■第三話 『Good-Morning☆Speed-Star』
 
 
 
 
 
 目覚めの時は、聖さまの寝返りとともにやってきた。
 
「むぅ……」
 
 また、である。まったく聖さまは、何度寝返りで祐巳を起こせば気が済むのだろう。寝返りだけでなく、たまにギュウと抱き締めてくるのも、結構性質が悪い。
 のそり、と上半身だけベッドを抜け出す。手に取った時計には、五時五十四分という表示。はて、今日は何時起床だっけ。
 
「……あ!」
 
 昨日祥子さまに「六時に起床」と言われたのを思いだして、一瞬で目が覚めた。ちょっと大きな声を出してしまったから、聖さまを起こしてしまったかな、と心配したけど、相変わらず大口を開けて眠っている。鼾をかいてないだけマシだけど、とてもじゃないが聖さまファンの方々には見せられない。
 
「うーん……」
 
 ギュウ、とまた聖さまが抱き付いてくる。もしかしたら、ぬいぐるみを抱き締めながら寝ているというのは、方便じゃないのかもしれない。
 祐巳が苦労して聖さまの腕から逃れると、今朝朝食を作ると言う約束を言い忘れていたことに気付いた。流石に起こしてまで、「朝食作りませんか?」とは訊けない。
 祐巳は、そっと聖さまに布団をかけ直してから、部屋を出た。ひんやりした廊下を抜けてロビーに出ると、そこには既に祥子さまがいた。
 
「……おはよう、祐巳」
「おはようございます、お姉さま」
 
 リリアンでは『ごきげんよう』だけど、ここでは『おはよう』。そんな変化が、妙に楽しく感じられる。
 朝に弱い祥子さまは、やはり低血圧気味のようだ。昨日あれだけ寝たからと言って、改善されるものでもないらしい。
 
「お姉さまは、何をしているんです?」
「暖炉に火をいれていたのよ」
 
 暖炉の中では、パチパチと火が爆ぜている。だんだんと火が大きくなってきて、次第にロビー全体も温まってきた。
 
「暖炉って、ストーブとかよりも暖かい気がしますね」
「その格好では、そうだと思うわ」
 
 言われて、自分の身なりをチェックした。そう言えば、急いで部屋を出てきたからパジャマのままだった。
 
「私、着替えてきます」
「急がなくてもいいのよ」
 
 祥子さまは朝の低血圧を吹き飛ばすように、ふんわり笑った。そう言ってくれているけど、お姉さまを待たせるわけには行かない。
 部屋に戻ると、急ぎつつも聖さまを起こさないように、静かに着替える。それからロビーに戻ると、何故か祥子さまは外に出て行くような格好をしていた。
 
「あの、朝食を作るんじゃないんですか?」
「その前に朝の散歩をしようと思うのだけど。祐巳は嫌?」
「いいえ!」
 
 そんなの、嫌なわけがない。飛びつくようにダッフルコートを手に取ると、「それじゃ寒いでしょう」って、祥子さまは自分のコートを貸してくれた。代わりに祥子さまは、清子小母さまのコートを着込む。
 
「ところで、聖さまは?」
「えっと、昨日声をかけそびれてしまって」
「そうなの? それじゃ仕方ないわね」
 
 祐巳が厚手のミトンをつけていると、祥子さまはおもむろに玄関の戸を開いた。そこから流れ込んだ空気は、昨晩外に出た時よりもずっと冷たい。身がすくむ、なんてものじゃない。もう、凍りつきそう。
 
「行くわよ」
「は、はい」
 
 祥子さまは懐中電灯のスイッチを入れながら、外へと踏み出す。
 午前六時過ぎ。当然のように、辺りは暗い。そう言えば、雪山で一番寒い時間は明け方だって聞いた覚えがある。どうしてそんな時間に散歩するのか分からなかったけど、きっと考えがあってのことだろう。だから祐巳は、黙って祥子さまの背中を追った。
 
「祐巳、寒い?」
 
 ギュム、とベランダの階段に積もった雪を踏みしめながら、祥子さまは聞いてくる。雪は、降っていない。
 
「はい、かなり」
「もっとこっちにいらっしゃい」
 
 階段を下りきると、祥子さまは祐巳の肩を抱いて引き寄せた。その拍子に祐巳は祥子さまの腕をとったけど、あまりに自然な動作だったから、そのことに後から気付いたぐらいだった。
 
「……」
 
 無言で雪の道を歩く。一見道なんかないように思えるけど、祥子さまにはちゃんとした道なんだろう。
 薄暗い山の中は少し怖くて、物凄く寒い。それでも、何だか満ち足りた時間だった。
 
「斜面が急だから、気を付けるのよ」
 
 はい、って返しながらどんどん坂を下っていく。道すがら祥子さまは、ここらへんに生えている木は全部白樺だと教えてくれた。
 
「さあ、着いたわ」
 
 急な斜面を斜めに切るように下りて、辿り付いた場所。そこは、白樺の木がそこだけ切って取られたかのようになくなっている、広場のような場所だった。
 
「ここに何かあるんですか?」
「すぐに分かるわ」
 
 祥子さまは、ロッジのある山とは対面の山脈を見ながら言ったので、祐巳も真似してその山脈を見続けた。するとその山脈の稜線が作るスカイラインの上の辺りが、色を帯びてきた。
 オーロラとか、そういうものじゃない。それは今にも山脈の向こうから顔をだそうとしている、太陽が作り出す空の絵画。だんだんと色がはっきりしてきて、空には美しい黄色と橙色のグラデーションが出来上がった。
 
「凄い……」
「でしょう?」
 
 祐巳が目をまん丸にして呟くと、祥子さまは満足そうに笑った。
 空の色は、どんどんと鮮明になっていく。寒くて、寒くて。身体を震わせているくせに、一歩も動きたくないぐらい綺麗だった。
 
「祐巳は初夢を見た?」
「いいえ、見てないです」
 
 そう言えば、折角作った帆掛け舟を枕元に入れるのを忘れていた。それに聖さまの寝返りに一々起こされていたから、夢どころか寝た気がしないのだ。
 
「私はね、祐巳の夢を見たわ。こうやって二人で朝焼けを見る夢よ。今の祐巳みたいに、夢の中の祐巳も凄く目を輝かせていたの。だから初夢を正夢できたらいいかと思って、ここに連れてきたのよ」
 
 初夢を正夢に。
 祥子さまったら意外とロマンチックだ。祐巳は自分の夢を見てもらえたことに加えて、それが余計に嬉しくって、絡めたままの腕に力を入れた。
 
「でも、よくこんなスポットを知っていらしたんですね」
「昔お父さまに、ここに連れてきてもらったことがあったのよ。私が中等部の頃だから、もう三年も前のことね」
 
 淡い色に焼けた空を見詰めながら、祥子さまは懐かしむように言った。
 祥子さまの男嫌いは親族の女性関係が原因だとは聞いているけど、だからと言ってお父さまやお爺さまが嫌いってわけじゃないんだって、その表情で分かった。
 
「そろそろ戻りましょうか」
 
 祥子さまがそう言ったので、踵を返す。顔を出した太陽が足元の雪を照らして、それも綺麗だった。
 
「……あ」
 
 広場のような場所を後にする間際、ささっと動く影が視界に映った。イタチのような姿に、純白の体毛。尻尾の先端部分だけが黒い、愛らしい動物。
 
「オコジョね」
 
 祥子さまが微笑して言った。
 
「オコジョ、ですか」
 
 名前を聞いたことは多々あるけど、実際に見るのは初めて。祐巳は少しだけオコジョに近寄って、しゃがみ込んだ。逃げてしまうかな、と思ったけど、意外や意外。なんとオコジョの方からも歩みよってきて、祐巳の顔をしげしげと眺めたのである。
 
「人里離れた場所にしか生息しないから、人間に対する警戒心があまりないのよ。オコジョって元々、好奇心旺盛だと聞くし」
「へぇ……。お姉さま、よくお知りなんですね」
「人から聞いた知識よ」
 
 祥子さまはしゃがみ込んで、オコジョをじっと見たまま言う。顔には出さないけど、これも祥子さまのお父さまから聞いた話なんだろうな、と思った。
 
「食べ物とか、持ってきて上げればよかったですね」
「食べ物ね。……確か、肉食だったと思ったけれど」
「え……」
 
 肉食ってことは、このオコジョという生物は愛らしい顔をしつつも、結構獰猛な性格かも知れないということだ。見た目と中身が違うのって、何も人間だけではないらしい。ふと由乃さんの顔が、頭の片隅に浮かんだ。
 
「さあ、そろそろ戻らないと、朝食を作る時間がなくなってしまうわ」
「あ、はい」
 
 祥子さまが颯爽と立ち上がると、オコジョは道を開けるように走り去ってしまった。
 それがちょっとだけ、寂しかった。
 
 

 
 
「あ、おかえりー」
「せ、せせせ」
「セクハラはいけません。と言いたいのか、きみは」
「違いますっ。聖さまが……」
 
 ロッジに戻ってキッチンに入ると、そこには聖さまがいた。エプロンを付けて、鼻歌なんか歌って、料理していた。
 だから先ほどの「せせせ」は、祐巳が驚き間誤付いて発音できなかった「聖さま」である。
 
「私が、何?」
「……料理しているなぁ、って」
「あら、そんなに驚くなんて失礼しちゃうなぁ。てっきり祥子と一緒に作ってるのかと思ったら、居ないんだもん。お腹減ったから自分で作ってただけだよん」
 
 聖さまはスープ(になることが予想される液体)に切った野菜を入れる。それからまだ祥子さまがキッチンに来ていないことを確認してから、祐巳に耳打ちした。
 
「朝のお散歩はどうだったのかな? 手ぐらい握った?」
「……握ってません」
 
 手を握る代わりに、腕を組んだりしていたけど。聖さまがそれを知ったら絶対に茶化してくるので、あえて言わないでおいた。
 
「あらら、折角邪魔しなかったのに」
 
 聖さまの言葉に、祐巳ははっとした。
 
『明日は、邪魔しないから』
 
 昨晩、眠りに落ちる間際に聞いた声は、やっぱり聞き間違えではなかった。ついでに寝言でもなくて――つまりは聖さまは寝たフリをしていただけなのだ。
 自分がタヌキ顔だと自覚しているだけに、タヌキ寝入りに騙されるなんて、冗談がきつい。
 
「昨日、本当は起きてたんですね」
「祐巳ちゃんの寝顔、あんまり可愛かったから、使い捨てカメラで撮っちゃった」
「せ、聖さまっ!」
「祐巳、朝から何を大声出して……あら、聖さま。おはようございます」
 
 絶妙のタイミングで、祥子さまがキッチンに顔を出した。どうやら部屋着に着替えていたらしい。
 
「おはよう、祥子。朝ご飯ならほとんど出来てるよ」
「それは申し訳ないことをしましたわ。祐巳」
 
 祥子さまが急いでキッチン台に向かったので、祐巳も慌てて朝ご飯の用意を手伝った。
 パンを焼いたり、お茶を淹れたりするぐらいしか残っていなかったけど。祥子さまと一緒に作る朝食というのは、いかにも合宿って感じがして、この上なく楽しいのだった。
 
 

 
 
 祥子さまはロビーのソファで食後の紅茶を一口飲むと、こう言われた。
 
「行かないわよ」
「へっ?」
「だから、行かないって言ったの。それよりその間の抜けた受け答え、やめなさいね」
 
 間の抜けた受け答え――と言われても、これは仕方ないんじゃないかと思う。だってスキー合宿にきてスキーに行かないなんて言われたら、誰だって気が抜けるじゃないか。
 祐巳はクォーツブルーのウェアをシャカシャカといわせながら、ソファから身を乗り出す。ちなみにこれは、ロッジに置きっぱなしにされていた、祥子さまのお下がりである。
 
「そんな。お姉さまがスキーを教えて下さると思っていましたのに」
「あら、祐巳はスキーをしたことがなかったの?」
「はい。……あ」
 
 そこで重大なことに気付く。祥子さまは、祐巳がスキーをしたことがないと知らなかった。ついでに、スキーを教えてくれると約束したわけでもない。
 なんたる思い込み。自分の手際の悪さに、『お姉さまのお下がりなんて、本当の姉妹みたい』と浮ついていた気分が、一気に地に落ちてしまった。
 
「どうしてお姉さまは、スキーに行きたくないんです?」
「人ごみが嫌だからよ」
 
 ああ、なんて単純明快。あんまりきっぱり言われたので、ついそうですか、って納得しそうになる。
 
「お待たせ。あれ、なんで祥子はまだ着替えてないの?」
 
 ひょっこりとロビーに姿を現した聖さまは、やはりウェア姿。こちらは祥子さまのお父さまのものらしく、かなりぶかぶかのようである。
 
「私は、スキーには行きませんから。祐巳は聖さまに教えて頂いたらどう?」
「うーん、それは私が困るなぁ」
 
 顎に手をやった聖さまは、「だって」と続けた。
 
「私、スキーやったことないもの。祥子がやったことあるって言うから、教えて貰う予定だったのよ」
「えっ。聖さま、確か祥子さまに『スキーに行きたい』って言ったんじゃありませんでしたっけ?」
「うん、言った。でもスキーができるとは一言も言ってないよ」
 
 思いだしてみれば、確かに聖さまは「スキーができる」とは言っていない。ということは、またもや祐巳の思い込みだったのだ。
 
「だから、祥子に来てもらわないと困る」
 
 そう、困る。スキー未経験者が、コーチもなしに滑れるとは思えない。聖さまの加勢も得て、祐巳もこの際だからまくしたてる。
 
「お正月だから、きっとスキー場も空いてますよ。だから、お姉さま」
 
 一緒に行きましょう。そう続けようとした所で、祥子さまは祐巳の口の前に片手を当てた。
 
「分かったわよ、行けばいいんでしょう」
 
 仕方ないと言った風に立ち上がる祥子さまを見て、祐巳はやった、と手を打ち合わせた。
 だって祐巳たちだけスキーに行って、祥子さまはロッジに残っているなんて、寂しすぎるじゃないか。
 
「あら、もう出掛けるの?」
 
 ふわり、と清子小母さまがロビーに顔を出した。かく言う清子小母さまも、こげ茶色のストールをまいたりなんかして、お出かけルックだ。
 清子小母さまは最初からスキーをするつもりがないと言っていたから、スキーではないはずだけど。
 
「ええ。清子小母さまも、お出掛けですか?」
「私はこれから、向井さんとお茶の約束があるのよ」
 
 向井さんって誰? という視線を彷徨わせていると、聖さまが「管理人さんの名前だよ」と教えてくれた。
 
「それじゃあお母さま、晩御飯までには戻りますので」
「分かったわ。美味しい朝ご飯のお礼に、温かい晩御飯を作って待っていますからね」
 
 そう言って微笑した清子小母さまには、大変失礼だとは思うけど。
 祐巳は夕食が夜食にならなければいいな、なんて考えてしまった。
 
 

 
 
 ロッジからスキー場まで、徒歩十分と少し。立地条件に恵まれて入るように思えるが、これが中々厳しい道のりだった。
 慣れない山道をスキー板とスキーブーツを担いで上るのは、大変な重労働だと重い知った。
 祥子さまはというと、スキー用具一式を祐巳に貸してしまったため、向こうでレンタルすることにしているから、ほとんど手ぶら。どうせレンタルするなら私の方が、と祐巳は進言したけど、もうサイズが合わないからと断られてしまった。
 
 そうしてついたスキー場で祐巳達を待っていたのは――レストランの前に林立するスキー板たちだった。
 正月三が日とは言え、結構な人出である。
 
「……やっぱり」
 
 溜息混じりに言う祥子さまは、少なくとも以前にこういう状態と出くわしたということか。
 祐巳は何故こう人が多いのか推理する。祐巳と同じ考えで、空いているだろうと思ってきたのか、それとも年越しスキーツアーか何かなのか。多分どちらも当たりだろう。
 
「さあ、午前中はリフトには乗らないで、基礎からね」
 
 スキー板とウェアをレンタルしてきた祥子さまは、スキー板を真っ白い地面に突き刺しながら言った。
 
「はい、コーチ」
 
 聖さまが何故か敬礼して言ったので、祐巳も真似して「はい、お姉さまっ」と言った。それを見た祥子さまは、くすりと笑った。
 

 
 ――まずはプルークボーゲンが出来るようになるまで練習ね。
 コーチである祥子さまに連れられて、スキー場の端で行われた練習というのは、初心者にとって過酷なものだった。
 プルークボーゲンというのはスキー板をハの字にして滑る技術で、初歩の初歩であるわけだけど、やはり何度もこけた。まずスキー板を履く時に二回、斜面を登ろうとする時に四回、いざ滑べりだして五回。雪の柔らかさを、これほどありがたいと思った日はない。
 
「いい? 止まるときは板のエッヂを使って止まるのよ」
 
 祥子さまの実演を見ながら、何度も練習を重ねた。午前はリフトを使わないとのことなので、登っては滑り、滑っては登りの繰り返し。聖さまは早々にプルークボーゲンを体得し、「もっと膝を曲げて」とかアドバイスをくれた。
 聖さまがプルークボーゲンを覚えるのにかかった倍の時間を経て、祐巳もどうにか滑れるようになったのは、午後一時に近づいた頃だった。
 
「それじゃ、リフトに乗って上まで行きましょう。下る途中にあるレストランで食事、それでいい?」
「は、はい……」
「やっとコースで滑れるのね。楽しみ楽しみ」
 
 祐巳と聖さまはまったく逆の反応を示しつつ、リフトの半日券を買う。三人掛けのリフトに乗る時も、やはり祐巳はこけた。もう一年分はこけた気がする。
 
「あのレストランで、食事にしますからね」
 
 祥子さまがストックで指した先にあるのは、白い建物。スキー場の中腹に建てられたそれは、なるほど人入りが少なそうである。
 
(それにしても)
 
 リフトがこんなに高い所を通っていくなんて、初めて知った。外からみる限りは低く見えるのに、いざ乗って見ると結構怖い。
 白樺の木に積もった雪。
 突き抜けるような蒼穹。
 スキー場を縫うように走る、細い川。
 それらは皆美しかったけど、ろくに楽しめたものではない。祐巳は『3/11』とポールに書かれた数字が増えていくのを、安全バーを握りながら祈るだけだった。
 
「それじゃ、先に行って待っているから」
 
 リフトから降りるなり、祥子さまはそう言って雪の斜面を滑走していった。
 ――格好いい。たった一度スキーをしたことがあるだけなのに、どうしてもああも上手く滑れるのだろう。
 
(それにしても、置いてけぼりの私たちはどうすれば)
 
 残された祐巳と聖さまは、その勇姿を目に焼き付けるばかりである。初心者を放って先に行ってしまう祥子さまって、かなりのスパルタだ。
 後々聞いた話によると、こけるのを怖がってばかりの初心者は、一度突き離して滑らせてみるのが、一番効果があるんだとか。
 
「それじゃ私も行こうかな。祐巳ちゃん。私の滑りっぷり、よーく見ててよ」
「はあ……」
 
 同じ初心者であるというのに、聖さまは凄い自信だ。こんな風に怖がらないことが、上達の道の一つだとは思うけど、真似はできそうにない。
 聖さまは遥か下方でストックを振る祥子さまに手を振り返し、滑りだした。――凄い、いきなりスピードを出していっている。それから祥子さまの真似をしてパラレルターン……をしようとして、盛大にこけた。あれは五メートルは飛んだんじゃないだろうか。スキー板が、右足だけ外れてしまっている。
 聖さまはおっかしいなぁ、とでもいいたげに頭をかいて、また滑りだしていった。今度はボーゲンで、ゆっくりと。
 無事祥子さまの元へと辿りついた聖さまは、大きくストックを振った。
 
(……ついにこの時が来てしまった)
 
 シャア、と雪を切る音とともに、凄いスピードで横を通り抜けて行くスキーヤーやスノーボーダー。スキーヤーの中には、ロマンスグレーというのだろう、白髪の老人までいらっしゃるではないか。
 
(若いもんが足踏みしていてどうする)
 
 祐巳は年寄りにでもなったつもりで、自分を叱咤した。
 行くしかないのである。祥子さまの元へ、そしてお昼ご飯の元へ。
 祐巳はゆっくりとストックを手繰り、純白の斜面へと躍り出た。
 
「うわっ、わっ」
 
 しかし、勢いがよすぎたのか。ボーゲンのハの字を忘れたわけではないが、スキー板が平行になって戻らない。加速していくほど、ハの字にするのが困難になっていく。
 
『スピードが出そうになったらこけなさい』
 
 祥子さまの言葉が頭の中を過ぎったけど、身体が言うことを聞かない。
 
(こんな速さでこけろなんて、そんな)
 
 スピーカーから流れているウインター・ソングは、瞬く間に遥か後ろへと流れていく。
 こけるぐらいなら、なんとかスピードを抑える方がいい。そう、ザクッと雪にエッヂをたて、曲がり、スピードを殺す。
 TVで見たように上手くは行かないだろうが、それでもいい。――意を決して、右足に重心を傾ける。
 
「うあっ!?」
 
 しかしまだまだ練習不足の初心者。曲がり過ぎて、気付いたらゲレンデの上で寝転んで青空を見ていた。
 
「いったた……」
 
 想像していたより痛くない。でも、痛いものは痛い。のそりと起き上がってレストランの方を見ると、聖さまの肩が上下していた。思いっきり笑っているに違いない。
 
「……」
 
 悔しいので、これ以上痛がっている素振りは見せない。
 ――あのスピードでこけてもこれぐらいなら、大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて、祐巳はまたボートを漕ぐ様に、ストックを手繰った。
 
「よーし」
 
 今度はしっかりとハの字を保って、ゆるゆると坂を下りる。あと五十メートルで、祥子さまと聖さまが待つレストランの前に辿り着く。
 あと四十メートル、あと三十メートルで、安息の時が訪れる。――その気の緩みがいけなかった。
 
「あ? ああっ」
 
 あと二十五メートル。そんな所で、突然スピードが出始めた。
 
「祐巳ちゃーん」
 
 聖さま、暢気に手を振っている場合じゃありません。
 
「聖さま、避けてーっ!」
 
 ハの字がだんだんニの字になってくる。聖さまは、何故か両手を広げて待っている。
 
「エイドリアーン」
 
 間違っている。聖さまらしい冗談と言ったらそうだけど、この状況でそれは間違っている。
 祥子さまと聖さまが目を見開いた。周りに居た人達も、然り。
 ――こけなきゃ。
 そう思った時には、祐巳はもう聖さまの胸に飛び込んでいた。
 ドゴスッ。って、祐巳自身が右ストレートになったみたいに。
 
「いったぁ……」
「あいたたー……」
 
 またもや青空を仰ぎながら、祐巳は思う。
 ドラゴォー、って言っておけばよかったかな、と。
 
 

 
 
「聖さま、あの時どうして避けなかったんですか?」
 
 祐巳がカレーをスプーンですくいながら言うと、祥子さまも聖さまを注視した。
 
「いや、ぶつかりそうになったらこけるか、突っ込んできたら抱き止めてあげようと思ったんだけどね」
「そんな風に上手くいくはずがないでしょう。私、寿命が縮みましたわ」
 
 スパゲッティをフォークに巻きつけながら、祥子さまは聖さまを諌めた。
 午後一時十三分。コースの途中にあるという立地条件のせいか、レストランは想像よりずっと空いていた。席を探して彷徨い歩くなんてこともせず、悠々と席につけたのだ。最初は結構な人出だと思っていたけど、そこはやっぱりお正月。自分が感じているより、実際の客数は少ないらしい。
 
「祐巳ちゃんなら軽いから大丈夫だと思ってたんだけどなぁ」
 
 ラーメンにのったメンマを箸で摘みながら、聖さまは言った。重力加速度とか、考えなかったのかな、この人は。
 
「あ、そう言えば見た? すっごくスキーの上手いお爺さん」
「ああ、そう言えばいましたね。私の横を、凄いスピードで滑っていきました」
 
 祐巳はさっき、一人ゲレンデに残された時のことを思い出した。白髪のお爺さんが、颯爽と滑り降りていったのだ。
 
「その方って、もしかしてあの方?」
 
 あの方? って祐巳たちは祥子さまの視線の先を追う。レストランの外では、今まさにそのお爺さんがいるではないか。
 そう、あの時のように颯爽と。――担架に乗って。
 
「あのお爺さん、ケガしたみたいですね」
 
 気の毒に、と聖さまは呟いた。
 
「あのようにいつケガをしてもおかしくないんですから、くれぐれもさっきみたいな無茶はしないで下さいね」
「はーい」
 
 聖さまはちゅるちゅると麺を啜りながら言った。
 祥子さまのスキー教室は、まだまだ始まったばかり。
 祐巳は「どうか無事に帰れますように」と。遥か遠い地のマリア様に、こっそりお祈りしたのだった。
 
 

 
 
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