。
 
「……閃いた」
「え?」
 
 頭の中で、ピカーンで電球が光った気がした。
 あるじゃないか、この状況をうまく使った仕返しが。
 
「祐麒君、ちょっと協力して欲しいんだけど」
 
 そう言ってまた祐麒君を街路樹の陰に引っ張りこみ、二度目の耳打ち。
 ゴニョゴニョ、と由乃の考え付いた作戦を話すと、祐麒君は目を見開いて驚いた。
 
「ほ、本当にするの? それ」
「もちろん」
「由乃さんは、嫌じゃないの?」
「別にフェイクなんだし、問題はないわよ」
 
 ふふふ、と声に出して笑う。
 そして背中越しの友人たちに、高らかに宣言するのだ。
 祐巳さんたち、見てなさいよ! ――と。
 
 

 
 
 人いきれに熱された、夕暮れ時。
 相変わらず流れを止めることを知らないK街の人波に揺られながら、祐巳たちはなおも尾行を続けていた。
 
「さっきからよく立ち止まりますね」
 
 結った両サイドの髪を揺らしながら、乃梨子ちゃんが言う。確かに、今まで順調だった足取りは途切れがちである。次にどこへ行こうか、検討しているのだろうか。
 
「ところでさ」
 
 二人の歩みが止まったのを機会に、物陰に隠れながら問いかける。
 
「今まで見てて、どう思った?」
 
 祐巳の問いに、白薔薇姉妹は「うーん」と考えこむ。
 ちなみに祐巳の持った感想と言えば、「いいんじゃないの?」である。少なくとも由乃さんの機嫌はいいみたいだし、暴走の兆しは見えない。祐麒の方も上手く由乃さんに合わせていると思うし、何より由乃さんがあんなにコロコロ笑うなんて、考えたこともなかった。接点なんてほとんどないと思っていた二人だけど、意外と相性がいいのかも知れない。
 
「私は」
 
 頬に手を沿えて考え込んでいた志摩子さんは、おもむろに口を開いた。
 
「とりあえず、由乃さんが大人しくしているようで安心したわ」
「――」
 
 ああ、流石は志摩子さん。祐巳と同じ杞憂をしていたらしい。
 
「私が思うに」
 
 志摩子さんに続いて、乃梨子ちゃんも意見を述べる。
 
「何だかもう、付き合っているみたいですよね」
「――」
 
 うーん、これはちょっと踏み込んだ意見である。
 確かに、あの二人は付き合っている、と言われれば、納得してしまいそうな雰囲気なのだ。由乃さんはきまぐれに笑いかけては、祐麒もまた笑顔で返す。それはもう嫉妬しそうなぐらい――だったけど、それは由乃さんと祐麒、どちらに対してなのか、祐巳自身も分からなかった。
 
「それにほら、手まで繋いでますし」
「え――?」
 
 手まで繋いで? と由乃さんたちの方を見る。すると何としたことか、いつの間にか歩き出していた二人は、しっかりと手を繋いでいるではないか。
 
「……おい」
 
 思わず、突っ込みも入るってものだ。
 しかもただ手を繋いでいるのではなく、指と指を絡ませあっているのだ。触れ合いそうな肩の距離なんか、まるで恋人同士。
 
「まあ」
 
 口を押さえ、心なしか目を大きくした志摩子さんは、きっと『結局暴走しちゃったか』と思っているのだろう。
 しかし、一体誰がこんな風に突っ走り出すと予想できただろう?
 二人の相性がいいというのは、まあ認めよう。しかし、祐麒も祐麒だ。仮に由乃さんの方から手を繋いだとしても、どうしてそこまで密着度の高い手の繋ぎ方をする。
 
「どこか、行くところが決まったみたいですね」
 
 乃梨子ちゃんの言うように、二人の足取りは目的地を定めたように速くなる。そうなると当然祐巳たちの歩みも速くなるわけで、はぐれないように苦労しながら人波を泳ぐ。
 やがて着いた二人の目的地はというと、K駅近くの都立公園だった。
 
「はて」
 
 祐巳は首を傾げる。
 
「どうしたの、祐巳さん?」
「いやね、今日の由乃さんたちの待ち合わせ場所って、ここだったから。どうしてまた戻ってくるのかな、って」
「イチャつきたいだけでは?」
「……乃梨子ちゃん」
 
 乃梨子ちゃんたら、さっきからガンガン攻め込んだ意見ばかり。まあ乃梨子ちゃんは高校受験組みだから、こう言った男女の関係というヤツには、祐巳たちより敏感なのかも知れない。
 その証拠に、由乃さんは繋いだ手を離した代わりに、祐麒の腕を抱き締めるように絡みついている。
 
「おいおい」
 
 思わず、突っ込み二回目。
 何なんだ、この展開。例え由乃さんが祐麒のことを気に入ったとしても、ちょっと展開が早過ぎるんじゃないの?
 さてどうしたものか、と志摩子さんたちの方を見ると、乃梨子ちゃんは志摩子さんの腕を見て「はぁ」と溜息を吐いていた。……近頃乃梨子ちゃんは、本当にリリアン生らしくなってきたと思う。

 
「どこに行くのかしら」
 
 由乃さんはギュッと祐麒の腕を絡め取ったまま、祐麒は照れた表情のまま、どんどん公園の奥へと歩いて行く。
 都立公園は、そこそこ広い公園だ。噴水もあれば、ガーデンもあり、休憩所もあれば、あまり人の寄りつかない場所もある。
 
「何だか、人気を避けているみたいだけど……」
 
 二人の向かう先は遊歩道。日の照っている時であれば、お爺さんがのんびり日向ぼっこをしていそうなここも、日の傾いた今、忘れ去られたように人影がない。
 あるとすれば、チラホラと見えるカップルぐらい。つまりは、いい雰囲気を作るためにあるような道だった。
 
(これ以上、つけて行っていいものなのか)
 
 ふと、そんな考えが浮かんでくる。ここまで二人を監視しておいて今更という気もするが、このままつけて行けば、これ以上にとんでもない光景を見ることになるかも知れない。
 そうなる前に退散しよう、と進言しようとした瞬間、由乃さんが祐麒の方を向く。あそこからだと、祐巳たちの姿が見える可能性がある。
 
「まずいわ」
 
 その危険にいち早く気付いた志摩子さんは、驚くほど俊敏な動きで祐巳と乃梨子ちゃんの腕を掴むと、さっと木々の陰に隠れる。
 
「……危なかったね」
 
 結局、尾行を止めるタイミングを逃してしまったし。
 ここまで来たら仕方ない、と腹をくくると、また由乃さんたちの方をちらり。由乃さんは真剣な目で、祐麒に何かを話している。対する祐麒は一言何かを呟き、こくりと頷いた。
 
「何を話してるんでしょう」
 
 乃梨子ちゃんが、そう行った矢先だった。――由乃さんの顔が、祐麒の顔に急接近したのは。
 
「……うそ」
 
 これ以上とんでもない光景を見ることになるかも知れない、とは思ったけど。
 そろそろ止めた方がいいかも知れない、とは思ったけど。
 
「キス、しましたよね」
 
 まさかこんな場面まで見てしまうとは、想像も出来なかった。
 
「ええ……。由乃さんの方から」
 
 薄暗いからよく見えなかったけど、確かに由乃さんと祐麒の唇は重なった。静かに瞼を閉じた由乃さんの方から、唇を寄せて。
 由乃さんは指で唇を撫でて何かを呟くと、また祐麒の手を絡め取る。頬を染めた二人は、また遊歩道を歩き出す。
 
「……」
 
 祐巳たち三人に残されたのは、重い沈黙。もはや誰も、由乃さんたちの後を追おうとはしない。
 
「……帰ろっか」
 
 祐巳の言葉に、志摩子さんは「そうね」と頷く。
 正直、ショックだった。
 由乃さんの一番は、令さまだったはずなのに。それが簡単に捻じ曲げられてしまったみたいで、これ以上何かを考えたい気分じゃなかった。
 
「待って下さい」
 
 のそりと木の陰から抜け出したところで、乃梨子ちゃんが言った。
 
「何か、落として行ったみたいですよ」
 
 言われて見てみれば、確かに二人のいた場所に何かが落ちている。
 何だろうか。もし落とし物なら後で渡しておかなくては。いや、それをすると尾行していたとバレるか。
 そんなことを考えながら近づいてみると、それは猫のぬいぐるみだった。紋付羽織袴に刀を持った、『猫侍』とか言うキャラクターのぬいぐるみだ。
 
「紙を持っているわね」
 
 志摩子さんの言う通り、猫侍は両手……もとい前足に紙を持っている。
 その紙を取り、裏返す。由乃さんが学校でよく使っているメモ用紙。その紙に書かれていたのは――。
 
『ビックリした?』
 
 はたと二人の歩き去った方向を見ると、腕組した由乃さんが、したり顔で笑っているところだった。
 
 

 
 
「はぁ……。そういうことだったの」
 
 そんな呟きが聞こえたのは、ファミリーレストランの一角。
 祐麒たちと合流し、由乃さんから説明を受けた祐巳たちは、一斉に肩から力を抜いてそう言ったのだ。
 つまりは、こう。由乃さんが祐巳たちに気付いた後思いついた作戦は、『恋人みたいに振舞って祐巳さんたちを驚かせてやろう』というものだった。そしてその作戦の極め付けが、キスだったわけだが――。
 
「そう。本当にキスするわけないでしょ?」
 
 由乃さんの言う通り、あれはフェイクだ。祐巳たちのいる方向からはキスをしたように見えるよう、顔をずらして近づけただけ。
 だけど。――と、祐麒は先ほどの出来事を思い出す。
 あれは、それだけではなかった。
 
「どうしたの祐麒、さっきから黙り込んで」
 
 ふと、祐巳に顔を覗き込まれ、思考に沈んでしまいそうな自分を引き上げる。
 その言葉に反応するようにスプーンをドリアに差し入れると、その切れ目からのぼってきた湯気が視界を遮った。
 
「……別に」
「あの。やっぱりつけたこと、怒ってらっしゃいますか?」
「そういうわけじゃないけど」
 
 祐巳に続けて質問してきた乃梨子ちゃんに、かぶりを振って答える。
 考えごとをしていたというのもあるが、もう一つの理由は察して欲しい。女の子は由乃さん、祐巳、志摩子さん、乃梨子ちゃんと四人に対し、こちらは祐麒一人なのだ。人並み以上に整った顔立ちの女の子たちに囲まれたタヌキの気持ちを、誰か代弁してくれないだろうか。
 
「それならよかったわ。二人とも楽しんでいたようだし」
 
 志摩子さんはフォークにパスタを巻き付けながら、微笑して言う。
 楽しんでいたようだし、と言うことは、少なくとも志摩子さんの目には、祐麒たちが楽しんでいるように見えたわけだ。
 事実、由乃さんとのデートは楽しかった。知らずに口元が緩んでいたことなんて、何度あっただろうか。
 
「そうだね。由乃さんはどうだった?」
 
 クセッ毛をピョンピョンと跳ねさせながら、祐巳は由乃さんに問いかける。由乃さんはスプーンをスープの中に突っ込むと、にこやかに答える。
 
「そりゃ、楽しかったわよ。さっきの祐巳さんたちの顔ときたら」
「もう。そっちじゃないでしょ」
 
 頬を膨らませて文句を言う祐巳に、由乃さんは「おほほ」と笑う。それだけ祐巳たちに一泡ふかせたことが愉快なのだろう。
 
「分かってるって。楽しかったわよ、映画も、その後も」
 
 そう言った由乃さんの顔は本当に楽しそうだったから、祐麒は心の底から安心した。これで「つまらなかった」とか言われたら、一生立ち直れそうにない。
 
「あーあ」
 
 由乃さんは椅子のせもたれに背中を預けると、大きく伸びをする。そして祐麒を真っ直ぐ見て、一言。
 
「祐麒君が、女だったらいいのに」
「――はい?」
 
 思わず固まる、福沢姉弟と白薔薇姉妹。
 今何て? ――と訊こうとしたところで、由乃さんは更に一言。
 
「それで今一年生だったら、妹にしてもよかったかもね」
「――ごほっ、こほっ!」
 
 何だどうしたと思って見てみたら、驚きすぎた祐巳が食べ物を喉詰まらせたか、器官に入らせるかしたらしい。祐麒が背中を撫でてやると、やっと咳くのを止めた祐巳が、涙目になって言う。
 
「あのね、由乃さん」
「何よ。もしもの話でしょ?」
 
 由乃さんはけらけら笑いながら、祐巳の背中を叩いた。
 
(しかし、妹って)
 
 何とも実感の沸かない言葉である。かの姉妹制度については、色々祐巳から聞いて知ってはいる。
 確か姉妹関係の破局は離婚に等しいという話だから、つまりは姉妹になることは結婚だとでも言うのだろうか。――そこまで考えると、どうして祐巳があそこまで驚いたか、納得がいった。
 
「由乃さま、それって」
「告白、なのかしら」
「はいそこの白薔薇さん一家、勘ぐりすぎよ」
 
 由乃さんはビシッとスプーンを突きつけると、二人とも口を噤む。ああやっぱりと安心する反面、少しだけがっかりしているのは、仕方ないことだと思う。
 
「でも、どうしてそう思うの?」
「うん? だって、祐麒君可愛いし、よく気が利くし」
 
 祐巳の問いに、由乃さんは指を折りながら答える。可愛い――とは褒め言葉であるが、男としてそういう風に形容されるのは、正直どうしたものか。
 さて、これに何てコメントしようか。……と考えていると、先に祐巳が口を開く。
 
「ああ、そっか。でももし祐麒が女の子で一学年違っていたら、私が妹にしていたと思うな」
「――ごほっ、ごほっ!」
 
 今度は、祐麒が咳く番だった。
 
「どうして?」
「令さまが由乃さんを妹にしたのと、一緒の理由じゃないかな。やっぱり実の妹だと、深く考えないでもロザリオを渡せそうだし」
「でも祐巳さんと祐麒君の場合、祐麒君の方が姉に向いていると思うわね」
「あ、それ酷い」
 
 祐巳が頬を膨らますと、志摩子さんは笑いながら「祐麒さんはモテるのね」と言った。それは多分違うと思ったけど、乃梨子ちゃんはコクコクと首を縦に振っていた。
 
(たぶん、どちらの妹になっても苦労するんだろうな)
 
 祐麒は本心からそう思ったけど。
 そう口にした矢先に凄い抗議を受けそうだから、祐麒は黙って成り行きを見守るのだった。
 
 

 
 
「わざわざごめんなさいね。いくら祐巳さん命令とはいえ、送って貰っちゃって」
「いや、元から送っていくつもりだったから」
 
 太陽がなりを潜めて久しい頃。爽涼な風が祐麒たちの間をすり抜けては、二人の髪を揺らす。
 デートの帰り道、というのは、往々にして女の子を送っていくもの。それに乗っ取った祐麒は、ゆっくりとした足取りで、由乃さんの家路を辿っていた。
 
「夜になると、ちょっと冷えるわね」
 
 由乃さんはそう言って、自身の腕を抱く。
 見上げた夜空には、漆黒。一体いつから、空は星を忘れたのだろう。
 
「そうだね」
 
 ありきたりな言葉を返しながら、上着を着て来るべきだったと今更後悔する。つい一年ぐらい前まで身体が弱かったと聞いているから、なおさら。
 
「……」
 
 そして、無為に訪れる沈黙。
 決して言葉が足りないのではなく、言葉の必要がない沈黙だと。何となくそう思う。
 
(何で由乃さんは、平気な顔をしていられるんだろ)
 
 ふいに考える暇が出来てしまうと、ついついあの時のことを思いだしてしまう。
 今でも脳裏によみがえるのは、フェイクのキス。
 顔を重ねて見せるだけの、ただの真似事。しかし、本当にそれだけだったかと言われれば、違う。
 あの時、由乃さんが目を瞑っていたのがいけなかったのだろう。決して触れ合うことのないはずの唇が、わずかに、微かに祐麒の頬に触れたのだ。
 
『……ごめん』
 
 由乃さんの方も、予定外だったのだろう。頬を染めて呟く彼女が、途轍もなく可愛らしくて。どうにかなってしまいそうな衝動は、今も胸の奥で燻っている。
 
「あー、今日ははしゃぎ過ぎて疲れたかも」
 
 だと言うのに、由乃さんはあの出来事がある前と変わらず、祐麒に接している。
 
「とてもそうは見えないけど?」
 
 ちょっと唇が触れたぐらい、由乃さんにとっては何でもないことなのか。――そう考えると、自分自身の存在すら虚しくなる。
 
「あら、本当なのに。あーあ、誰かおぶってくれないかなぁ」
「冗談でしょ?」
「うん」
「何だ、それ」
 
 どちらからともなく笑い出して、どちらからともなく笑顔が零れる。
 ああ、やっぱり。由乃さんが笑うと、つられて笑ってしまう。彼女の表情の一つ一つが、こんなにも心をかき乱す。
 
「あ、ここが私の家」
 
 言われて、足を止める。視線を上げて見ると、垣根を巡らせた広い敷地の中に、二軒の家が建っている。支倉・島津と表札が並んでいるのを見るに、確かにここが由乃さんの家であるらしい。
 
「送ってくれて、ありがとうね。今日は凄く楽しかった」
「うん、俺も楽しかったよ。よかったら、また誘って」
「うん……」
 
 ふと。
 何故か訪れる、二度目の沈黙。後は二人とも踵を返しながら、「またね」と言えばいいだけなのに。
 ただ向かいあったまま、時が凍りついたように動かない。――いや、動けない。
 
「あのね」
 
 切れ目から袋の口が切られるように。あっさりとその沈黙を破ったのは、由乃さんだった。
 
「目、閉じててくれる?」
「は?」
「いいから、ほら」
 
 言われるがまま、目を閉じる。
 何でとか、どうしてとか、訊きたいことはあったけど、由乃さんの声色はそれを許していない。
 
(まさか、なぁ……)
 
 ありがちな展開だと、ここで唇か頬にキスとかあるのだが。それが出来るのであれば、あの時キスの真似をする必要はないわけだ。
 じゃあ何故? と疑問が渦巻いた、その時だった。
 ――唇に、柔らかいものが押し付けられたのは。
 
「……!?」
 
 驚いて、目を見開く。そこにあったのは、アップになった由乃さんの顔――ではなく、これは猫侍?
 
「ビックリした?」
 
 ぬいぐるみを祐麒の前からどけた由乃さんは、にししと笑った。
 そりゃそうだよな、と祐麒は思う。あれは明らかに唇の感触じゃなかったし、由乃さんがそんなことするわけないし。
 ……それでもガッカリしてしまったことは、決して口にはしまい。
 
「残念。私の唇は、そんなに安くはないのでしたー」
「あ、ああ」
 
 おどけて言う由乃さんに、ぎこちない返事。
 由乃さんは祐麒の反応に首を傾げると、急に表情を変える。
 
「あれ、怒った?」
「は。あ、いや、そう言うのじゃないけど」
「そう。ならいいんだけど」
 
 三度目の、沈黙。
 じっと見詰めあったまま、手足が縛られたかのように動けない。
 いつまでも見続けるなんて、不躾だろう。そう自分に叱咤しても、絡まった視線は解けない。
 
「あの」
 
 同時に紡ぎ出される、全く同じの言葉。それが妙に気恥ずかしくて、二人同時に目を逸らす。
 
「それじゃ、またね」
「……うん。また」
 
 そう言うと、今度こそ踵を返す。直接見たわけじゃないけど、その動作はきっと二人同時だった。
 星の無い夜空の下、一人歩く。トボトボと、ゆっくりと。
 
「……はぁ」
 
 由乃さんの家が見えなくなるぐらいのところまで来て、思わず溜息。
 ああ、どうして。
 こんなにも、彼女のことで頭がいっぱいになるのだろう。どうしてこんなにも、満たされた気持ちになるのだろう。
 なすがままに指でなぞる、彼女の唇が触れた頬。
 手も、腕も、その頬も。由乃さんの温もりを思い出しては、熱く疼いた。
 
 

 
 
「……はぁ」
 
 由乃は自室に戻ると、ベッドにダイブした。
 一日中歩きまわって、疲れたというのもある。けどその疲れの原因は、体力的な問題だけでもない気がした。
 
「……」
 
 何となく、唇を触る。
 当然思い出されるのは、夕暮れ時の出来事。あれはもう何と言うか、本日最大の失敗だった。
 
(あれは、ノーカウントよね)
 
 別に祐麒君の頬に唇が触れたことが嫌なわけじゃない。手を繋いだ時も、腕を抱き締めた時も、嫌悪感はなかった。
 そう、嫌ではなかった。でもあれはノーカウントだろう。そうじゃないと、困る。
 
「あー、もうっ」
 
 祐麒君といる時は、何とかあの時のことを考えないようにして、青信号で突っ走ってこれた。けど自室に戻って見れば、この様である。
 大体、祐麒君も祐麒君なのだ。サラっと流してくれればいいのに、どうしてあんなに可愛い反応をするのだろう。思い出すたびに頬が緩んでくるなんて、本当に馬鹿みたい。
 
「……由乃?」
 
 そうやって、一人ベッドの上でジタバタしていた時だった。コンコンとドアがノックされると、おもむろに令ちゃんが部屋に入ってくる。
 
「どうしたの?」
「どうしたの、って。そりゃ今日の報告でしょ」
「……楽しかった。以上」
「以上って、そりゃないでしょ」
 
 ベッドの上を転がってそっぽを向くと、令ちゃんは苦笑しながらクッションに腰を下ろす。何なんだ、報告って。報告は聞きに来るものじゃなくて、されるものだろう。
 
「で、どうだったの?」
「だから、楽しかったってば。映画も面白かったし」
「それならよかったけど。……あ、これ何だ」
 
 令ちゃんはベッドの端に置いてあったぬいぐるみを目ざとく見つけると、両手で掲げる。別に見つかって困るものでもないのに、隠したい衝動に駆られるのは何故なのだろう。
 
「もしかして、祐麒君に取ってもらった?」
「……そうだけど」
「なるほど。でも由乃の部屋には合わないかもね」
 
 言いながら令ちゃんは、部屋を見渡す。当然のように、ぬいぐるみの類なんて一つもない。
 
「うん。だから令ちゃんへのお土産にしようと思ったけど」
「けど?」
「やっぱりやめた」
 
 由乃はベッドから起き上がると、令ちゃんの手からぬいぐるみを取り返す。これはきっと、人にあげていいものではない。
 
「うん。それがいいね」
 
 令ちゃんはそれに「どうして」とは訊かず、ただ笑ってそう言った。気持ちを見透かされているようで、ちょっと癪。
 
「さて。それじゃ退散しますか」
「あれ、もう報告は終わりでいいの?」
 
 こうもあっさり引き上げられると、拍子抜けだ。令ちゃんは、もっと色々訊いてくると思っていたから。
 
「思い出をあれこれ詮索するのは、よくないよ」
「ちょっと、何よそれ」
「何でも。それじゃ、また明日ね」
 
 ちょっと待ってよ、と由乃が言う前に、令ちゃんは部屋を出て行ってしまった。
 残ったのは由乃一人。……と、猫侍が一匹。
 そう言えば、最後のアレも失敗だった。ぬいぐるみとキスさせた後、『ビックリした?』でウケると思ったんだけど、祐麒君の反応は全然そんな感じじゃなかったし。
 そうやって考え出せば、次々と思い出される今日の出来事。待ち合わせの時から映画を見るまで、そして喫茶店からウインドウショッピング。
 どれも今この瞬間のように感じることができる。それだけ今日のデートは刺激的で、印象に残ったということなわけで。そしてやっぱり思いだしてしまうのは、公園でのこと。
 
「……はぁ」
 
 再び、溜息。目の高さまで持ってきたぬいぐるみの紋付羽織袴が、ふわりと揺れる。
 
「何でなのよ、もう」
 
 こんなぬいぐるみ、必要ないはずなのに。何があっても手放したくないと願う自分が、どこかにいる。
 ベッドの上で仰向けになると、ぬいぐるみを天にかざした。それからチョコチョコとぬいぐるみを動かしてみると、照明が隠れては現れる。それを見ていると、いつも青信号(イケイケ)のはずの信号が、黄色で点滅しているように思えてきて。
 
「……」
 
 思わず、ぬいぐるみを抱き締める。
 自分でも不思議なぐらい、強く。得体の知れない感情に流されるまま、ギュッと――。
 
 

 
 
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