■最終話 『Say Good-bye to White Land』
 
 
 
 
 
 めそめそと。
 誰かがすすり泣く声で、祐巳は目覚めた。
 
「あれ……」
 
 ここはどこだろう。自分の部屋じゃない。
 木製の机、椅子、そして今自分のいるベッド。
 
(そうだ、祥子さまの別荘に来ているんだった)
 
 のそりとベッドから起き上がる。――と、右手に引っ張られるような抵抗がかかる。
 
「お姉さま?」
 
 その抵抗のもとは、他でもない祥子さまが、祐巳の右手を握っているからだった。
 
「祐巳……?」
 
 ゆっくりと祐巳の方を向いた祥子の顔を見てびっくり。一体どうしたんだというぐらい泣き濡れて、血の気が失せていた。
 
「あの……?」
「祐巳。……ああよかった。祐巳――」
 
 ぎゅうう、って、力いっぱい抱き締められる。痛いぐらいだったけど、こうしていた方がいいだろうって本能的に思って、祐巳はそのまま動かないでいた。
 
「本当に、心配したのよ」
「あの、私」
 
 何かしましたか? と訊こうとして、不意に思い出した。ここで目覚める前の、あの吹雪の中でのこと。
 
「すぐあなたを見付けれなかったら、今頃どうなっていたか」
「その、……ごめんなさい」
 
 祥子さまをこんなに心配させて。こんなに憔悴させて、何て不届きな妹だろう。
 頭を下げて謝りたかったけど、抱き着かれていてそれもできない。仕方ないので、祐巳はゆっくりと祥子さまの髪を梳いた。
 
 長い抱擁の後。
 暫くすると、聖さまが湯気のたつ桶を持ちながら、祐巳の部屋に入ってきた。
 
「あ、――祐巳ちゃん!?」
 
 駆け寄って、祐巳の身体に異常がないか確かめる。それから聖さまは、桶のお湯につけたタオルで足とか手とか、冷たくなっている所を暖めてくれた。
 
「よかった、無事で。ちょっと清子小母さまを呼んでくるね」
 
 聖さまが部屋から顔を出して清子小母さまを呼ぶと、程なくして清子小母さまも部屋に現れる。
 ああ。――と一言漏らすと、清子小母さまは目尻をぬぐった。
 
「もう、お母さまったら」
 
 さっきまで自分だって泣いていたのに、祥子さまは澄まして言った。頬に涙の後が見えるけど、もうすっかりいつもの祥子さまである。
 
「本当によかったわ。祐巳ちゃんが居なくなって、祥子さんまで追いかけて外に行ってしまって。祐巳ちゃんがすぐに見つからなかったらって思うと、ぞっとするわ」
 
 それから清子小母さまと聖さまは、祐巳が今に至るまでの経緯を話してくれた。
 祐巳が外に出てすぐ、ロッジが停電したこと。それが直った後、祥子さまが祐巳を探しに出たこと。ロッジから比較的近くで、祐巳を発見できたこと。
 
「祐巳ちゃんが倒れていた原因ね、貧血と寝不足だったんだって。救助隊の人が安静にしていたらすぐ治るって言っていたのに、祥子ったら泣きじゃくっちゃって」
「な、聖さま!?」
「何よ、事実でしょうが」
 
 聖さまは笑ってそう言うけれど、祐巳は目尻にのった小さな涙を見逃さなかった。みんな祐巳のことを、こんなにも心配してくれている。温かさと優しさが身に染みて、祐巳まで泣きたくなってきてしまった。
 
「とりあえず、今日はもう休みなさい。眠れるまでここに居るから」
 
 祥子さまはそっと肩に手を置いて、祐巳をベッドに倒した。
 おやすみ、と言い残して聖さまと清子小母さまが部屋を後にする。
 
「おやすみなさい、お姉さま」
「ええ、おやすみ」
 
 祥子さまは微笑して、祐巳の手を握ってくれていた。
 それが何だか無性に安心して、身体全体が包まれているような気がして。
 たゆたうような感覚の中、祐巳はゆっくりと目を閉じた。
 
 

 
 
「あーっ!?」
 
 翌朝。
 洗面所の鏡の前に立った祐巳の叫び声が、ロッジに木霊した。
 
「な、何? どうしたの?」
 
 何事、と聖さまが寝間着姿のまま、洗面所にあらわれた。
 
「鼻が、鼻がっ」
「はな? ああ」
 
 あーそれね、と言うように、聖さまは一気に興味を無くしたような態度になる。
 こっちは一大事だって言うのに。
 
「鼻先の凍傷でしょ? 一ヶ月以内には治るって言ってたよ」
「凍傷、一ヶ月……」
 
 ショックが冷めやらぬまま、祐巳はもう一度鏡を見た。祐巳の鼻の先は、凍傷で黒くなってしまっていたのだ。さながらタヌキのようだと、祐巳は自虐的に思った。
 
「一ヶ月も、このまま……」
「一ヶ月以内だってば。ほらほら、顔洗ったら撤収準備」
 
 聖さまに急かされて、祐巳は顔を洗って部屋に戻った。
 滞在期間はたった二泊三日だったということもあって、荷物をまとめるのはすぐに終わる。祐巳が荷物を持って廊下に出ると、ちょうど祥子さまも荷物を持って出てきたところだった。
 
「祐巳、忘れ物はない?」
「はい、大丈夫です」
 
 ベッドの下まで忘れ物がないか確かめたから、その点はばっちり。――と思ったら、一つ忘れていることがあった。
 
「ええっと……。一つだけ忘れていることが」
「忘れていること?」
「……私、祥子さまとお風呂に入ってないな、って」
 
 言った後、急に頬が熱くなった。一体何言ってるんだ、恥ずかしいって、今更数秒前の自分を諌めた。
 
「あら、それなら大丈夫よ」
「大丈夫……?」
「昨日は私が、祐巳の身体を拭いてあげたから」
 
 それって――と。思考が凍りついた。
 祥子さまが、祐巳の身体を、拭いた。
 何がどう、大丈夫だって言うんだ。
 
「とととと、ということは、祥子さまはその、私のは、裸を」
「ちょっと、祐巳。何を言い出すの」
 
 祥子さまは祐巳を真似したみたいに赤くなって、祐巳の頬に両手を当てた。
 
「し、仕方ないでしょう。妹の面倒をみるのは、姉の役目なんだから」
「あ、えっと、その。はい……」
 
 祐巳なんかもう耳まで真っ赤になって、俯いた。不可抗力とは言え、自分の意識がないところで、お姉さまにこの身体を晒してしまうなんて。
 顔から火が出そう、とはよく言ったものである。
 
「おーいそこのラブラブ姉妹。もうお迎えが来てるよ」
 
 聖さまの声に、はっとして振り向く。ロビーの向こうに見える玄関では、いつもの運転手さんが荷物を持って待機していた。
 
「い、今行きますっ」
 
 祐巳が言うと、祥子さまは慌てて頬に当てていた手を離した。
 ――まったくこの合宿、どこからどこまでも、気が休まる暇がない。
 
 

 
 
「それでは、発車します」
 
 祐巳が車に乗り込んでドアを閉めると、車はゆるやかに速度を上げる。
 二泊三日のスキー合宿も、もう終わりを迎えようとしていた。
 
「何だかあっと言う間でしたね」
「それだけ楽しかったってことでしょ?」
 
 行きと同じく一番後ろの席に座った聖さまは、祐巳を後ろから抱きすくめた。
 
「ちょっと、聖さまぁ」
「私も祐巳ちゃんと遊べて楽しかったなぁ」
 
 振りほどこうともがく祐巳を見て、祥子さまはすっと目を細める。今日はいつものようなお咎めはなくて、ただただ優しい視線を送るだけ。
 
「あ」
 
 車が広場から出ようと一時停止したところで、祐巳は外にいる「あれ」に気がついた。
 
「見てください、昨日のオコジョですよ」
 
 やっとのことで聖さまの呪縛から逃れ、祥子さまの手を引く。
 
「まあ」
「昨日のオコジョ?」
 
 祥子さまは口に手を当て、聖さまは首を傾げる。
 
「そっか。祐巳ちゃん、あのオコジョを追いかけて外に出ていったのね」
「はい」
 
 振りかえしてこないとは知りつつも、祐巳はオコジョに向かって手を振った。するとオコジョは顔をクッ、クッと左右に動かして、それが手を揺り返してくれたみたいに見えて、何だか嬉しかった。
 車が発進するのと同時に右折して、オコジョがどんどん遠くなっていく。祐巳はその姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
 祥子さまは手を振りこそしなかったけど、感慨深げな視線を外に投げていた。まるで誰かを見送るような目は、きっとこの地に別れを告げているんだろうなって、祐巳は思った。
 
「私はもう眠るわ」
 
 祥子さまはひざ掛けを肩までかけて言った。
 
「私も。やっぱり昨日で疲れたわ」
「あれ、聖さままで寝ちゃうんですか?」
「うん。ねえ祐巳ちゃん、子守唄歌って」
「えー」
 
 祐巳たちのやり取りを聞いていた清子小母さまは、助手席からくすりと笑った。
 カタン、カタン。
 小さな揺れがまるで電車みたいで、祐巳まで眠くなってきた。五分もすると、聖さまはまたも大口を開けて眠りこけていた。
 
「う……ん」
 
 ちょっとだけ急なカーブに差しかかった時、ぐらりと祥子さまの身体が傾いて、祐巳の肩に頭をのせた。昨日はずっと祐巳のそばで看ていてくれたから、あんまり寝てないのだろう、祥子さまはもうぐっすりと眠りに落ちていた。
 カタン、カタン。
 小さな揺れが、眠りを誘う。
 起きているのが辛くなってきて、何度か意識がジャンプした。またカーブに差し掛かって、今度は祐巳が祥子さまに寄りかかってしまったけど、もう姿勢を正すのも億劫だった。
 
(ちょっとだけ、肩をかしてもらおう)
 
 祥子さまの肩をかりて、微睡みへの道を辿る。
 二人寄り添って、ゆるゆると眠りに落ちる。
 
 ちらちらと、雪が舞う中。
 大好きなお姉さまの隣で、大好きなお姉さまの夢をみながら。
 白き大地の物語は、静かに幕を下ろしたのだった――。
 
 

 
 
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