■第四話 『温もりを』
 
 
 
 
 
「祐巳、……いい?」
「は、はい……」
 
 祥子さまの心なしか上擦った声が、耳朶に触れる。
 それから一呼吸置いて、祥子さまの手が祐巳の身体を這う。初めて味わう感覚に、脳が痺れた。
 
「最初は痛いと思うけど、我慢するのよ。そのうち気持ちよくなってくると思うから」
 
 ロッジの中は、シンと静まりかえっていた。時折暖炉の火が爆ぜる音だけが、ロビーに響き渡る。二人の呼吸する音だけがやけに耳について、緊張する。
 
「邪魔だから、脱がせるわよ」
「い、いえ、自分でっ」
「いいから、じっとしてなさい」
 
 ソファに軽く押し付けられ、なされるがまま祥子さまにウェアを脱がされる。
 祥子さまはまた祐巳をソファに寝かせると、おもむろに覆いかぶさってきた。首筋を祥子さまの長い髪が撫でていって、思わずゾクっとした。
 
「緊張しないで、力を抜いて」
「はい……」
 
 そうは言うものも、祥子さまだって緊張しているはずである。何せ、姉妹でこんなことをするのは初めてなのだ。して貰うほうの祐巳なんて、終始緊張しっぱなし。祥子さまの手だって、少し震えている。
 
「あの、お姉さまは、こういったことの経験は」
「……お姉さまにして差し上げたことは、何度かあったわ」
「やっぱり、する方だったんですか」
「ええ。……さあ、いいから楽にして」
「あっ……」
 
 祥子さまが慣れない手つきで、祐巳の敏感な部分に触れていく。そこを指圧されるたび、声を殺そうと奥歯を噛んだ。
 
「祐巳。痛い?」
「大丈夫で……すっ……」
「本当に駄目だったら言うのよ。手加減なしでいきますからね」
「あ……はぅっ」
 
 新たな刺激に、祐巳の背中が仰け反る。
 ――その瞬間。
 
「あーっ! 祥子が祐巳ちゃん襲ってる!」
 
 聖さまの叫びが、ロッジに響いた。
 

 
「なーんだ、ただマッサージして貰ってただけなのね」
「聖さまは一体何を想像していたんです?」
 
 祐巳と祥子さまの説明を聞き終えた聖さまは、心底つまらなさそうに紅茶を啜った。
 聖さまが何を想像していたかは知らないけど、スキーであちこちが筋肉痛になった祐巳は、祥子さまにマッサージをしていただいていただけなのだ。誤解を受けそうな会話であったことは、認めるしかないわけだけど。
 
「しかし祐巳ちゃんも、お姉さまにマッサージして貰うなんて大物だねー」
「ちっ、違いますよ。私は遠慮したんです」
「祐巳、じっとしていなさいと言っているの」
 
 祥子さまの指がふくらはぎを指圧して、痛みが電気のように背筋を走り抜けた。
 ちなみにまだマッサージの最中である。
 
「あたたた……」
「筋肉痛がその日のうちに来るのは、若い証拠だよ」
 
 聖さまはティーポットをカップに傾けながら笑った。
 
「それが終わったら、私もしてもらおうかな。祐巳ちゃんに」
「あら聖さま。遠慮なさることはないんですよ。私がやって差し上げます」
「えー? 祥子はわざと痛くしそうだからヤダ」
 
 冗談なのか本気なのか分からなかったけど、祥子さまは「よく分かっていらっしゃること」、と勝気な笑みを返した。
 
 

 
 
「ここのロッジ使われている木は、全部サイプレスっていう木材でね」
 
 暖炉の前のテーブルを撫でながら、清子小母さまが言った。
 
「木目が綺麗でしょう? それに白アリにもやられにくいし、一目で気に入ったのよ」
 
 夕食後の午後七時過ぎ。お昼過ぎから作っていたらしい夕食は六時半には食卓に並んでいたので、祐巳たちは腹ごなしのお喋りに、清子小母さまのロッジへ訪れた時の思い出や、購入の経緯なんかを聞いていた。
 
「ということは、もう十年以上も前に購入なさったんですね」
 
 聖さまはカップを両手で持ちながら言った。暖炉の前には、祐巳、聖さま、そして清子小母さましかいない。祥子さまは静かに本を読みたい、と言って自室にこもっている。
 
「ええ。このロッジを買った当時は、毎年のように足を運んでいたわ。でも祥子さんが初めてスキーをした三年前から、めっきり来なくなっちゃったのよ。あの子、人ごみが嫌いだから。スキー場でさんざんな目に会ったのかもね」
 
 清子小母さまは口を抑えて、ほほほと笑った。笑い方までお上品だ。
 
「さて、と。そろそろお風呂入れてくるわね」
 
 すっ、と。前振りもなく、清子小母さまは立ち上がった。
 
「あ、手伝います」
「いいのよ。お風呂の入れ方は覚えたし、二人でやるような仕事じゃないわ」
 
 まあ、確かにお湯を張るなんて仕事は二人でやるようなことでもないし、そもそもこのロッジのお風呂は祐巳の家とは勝手が違うから、足手まといになる可能性が高い。仕方なく浮かした腰を元に戻すと、聖さまはふふっと笑った。
 
「お風呂について行ってまで、祥子の昔話を聞きたかった?」
「……そんなんじゃありませんって」
 
 手伝おうとしたことに他意はない。でも、祥子さまの昔話を聞きたかったというのも、また事実である。
 
「どうだかねー」
「もう、聖さまったら」
 
 このまま座っていたら、からかわれ続けるだろうと思ったので、また腰を浮かせて立ち上がる。何ともなしに玄関の窓から外を見ると、また雪が降っていた。今日は風があるのか、雪の軌跡に角度がついている。
 
「聖さま、また雪が降ってますよ」
「そうなの? でももう飽きたからいいや」
 
 そう言って足を組む聖さま。確かにスキーをしている最中にも雪が降ってきたし、今更珍しがることでもないんだろう。それでも何となくソファには戻りにくくって、ずっと外を見詰めていると、視界の端で何かが動いた。
 
(何だろう?)
 
 目を凝らしてよく見ると、動物であることが分かった。もしかして、今朝のオコジョだろうか。
 
「聖さま、外に動物がいますよ」
「動物? ふーん」
 
 祐巳が積極的に話し掛けても、聖さまは取り付くしまもない。それはそれで、何だかつまらないし、寂しい。
 
「ちょっと見に行ってみません?」
「えー? 狼だったらどうするの」
 
 狼はあなたでしょ、って言いかけて、祐巳は慌てて口を噤んだ。どうやら聖さまは、テコでもソファから動かないらしい。
 
「一人で行っちゃいますからね」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 
 釣れない聖さまに、これ以上言っても無駄だろう。
 そう判断して外に出ると、強烈な寒さが祐巳を襲った。気温的には今朝よりも寒くないんだろうけど、風のせいで随分寒く感じる。たしか風速一メートルで体感温度が一度下がるらしいから、この寒さも納得である。
 
(あそこらへんだったような)
 
 好き好んで外に出てきたとは言え、あまり長くはいたくない。動く影の見えた、門灯の灯りが届くぎりぎりのラインまで歩く。
 積もりたての雪で歩き難い。横殴りの雪が、頬に冷たい。
 
「うーん……」
 
 そんな短い苦行を乗り越えてやってきても、オコジョらしき姿はなし。暗くてよく見えないせいかと思ってまた一歩踏み出すと、突然身体が軽くなった。
 
「うあっ!?」
 
 ズシャアッ。――と、足元の雪が崩れる音。
 一回転、二回転、三回転。
 一体どれだけ転がるんだというぐらい転がって、ようやく祐巳の身体は止まった。
 
「あいたた……」
 
 どうやら雪庇のようになっているところに、足をのせてしまったらしい。スキーの時でもこんなに転がらなかった。木の幹などにぶつけたのか、足や手が痛い。
 祐巳は起き上がって辺りを見回した。懐中電灯を持ってきていないから、当然あたりは暗い。ロッジの近くにいるはずなのに、それが無性に怖かった。
 
(……何してるんだか)
 
 今朝祥子さまに、「ここらへんの斜面は急だから注意しなさい」と言われたばかりだというのに、盛大にこけてしまった自分が恥ずかしい。
 祐巳はゆっくりと斜面の上方を見た。ここがロッジの近くであるなら、門灯の灯りが見えるはずである。
 
「あ……れ?」
 
 ロッジがあるはずの方向に、灯りが見えない。ということは、見えないぐらい下まで転がっていってしまったということか。
 ひゅうぅ、と。一際強い風が、雪と一緒に祐巳を撫でていく。
 
 何もかもを凍らせてしまうような寒さと、ちょっと先すら見えない夜闇。
 祐巳の周りにあるのは、それだけだった――。
 
 

 
 
 それは祐巳ちゃんが外に出て行って、数分後のことだった。
 
「……あ」
 
 何の前振りもなく、電気が消えた。
 聖が暖炉の前で、お茶をしている時の出来事である。
 
「おかしいな。もう切れたのか」
 
 このロッジは普段あまり使われないため、電線を引いていない。その代わりに発電機を使って電力を供給しているのだが、どうやら発電機のガソリンが切れたようである。
 管理人の向井さんからこのロッジの説明を聞いた時は、「タンクは増設してあるから、約二日間の滞在の間にガソリンが切れることはない」って話だったが、どうやら目算を誤ったようだ。
 玄関の近くにあった懐中電灯を持って廊下にでると、すぐ清子小母さまに会った。
 
「ああ、聖さん。困ったことになったわね」
「ええ。私、ちょっと給油してきますね」
「あら、給油の仕方とか分かるの? 助かるわ」
 
 正直な話、聖も発電機の給油などしたことはない。けれど、ここは自分が出ていった方が、一番手っ取りばやいだろう。
 
「祥子ー」
 
 安否を確かめるのと、給油を手伝ってもらうのを兼ねて、祥子の部屋をノックする。
 ガタン、と大きな音がした後、程なくして扉が開いた。
 
「……聖さま」
「起きてた? 発電機のガソリン切れたみたいだから、ちょっと給油しにいくよ」
「ああ、……はい。そうですね」
 
 珍しくボケっとしているところを見ると、うとうとしているところだったのだろうか。
 それでもこのロッジのことを知っている人間がいた方がいいから、発電機のあるバスルームの隣部屋まで引っ張っていった。
 
「さて、ガソリンはどこ?」
「……」
「祥子?」
「それが、……知らないんです」
「知らない?」
 
 ああ、そういえば。と聖は思い出した。
 清子小母さまが給油の仕方を知らなかったように、祥子も生まれてこの方発電機の給油なんかしたことがないのだろう。
 それはもちろん聖も同じであったが、少なくともだいたいの勝手がわかる分はましである。しかし、ガソリンの場所が分からないとなると、給油のしようもない。
 
「しゃーない、探すか」
 
 ようやく祥子も目が覚めてきたのか、一緒にガソリンを探しだした。
 しかし結局ガソリンはこの部屋にはなくて、およそ十五分を経て、キッチンの地下室から発見された。
 
「聖さま、ここを押しながら引っ張るのではありません?」
「そうなのかな。よい……しょ!」
 
 それから慣れない発電機運転で約五分。
 停電から復旧まで約二十分を要するという、結構なハプニングだった。
 
「お、ついたついた」
 
 ぶーん、とうるさい発電機の部屋を抜け出すと、廊下には明かりが戻っていた。これにて完全復旧、というわけである。
 
「ところで聖さま。祐巳はどこに?」
「祐巳ちゃんならさっき外に出て行ったけど。もう戻ってるんじゃない?」
「外に、って……この天気で!?」
 
 祥子は血相を変えて廊下の窓に張り付いた。脇から覗いて見ると、なるほど吹雪と言っていいぐらい強い風と雪だった。
 
「ちょっと外に出ていただけでしょ? 大丈夫、もう戻ってるって」
 
 けせらけせらと笑いながら、ロビーへと歩く。内心、戻っていなかったらどうしようという不安も、少しはあった。
 祥子は聖を追い越してロビーへと走って行った。その祥子がロビーに入った瞬間にへたり込んだのを見て、背筋が凍ったような錯覚に落ちた。
 
「祥子?」
 
 嫌な予感が肥大していくのを感じて、慌てて駆け寄った。
 ――ロビーのコートかけには、祐巳ちゃんのコートだけが無かった。
 
「祐巳!」
 
 祥子がロッジ全体に響き渡るような声で、叫ぶ。
 返事は、無い。
 祥子がロッジ中の扉を開けて回って「祐巳」と呼んでも、一度も返事はなかった。
 
「祥子、落ち着きな」
「……私、探してきます」
「ちょっ、祥子!」
 
 止める間もなく祥子はコートを羽織り、聖の手から懐中電灯を奪うと、躊躇うことなく外に飛び出した。
 
「まったく、何考えて――」
「聖さん」
 
 祥子を追って外に出ようとして、強く手を引かれる。振り返ると、清子小母さまが、沈痛な面持ちでこちらを見ていた。
 
「あなたまで行っては駄目よ」
「ですが」
「ここは、私たちだけができることをしましょう」
 
 真摯な清子小母さまの視線に射竦められ、やっと冷静さを取り戻す。
 人に「落ち着け」と言いながらも、やはり動揺していたのだ。
 
「そうですね。……まずは救助隊かどこかに連絡しないと」
 
 振り返って見た、玄関の窓の向こう。吹雪は一層強さを増している。
 まるで人の存在すら、拒絶するかのように。
 
 

 
 
 雪の中を駆けていた。
 ――(いや)、ただもがいていたと言っていいかも知れない。深すぎる雪は、とても走れるような地面ではなかった。
 
「……」
 
 祥子はあまり意味を成さないとは知りながらも、コートの合わせをきゅっと締め、また一歩を踏み出す。
 聖さまの証言から察するに、祐巳がロッジの外へ出たのは二十分以上も前。ロッジの前には微かな足跡があったが、急な斜面に面したところで途切れていた。
 
「そんな……」
 
 思わず、膝を折った。斜面は、崖と言っていいほど急だ。落ちたら上ってくることなど出来ない。
 ましてやこの雪山の自然に触れる度、簡単の声を漏らしていたあの子のことだ。キックステップなんていう、登山の技術は持っていないだろう。
 
「そんな、そんな――」
 
 雪と一緒に、冷徹で絶望的な事実だけが降り積もっていく。
 二十分以上前、祐巳はロッジを出た。ロッジから伸びた足跡は一つだけ。その足跡が、斜面の前で途切れている。
 
「祐巳!」
 
 暗闇に問いかけようと、吹雪でその声はかき消される。
 こんな所でボケっとしている場合じゃない。迂回路を取って、下に下りなければ。
 一歩いっぽ下りるたび、膝が震えた。寒さや、スキーの疲れからではない。――祐巳を失うことに、恐怖していた。
 
「はぁ……はっ……」
 
 緩い斜面を選んで、慎重に下りる。相変わらず膝は震え、ついには全身が震えだした。
 あの子――祐巳を失うことが、この寒さや闇より、ずっと怖いのだ。
 祥子は、いつでも自分のダメージを修復することができた。何をどうすれば、どのぐらい自分がダメージを受けるのだとか、そんなことはいつも容易に計算できた。どのぐらいすればその傷が癒えるのかすら、把握できていた。
 ――しかし。
 
(もし祐巳に、何かあったら)
 
 しかし、もし祐巳を失ったら?
 いくら想像し、計算しようとしてもできなかった。心を食い潰してしまいそうな絶望感だけが、算出した答えだった。
 祐巳を妹にして三ヶ月足らず。この短い間で、一体どれほど価値観が変わっただろう。
 それは今この時のように、自分の死よりも祐巳の死を恐れるぐらい、大きな変化だった。自分よりも大切な――そう、優先順位がまるまる変動してしまったのだ。
 
「祐巳、祐巳!」
 
 自分でも驚くぐらい、祐巳の存在は大きかった。ちょっと前まで名前を知りもしなかったくせに、今はやぶれかぶれになって、その名前を叫んでいる。
 惹かれた理由は分からない。ただ好ましいと思って、自分に必要な人だと思って、妹にした。落ち着きが無くて、少し間が抜けていて。それでも、それすら好きだった。
 祐巳のタイを整えるたび、幸せな、優しい気持ちになれた。祐巳のリボンを結い直すたび、この子の姉で居れることを嬉しく思った。
 そんな祐巳を失ったら――。想像するだけで気がどうにかなってしまいそうだった。
 
「祐巳! 返事をして!」
 
 声を枯らさんばかりに、叫ぶ。
 
「祐巳!」
 
 自分よりも大切な、その人の名を。
 
「祐巳!」
 
 大切な、その人の名を。
 
「祐巳――!」
 
 大切な、人の名を。
 
 

 
 
「はぁ……っ」
 
 どこまでも続いていきそうな闇を見詰めながら、祐巳は冷や汗が流れてくるのを感じていた。
 まずいぞ、と。思考は常に注意を呼びかける。ハザードが、縦横無尽に駆け巡る。
 ロッジを出て、もう(ゆう)に十分以上経っていた。もうずっと登り続けているのに、こけたり滑ったりで、中々斜面を登れない。ロッジの光も、未だに見えない。
 
「うあっ!?」
 
 ドサァ――と、またこけた。気持ちばかりが焦って、体力だけが磨り減って行く。
 指や、足や、鼻の先が凍りそう。ちょっと強いな、と思っていた風は、いつの間にか吹雪に変わっていた。
 
(大丈夫、きっと帰れる。早く帰って、清子小母さまの話の続きを聞かないと)
 
 もうロッジはすぐそこのはずだ。早く帰らないと、みんな心配しているかも知れない。
 そう自分に言い聞かせて、立ち上がる。雪を払って、また斜面へと挑む。
 
「――ああっ」
 
 ドサッと、また足を取られてこけた。足元が覚束(おぼつか)ない。
 
「はあっ、はあっ……」
 
 立ち上がると、くらくらと眩暈がした。身体が気だるくて、瞼が重い。ついには身体を支えきれなくなって、雪の斜面に倒れこんだ。
 辺りは白樺の木が風を切る音でうるさいぐらいなのに、自分の呼吸の音だけが、やけによく聞こえた。
 
(立たなくちゃ)
 
 立って、ロッジへ戻らなくては。大好きなお姉さまの待つ、暖かいロッジへ。
 何度も足にそう念じているのに、一向に力が入らなかった。まるで立ち方を忘れたように、動かない。
 
「お姉……さま」
 
 そう言葉にしてみれば、少しは元気になるかと思って言ってみた。
 
「お姉さま」
 
 祐巳だけが祥子さまをそう呼んでいい、特別な言葉。それもこの吹雪の前にかき消されたのか、なんの効力もなかった。
 足に何度力を入れようとしても、逆に身体が沈み込んでいくかのような錯覚。
 
(私って、こんなに体力なかったのかな)
 
 そりゃ昨日夜更かしもしたし、今日は初めてのスキーで疲れた。
 でも、さっきまで動いていたから、まだ身体は暖かい。凍えたり、体力の消耗によって動けなくなるのには、まだ早すぎる。
 
「はっ、はっ……」
 
 呼吸の感覚が短い。意識が朦朧として、曖昧になっていく。
 
「お姉さまぁ……」
 
 もう一度、その言葉を発する。
 今度は自分を元気付けるためではなく、懇願するように。助けてと、すがる様に。
 
「――お姉……さま」
 
 声が擦れて、上手く言えない。意識にかかった(もや)が、濃度を増していく。
 電源を落とした電球のように、意識が収縮されて、消えていってしまいそう。
 
「――み!」
 
 どこか遠くから、祥子さまの声が聞こえた気がした。
 こんな所に来てくれるはずがないのに。祐巳の希望が、幻聴を呼び起こしてしまったのだろうか。
 
「祐巳」
 
 遠い声を聞きながら、意識は奈落の淵へと落ちていく。
 
「祐巳!」
 
 愛しい人の、声を聞きながら。
 
「祐巳!」
 
 愛しい人の、声を。
 
「祐巳――!」
 
 愛しい、声を。
 
 
 
 
 
 
 
「祐巳!」
 
 がくがくと、身体が揺さぶられる。
 
「祐巳――。起きて、祐巳!」
 
 もはや目を開けることもできない。その声に、応えることも。
 
「祐巳。祐巳――!」
 
 誰かに抱かれる感覚の中。
 ぽたりと頬に落ちた雫が、祐巳の感じた最後の温もりだった。
 
 

 
 
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