■ その少女、青信号につき -中編-
 
 
 
 
 翌日曜日は、これでもかというぐらいの快晴だった。
 高く澄んだ空の下、暑すぎず寒すぎない気温ですら、今日という日を祝福しているかのようだ。
 
(――だというのに)
 
 祐麒は今、待ち合わせ場所であるK駅近くの都立公園に向け、走っていた。理由は単純。天気が祝福してくれはしても、姉はしてくれなかっただけだ。
 祐巳はでかけようとする祐麒を見つけると「デートに行くのにその格好?」とファッションチェックを始め、挙句の果てにヘアメイクまでしちゃってくれた。お陰で待ち合わせ時刻の十二時半に間に合わなくなり、現在遅刻中というわけである。
 
「ぜぇ、はぁ……あ」
 
 都立公園に駆け込むと、待ち合わせの目印である噴水とともに、由乃さんが見えた。
 思わず、ドキっとする。
 本当に由乃さんか? と思ったが、サイドの髪だけ三つ編みにした長い髪を、見間違えるはずもない。
 
(それにしても)
 
 女の子というのは、服装次第で思いっきり印象が変わるものだ。由乃さんのファッションはいかにも『女の子』な雰囲気で、これでもかというほど彼女に似合っていた。噴水の前で時計に視線を向ける仕草が、そのまま眺めていたいほど絵になっていて――ドキッとした、というのは、つまりそういうことだ。
 
「――あ」
 
 駆け寄ってくる祐麒に、由乃さんの方も気付いたようだ。
 その姿をみて、ふと空想する。
 もし、由乃さんが見た目通りの女の子だったら。彼女は祐麒を見つけるやいなや微笑を浮かべ、「ゴメン、待った?」と言う祐麒に「今来たところ」と答えるだろう。
 
(いつの時代のドラマだ、そりゃ)
 
 しかしそれはあくまでもイメージ。現実の由乃さんは、時計の針と祐麒の顔を見比べると、眉をひそめた。
 
「ご、ごめん。待った?」
 
 一応、そう言ってみる。
 しかし祐麒の希望は、現実という厚い壁の前にはあまりに儚い存在であるわけで。
 
「うん、待った。十五分も」
 
 由乃さんはさらっと、現実的な数字を突きつけてきた。
 試写会は五十五分に入場締め切りと決められている。試写会の会場はK駅近くの映画館ではなく、K駅と隣の駅の中間あたりにある映画館。だから現在の時刻である十二時四十五分は、もうデッドラインぎりぎりなのだ。
 
「いや、その、本当にごめん」
「……まあ、走ってきたみたいだし。私から誘ったことだから、あんまり文句を言うのは止めておくわ」
 
 平身低頭……と言っては大袈裟かも知れないが、そのぐらいの誠意を込めて謝ると、由乃さんはあっさりと溜飲を下げた。
 ふっと緩まる表情。しかしそれは、三秒と待たずに厳しいものへと変わる。
 
「よし、それじゃ行くわよ」
 
 由乃さんはがっちりと祐麒の手を取ると、公園の出口へと視線を向けた。
 
「うん。……って、あれ?」
 
 何でこんなナチュラルに、手を繋がれて入るのだろう。いや、繋いでいるというより、引っ張られていると言う方が正しいが。
 
「もう、グズグズしないで。本当に遅れちゃう」
「あ、ああ。ごめん」
 
 やがて由乃さんが小走りになったので、祐麒も相変わらず引っ張られるような格好のまま走り出す。
 噴水を囲む花壇と、出口に向かって伸びる木立が、木漏れ日と共に次々と視界を流れていく。
 公園を出る間際に目が合った老夫妻は、柔らかい笑みで祐麒たちを見ていた。
 
 

 
 
 こんなことになるのなら、最初から由乃さんの誘いを受けておけばよかった。
 ――と、祐巳は買い物袋で片手に、ビルに縁取られた空を見上げた。日曜日のK駅周辺はそこそこ込んでいて、誰も彼も楽しそうである。
 
「はぁ……」
 
 そんな中、溜息を漏らす者が一人。言わずと知れた、祐巳である。
 現在の時刻は、午後三時前。こんな遊び時真っ只中に一人でK駅の近くにいるのには、理由があった。それは、ただのお使い。実に明瞭な理由だ。
 お母さんからお使いを頼まれた物に、近くのスーパーでは売っていない物が何点かあった。そのため、K駅近くにある専門店へ行かなくてはならなかったのである。
 
(ひょっとして、二人に会っちゃったりして)
 
 祐巳の今いる場所は、由乃さんたちが見に行った試写会の会場近辺。
 さて。――と祐巳は、顎に手を沿え考える。
 このまま次の角を左折すればK駅。右折して二ブロックほど歩けば、試写会の催されている映画館。人並みに流されるように歩いていくと、やがて角に差しかかる。
 
(……やっぱり、気になるし)
 
 迷ったけど、結局右に曲がった。邪魔しちゃ悪いかな、と思ったけど、それなら邪魔しなければいいのだ。
 そう、ちょっとどんな感じが見るだけ。もし。もしもだが、祐麒が『試写会に行くという約束だけだから』と帰ってしまいそうになったら、張り手してでも止めなくちゃいけない。まあ、本当にそれをすることはないと思うけど。
 
「あっ……」
 
 映画館のある通りを歩いていくと、――本当に由乃さんと祐麒がいた。まあ一時から上映開始して、105分の映画なら、この時刻に試写会が終わって当然なのだけど。
 一時から上映……と言えば、うっかり祐麒を遅刻させてしまった。でも試写会には間に合ったようだし、そのお陰で髪型もバッチリきまっているんだから、許して欲しい。
 
(何してるんだろ……?)
 
 二人は中々映画館の前から立ち去らない。よくよく見てみると、何とカメラとか撮影用マイクを持った人たちに話しかけられているではないか。
 これはアレだ、映画のCMでよくある『凄く面白かったですー』とか、映画を見た人が感想を言うやつ。
 由乃さんはカメラを向けられると、にこやかに何かを喋った。続いてカメラを向けられた祐麒は、ぎこちない笑みで口をパクパク。たぶん、ろくな感想を言えていないと思われる。
 
「あ。……まずい」
 
 カメラさんたちから解放された二人は、祐巳のいる方向に向かって歩いてくる。ここで見つかっては、二人のデートをもろに邪魔することになってしまう。
 どこか隠れるところは――と辺りを見回すと、後ろ十メートルほどのところに書店が見えた。これは幸い、と祐巳は書店の中に入る。そして立ち読みをする振りをしながら、ガラス越しに二人の姿を傍観。
 由乃さんはかなりテンション高めに話しかけ、一方祐麒はさっきより幾分か自然に笑いながら、言葉を返しているようだ。つまり、映画『KEN-KAKU』は、相当に面白かったということだろう。
 
「……はぁ」
 
 二人が書店の前を過ぎてから外に出ると、祐巳は小さく息を吐いた。これは重たい溜息ではなく、安堵の吐息だ。由乃さんと祐麒のデートは、中々順調なようである。
 二人はさっき祐巳がどちらに曲がろうか迷っていた角に差しかかると、道の端によって何かを相談し始めた。たぶん、この先どこに行くか相談しているのだろう。
 さあ、どこに行くんだろう。
 祐巳が大きな看板に身を隠しながら様子を窺っていると、――不意に声をかけられた。
 
「あら、祐巳さん」
 
 ビクッ、と肩を震わせながら振り返ると、そこには志摩子さんの姿。それだけじゃなく、乃梨子ちゃんの姿まであるではないか。
 
「ごきげんよう、祐巳さま。こんなところで奇遇ですね」
「ど、どどっ」
 
 驚きすぎて、言葉が上手く出てこない。
 一体何どうして、志摩子さんと乃梨子ちゃんがここに? ――そう言葉にして訊けたのは、志摩子さんに「落ち着いて」と肩を撫でられてからだった。
 
「どうしてって。私たちだって、休日に買い物にでたりするわ」
「祐巳さま……。私たちがお寺や教会以外のところに、行くわけがないとお思いですか?」
 
 白薔薇姉妹二人による、ごもっともな答え。そりゃ志摩子さんと乃梨子ちゃんも、普通に買い物にでかけたりするだろう。この前志摩子さんは、「日曜日は乃梨子とでかけるの」と言っていたし。
 
「それで、祐巳さんはこそこそと何をしていたの?」
 
 こそこそって。いや、傍から見たらそう見えたのだろう。考えてみれば、看板越しにチラチラと人並みを眺めているのは、相当にあやしい。
 
「ちょっとね、由乃さんと祐麒を見かけたものだから」
「ああ、あの試写会ね」
 
 志摩子さんがなるほどと頷くと同時に、乃梨子ちゃんは首を傾げた。志摩子さんがかい摘んで事情を説明すると、乃梨子ちゃんは首を縦に傾げる。
 
黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)と花寺学院高校の生徒会長がデート……」
 
 ――そう言うと、中々スキャンダラスである。実際新聞部がこれを聞きつけたら、大喜びで記事にするだろう。
 
「まあそう言う理由で、二人を遠巻きに眺めていたわけ」
「はぁ。それで、由乃さまたちは?」
「え……?」
 
 乃梨子ちゃんに言われて、二人のいた方向を振り返る。――が、当然そこには二人の姿があるはずもなく、信号待ちの歩行者の群れが蠢いているのみ。
 
「さっきまでそこの角にいたんだけど……」
 
 しまった――。志摩子さんと乃梨子ちゃんの会話に集中しすぎて、由乃さんたちを見失ってしまった。
 
「ごめんなさい、祐巳さん。私たちのせいで……」
 
 祐巳の表情を読み取ったらしい志摩子さんは、申し訳なさそうに瞳を伏せる。いや、注意力散漫だった祐巳が悪いのだけど。
 
「こうなったら私たちも協力するわ。乃梨子」
「はい」
 
 志摩子さんがそう言うと、乃梨子ちゃんは心得顔に頷く。すると二人そろって、さっきまで由乃さんたちがいた角へ向かって行くではないか。
 
「え、あの。志摩子さん? 乃梨子ちゃん?」
「祐巳さんは角にいてちょうだい。見つけたら、手を振って教えるわ」
 
 なるほど。正面を見ても見当たらないから、二手に分かれて探そうというのか。
 志摩子さんの言葉を聞き届けた乃梨子ちゃんは、交差点を右へと曲がっていく。一方志摩子さんは、左へ。二人の様子を交互に見ていると、乃梨子ちゃんの方が手を振った。
 おーい、と祐巳は志摩子さんに向かって手を振る。それを見た志摩子さんは祐巳と合流して、乃梨子ちゃんの方へと向かう。コーヒーショップや雑貨店の立ち並ぶ道を早足で歩き、そこで乃梨子ちゃんと合流。
 
「あれ、由乃さまですよね?」
 
 乃梨子ちゃんの指差す方向には、髪型は変えているものの、確かに由乃さんの姿があった。
 
「うん、あれだね」
 
 由乃さんたちと一定の距離を保ちながら、祐巳たちは二人を追う。
 さて。それにしても、だ。何故志摩子さんたちまで、祐巳と行動を共にしているのだろう。そう疑問を口にしようとした時、先に志摩子さんが口を開いた。
 
「ところで、祐巳さん」
「うん?」
「由乃さんはつけられていることを知ったら、怒るんじゃないかしら?」
「あー、それは一応怒ると思うけど、大丈夫だと思う」
 
 乃梨子ちゃんが「何故です?」と訊いてきたので、祐巳は由乃さんたちの方から目を離さずに言う。
 
「乃梨子ちゃんも、前のヴァレンタインにイベントがあったことは知ってるでしょ? あれの賞品のデートの時、由乃さんは令さまのデートをつけてたみたいだから」
 
 別に、明らかに尾行しているところを見たわけではない。ただ、あの日会った由乃さんの雰囲気から、そうじゃないかな、と察しただけ。
 
「あ、右に曲がったわ」
 
 志摩子さんの言葉に、少しだけ早足になって角へ。見えなくなったところでどこかの建物に入られたら、見失ってしまうからだ。
 
「ところで……」
 
 尾行組三人の会話が途切れたところで、祐巳はかねてから言おうとしていた言葉を発する。
 
「別に志摩子さんたちまで、私に付き合うことはないんだよ?」
 
 祐巳がそう言うと、志摩子さんと乃梨子ちゃんは顔を見合わせる。
 
「でも」
 
 そして、ハモる。これはたぶん、何となく始めちゃったけど終わるきっかけをなくしてしまった、という状況だろう。
 
「よし、分かった」
 
 祐巳は腕組をして、うんうんと頷いた。旅は道連れ世は情け。こうなったら、一緒にどこまでも行こうじゃありませんか。
 
「それじゃ、はい。乃梨子ちゃん」
 
 祐巳はリボンを外し、髪を結っていたゴムを乃梨子ちゃんに渡す。相変わらず、注意と視線は由乃さんたちに向けたままだ。
 
「なんです、これ?」
「決まってるじゃない。尾行に変装はつきものよ」
「それはそうかも知れませんけど」
 
 戸惑う乃梨子ちゃんを見かねたのか、志摩子さんは無言でゴムを取ると、やはり無言で乃梨子ちゃんの髪を結った。両サイドの髪を結うと、かなり幼く見える。
 
「あら、可愛い」
「え、あの、志摩子さん……」
 
 志摩子さんは乃梨子ちゃんの髪を撫でながら、優しく微笑む。あの、そんなところでイチャつき出すと、由乃さんたちを見失ってしまうんですが。
 
「……いい雰囲気のところ申し訳ないけど、志摩子さん。髪をアップにできる? 長い髪は目立つと思うから」
「え? ああ、それもそうね」
 
 祐巳の声に、やっと二人の世界から戻ってきてくれたらしい。まったく、白薔薇さんのところは、いつまでも初々しいんだから。
 
「あっ。あの建物の中に入るみたいですよ」
 
 乃梨子ちゃんの声に、つい逸らしてしまっていた視線を、由乃さんたちへと戻す。
 木造の、小さな洋館。この年季の入った外観には、何か見覚えがあるような。
 
(――ああ、思い出した)
 
 この洋館は、祐巳が祥子さまと初めてデートした時、入ったことのある建物。
 あの日、由乃さんと合流して入った喫茶店だった。
 
 

 
 
「何と言っても、殺陣(たて)がよかったわよね。あんなに迫力があるのは初めて」
「うん。日本映画じゃ、ワイヤーアクションやCGを使うのは少ないしね。そこは流石ハリウッドって感じだった」
 
 由乃が小さくフォークを振りながら言うと、祐麒君はうんうんと頷いた。
 今、由乃たちがいるのは、小さな洋館風喫茶店。映画見て「はい、さよなら」じゃあんまりだと思ったので、相談の結果由乃が案内したのだ。
 ここなら人目を気にせずにゆっくり食べられるし、お勧めするならこの喫茶店と決めていた。
 ちなみに祐麒君が食べているのは、この前由乃が食べた松の実のチーズケーキ。由乃はこの前祐巳さんが食べていた、チョコレートのシフォンケーキだ。
 
「後さ、やっぱり演技にも力が入っていたよね。一つ一つの仕草にもこだわりが見えた感じがするし」
「あ、それは私も思った!」
 
 本当、祐麒君を試写会に誘ってよかったと思う。
 由乃も祐麒君も、リメイク前の作品を知っているのが大きい。それに二人とも、特に映画に詳しいというわけでもないので、会話のレベルが合うのだ。
 
「後、アレは笑えたわよね」
「え? 笑うところなんてあった?」
「うん。祐麒君がジュース飲む時、ストローで鼻の頭を突っついたの、私ばっちり見ちゃった」
「え、何それ。映画じゃないじゃん」
 
 由乃が堪えきれずにふふっと笑うと、祐麒君は照れ笑いの表情を浮かべた。これはちょっと可愛いかも知れない。
 はぁ、と肩の力を抜きながら、ふと思う。
 何でこんなにも、『違和感が無い』のだろう?
 一応祐麒君を待っている間、ちょっとは緊張した。でも試写会の会場に走ったり、映画を見たりで、些細な緊張なんてすぐ解れてしまった。
 何と言うか、男の子とデートしている感覚が薄い。祐麒君の顔が祐巳さんと似ているということもあるけど、それだけではこんな感じにはならないだろう。何故だか、令ちゃんと出かけている時と感覚が似ている。
 
「……由乃さん?」
 
 不意に会話が途切れたのに、不安を感じたのだろうか。祐麒君は紅茶のカップに指をかけたまま、由乃の瞳を覗き込んでくる。
 
「あの、体調でも悪くなった?」
 
 別に体調不良で黙り込んだわけではない。――だけど、祐麒君のその言葉を聞いて、やっとその『違和感が無い』原因が分かった。
 それは、祐麒君が気遣いに()けているということ。
 思いだして見れば、その気遣いは色々あった。扉があれば先に開けて、由乃が通るまで持っていてくれたし、エレベーターから下りる時もずっと『開』ボタンを押してくれていた。ここの喫茶店に来た時だって、逆さまだと読み難いだろうに、メニューを由乃の方に向けてくれていたのだ。
 
「別に。何でもないの」
 
 流石祐巳さんの弟と言うか、花寺の生徒会長と言うか。たぶん、祐麒君が気配り上手なのは、環境のお陰が多々あるような気がする。
 そう考えると何だかおかしくて、何もしていないのに祐麒君を見て笑うという、誤解を招きかねない行動に出てしまった。
 
「あの、俺何か変なことした?」
「ううん、してない」
 
 由乃がそう言うと、祐麒君は「そう」と呟き、ケーキを一口。そしてケーキを食べるために下げた顔が上がって来るのを見て、今度こそ由乃は声を出して笑ってしまった。
 まったく。
 どうしてこんなところまで、令ちゃんに似ているのだろう?
 
 

 
 
「祐麒君」
 
 ケーキから視線を上げると、由乃さんは笑いながら祐麒の顔に手を伸ばした。
 
「……え!?」
 
 何なんだ、さっきから。
 この喫茶店に入り、一通り映画の感想を交わすと、由乃さんは妙によく笑うようになった。その笑いの理由が分からないわけで、また自分の顔に手を伸ばされる理由も――。
 
「タルトの欠片、ついてる」
 
 ――って、何だ。そう言うことか。
 由乃さんの指先が唇の下に触れた後、音も無くタルトの欠片が落ちた。ドキドキとうるさい心臓が、妙に恥ずかしい。明らかに動揺しすぎである。
 
「祐麒君って、けっこう間抜け」
 
 その上、追い討ちをかける一言。由乃さんは言った後、また「ふふっ」と声を出して笑った。
 まったく、どうして。――と祐麒は思う。
 儚げな美少女の笑顔というのは、どうしてこんなにも可愛いのか。そこに居るだけで絵になる女性(ひと)の笑顔というのは、可愛いだけじゃなく、ただ純粋に綺麗だ。
 そりゃ、祐麒の好み通りの女の子なら、真正面から「間抜け」なんて言わない。それでも、ありのままの意見をぶつけられることを嬉しく感じてしまうのは、一体何故なのだろう。
 
「ねえ。この後行きたいところあるんだけど、いい?」
「あ、うん。別に構わないけど」
 
 由乃さんは嬉々とした表情のまま、瞳に請いの色を乗せる。自然とフォークを繰る手の動きが早くなる。
 
「別に急いで食べなくてもいいのに」
「ん、そう? でももう食べたから」
 
 喋ってばかりであまり食べていなかったタルトを、気持ち大口で片す。何となく、由乃さんは待つのが嫌いだと思ったから。それに時間は有意義に使った方がいい。
 勘定を別々に済ますと、洋館風喫茶店を後にする。相変わらずの青空だが、そのうち日も傾きだすだろう。
 
「で、どこに行きたいの?」
「ゲームセンター。滅多に行かないから、たまにはって感じで」
 
 由乃さんは後ろで手を組んで歩き出す。その仕草とアンティーク風の服、そして洋館という背景は、やはり絵になる。――が、そっちはゲームセンターの方向じゃなかった。
 
「由乃さん、そっちから行くより、反対の道から行った方が早いよ」
「あ、そうなの?」
 
 K駅の方向に向かって歩きながら、「よく行くの?」、「たまにね」なんて会話をしていると、すぐにゲームセンターが見えてくる。
 ピカピカと光るネオン管に、軒下に出たUFOキャッチャーの(たぐい)。中から聞こえるグチャグチャの騒音は、まさしく『ゲーセン』である。
 
「ねえ、あれ。あれがやってみたかったのよ」
 
 この雰囲気、由乃さん的にはどうなのかな、と思ったけど、彼女は目的の場所に着くなり、水を得た魚のように生き生きとし出した。そしてまた自然に手を繋いでというか、引っ張ってくるが、これは由乃さんが青信号(祐巳談)になっているからだと解釈して、一々ドキドキしないことにした。
 
「パンチングマシーン?」
「そう。一度やってみたかったのよね」
 
 由乃さんに引っ張られてやってきた先は、パンチングマシーンの前。三回に分けてパンチの重さを測定し、本日何位だとか、歴代何位だとか教えてくれるヤツだ。
 祐巳から聞く由乃さんの性格からすれば、これをやってみたいというのも頷ける。
 
「よーし」
 
 由乃さんはコインを入れる時まで気合満タン。右手にグローブをはめると、いつでもかかってらっしゃいと言わんばかりに、左手に右拳を叩きつける。
 やがて起き上がってくる、サンドバッグもどき。由乃さんはグローブの紐が届く範囲で助走を付けると、思いっきりと証するのが一番しっくりくるフォームで、それを殴り倒す。
 ――一回目、61キロ。
 
「……あれ?」
「由乃さん。思いっきり助走つけるより、腰の回転を使った方がいいよ」
「腰の回転……。よーし、腰ね」
 
 ――二回目、72キロ。三回目、67キロ。ランク外の為か歴代ランキングは表示されず、ディスプレイには『本日の26位』とだけ表示された。
 去年、手術を受けるまで身体が弱かったという彼女だから、その記録も無理はないと思う。しかし当然のごとく、由乃さんは凄く悔しそうだった。
 
「あー、もう。何でこんな記録しか出ないの。ね、祐麒君もやってみてよ」
「俺も? それじゃやってみようかな」
 
 ここで断ったら男じゃないだろう。祐麒は一年の時に仲良くなった、ボクシング部の友人との会話を思い出す。そいつの話では、体格や体重に関係なく、フォームさえしっかりしていれば200キロぐらいは出せるという。
 コインを入れると、再び起きあがってくるサンドバッグもどき。
 
「よーし」
 
 目標をしっかり見て、右腕をまっすぐ伸ばすと同時に腰を反時計回りに回転させる。右足のかかとを回して体重を思い切り乗せ、殴る。ドシンと重たい音がした後、ディスプレイには『186キロ』と表示された。
 
(……本当に上がるものなんだ)
 
 自分でも驚いていると、由乃さんは目をまん丸にさせて、更に驚いているようだった。
 続いて二回目、190キロ。三回目、206キロ。流石に歴代ランキングには入らなかったみたいだけど、ディスプレイに『本日二位』と表示された。
 
「うわ、ねえ二位だって。すごいすごい!」
 
 由乃さんは目をキラキラと輝かせながら、祐麒の二の腕を触ってくる。――ああ、持つべきはボクシング部の友。
 
「何か格闘技をしていたの?」
「いや、実戦が多いせいだと思うな」
 
 言った後、しまったと思った。実戦、すなわちケンカではないか。ケンカの話なんか聞いて喜ぶ女の子は、たぶん少数派である。
 
「あ、何。祐麒君って、学校とかじゃケンカするんだ?」
「……ケンカっていうか。取っ組み合いっていうか」
 
 ちなみに、どちらもそう変わらない。
 
「じゃあ一対多数とかも、あったりする?」
「一対三までならあったかな。けっこう骨が折れたけど」
 
 こんな話、早く切り上げなきゃなぁ、とは思いつつ、由乃さんは色々質問を浴びせてくる。
 約三分に渡る取っ組み合い体験談を話し終え、由乃さんが持った感想は、「祐麒君って意外と強いのね」というものだった。
 どういう印象を持たれたか戦々恐々であるが、感心するように頷いていたので悪い印象ではないはず。……だと信じたい。
 
「あ、そうだ。忘れてた」
 
 話に区切りがついたところで、由乃さんは出入り口の方へ視線を向けた。その先にあるのは、UFOキャッチャーの筐体(きょうたい)
 
「あれがどうかした?」
 
 忘れていたって、何のことだろう。
 そう疑問に思いながら、筐体の方へ近づく。すると由乃さんは、景品のぬいぐるみを指差しながら、満面の笑みで言った。
 
「取って」
「……はい」
 
 たぶん今、祐麒は試されている。男の甲斐性とか言うヤツを。
 それ以前に、あんな笑顔で言われたら断れないだろう。そこで「イヤです」とか言うヤツがいたら、たぶん殴る。
 
「えーっと、どれだっけ?」
「真ん中で刀持った猫がいるでしょ? あのぬいぐるみ」
 
 由乃さんの指差す先には、紋付羽織袴に刀を持った猫のぬいぐるみ。
 出典はどこからか忘れたけど、これは確か『猫侍』とかいうキャラクター。由乃さんらしいチョイスだと思う。
 
「分かった」
 
 UFOキャッチャーは百円で一回。五百円を入れれば六回できる。祐麒はさほどUFOキャッチャーの造詣に深くないから、取るのに苦労するだろう。――ということで、最初から五百円を放り込む。
 
「祐麒君って、こういうの得意?」
「全然」
「……みたいね」
 
 五百円を入れたのと、颯爽と一回目を失敗したのを見て、由乃さんは苦笑した。
 
「あ。でも次、取れそうなんじゃない?」
 
 しかし現実は時として、堅実な者をあざ笑うかのような偶然を起すことがある。
 由乃さんの「はい、ストップ!」というナビゲーションの甲斐あってか、何と二回目で景品が取れてしまったのだ。
 こんなことなら最初から百円でやっておけばよかった。なんて思いながら、つがいになるようにメス猫ヴァージョンを取ろうと頑張ったけど、結局取れたのは目的のぬいぐるみだけだった。
 
「はい、由乃さん」
「ありがと。やーん、可愛い」
 
 由乃さんはぬいぐるみの両足を持つと、胸の前でパタパタと動かす。
 
(……これは、やばい)
 
 飛びっきりの笑顔と、その仕草。
 心を鷲掴みにされたような、それでいて胸の中で何かが膨らむような、そんな錯覚に陥ってしまう。
 どうして彼女は、こんなにも可愛らしいのだろう?
 未知の感覚に流されるがまま、頬が緩んでくる。それを止めることは、今の祐麒にはできそうもないのだった。
 
 

 
 
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